第二章 組織

第二章 組織

 自分の前に立っている男の放った拳がボディに食い込む。空っぽのはずの胃袋から液体が逆流し、思わず吐き出した。下げてしまった頭を目がけて再度振るわれた拳を見ることはできなかった。頭に衝撃が走り一瞬視界が暗くなる。倒れそうになる体を支えるために、足が一歩、二歩と自然に移動する。腕は上がらず、ただ睨むことしかできなかった。男が距離を詰めた時にゴングが鳴り、体から力が抜ける。あぁこれは夢だ。悪い夢だ。

 自分のコーナーに戻ると、これ以上は危険だと喧しくセコンドが叫ぶ。もはやその声は伊上に届いていなかった。肩で呼吸をしながら相手を見ていた。不健康に焼けた黒い肌に、アンバランスに膨張した筋肉を持つ相手は遥かに格上で、勝てる見込みは1ラウンド目からありはしなかった。ただ負けられない。剥き出しの闘争心は持ち合わせていないが、激しい怒りだけがそこにあった。もはや痛みがない箇所の方が少ない体を奮い立たせるとゴングが鳴った。それは高校3年の時の話で、ボクシングを辞める原因になる試合だった。


 聞きなれない電子音が聞こえ、伊上ははっと目を開けた。さっきまでと違うのは窓から外の景色が見えることだった。横には自分と同じように眠っていたらしい村瀬が、腕を伸ばし大きな欠伸をしていた。

「目的地に到着しました」

そう告げる電子音に答え、村瀬は音声を止めるとドアを開け外に出た。伊上も続いて外に出ようとして村瀬に声を掛ける。

「靴なんて車に積んでないよな」

村瀬はそれを聞いて、トランクを開けるとそこから革靴を取り出し、伊上の足元へ置いた。サイズは合わないが贅沢は言っていられない。スエットに革靴という奇抜な服装を受け入れ、辺りを見渡すと木々の間から漏れる月の光が、伊上を照らしている。だがそれ以外の部分は暗い闇に覆われ、目が慣れるまでは先の景色を見ることはできない。

「こっちだ。着いてこい」

いつ火を点けたのかわからない煙草の煙を靡かせながら、村瀬は山の中をどんどん進んでいく。伊上は寒さを感じた。だがそれは単に薄着だったからではなく、これから起こることが予想できない恐怖から来るものだった。

 目的地は近かった。十分も歩かない内にたどり着いた鉄製の建物は、自然との共和を徹底的に拒絶し、月光を反射させていた。村瀬は入り口らしき場所に立ち、何やら小声で話すとドアが音を立てずに開かれた。手招きに応じ、建物に入ると人工的な明かりが向けられ、暗闇に慣れていた目を思わず閉じた。

「部外者を連れてくるとは、それ相応の理由があるんだろうな猿」

自分達に向けられた明かりが、銃のフラッシュライトだと気付くのに伊上は時間を必要とした。三方向から銃を向けられながらも、村瀬はポケットに手を入れ、飄々としている。

「説明する。だから部下の銃を降ろさせろ、虎」

「いつから俺に命令できる立場になったんだ?」

銃を向けている男の後方で椅子に座りながら、テーブルの上の鶏肉を頬張っている男は、村瀬を睨みつけた。部下は銃を下ろす様子はなく、村瀬の言葉を待っている。

「こいつは俺の友達だ。牛鬼の手下に襲撃された時に巻き込まれた」

虎と呼ばれた男の視線が伊上へと移る。その顔にはいくつも傷跡が刻まれていて、今まで伊上が関わってこなかった種類の人間であることを確信した。

「それでホイホイ連れてきたのか?今どんな状況だか解ってないんだろ。勝手が過ぎるんだよ」

掴んでいた鶏肉を皿に置くと、虎は立ち上がった。その2メートルはあるだろうその身長に加え、言いようのない威圧感を纏わせながら虎は近づく。そして村瀬を通り過ぎ、伊上の前に立った。

「お前、名前は?」

突然の問いかけに、伊上はすぐに答えられない。数秒経ってやっと声が出た。

「伊上、伊上樹です」

ふん、と興味がなさそうに顎髭を撫でる虎は骨董品でも見るかのように、視線を伊上の足元から顔へと移した。それが終わると、短く刈り上げた頭をかきながら息を吐く。

「猿が何言ったかは知らないが、俺らのことを知ったからには永遠に黙ってもらう必要がある」

黙ってもらう、その言葉が何を指すのか伊上にはすぐに理解できた。虎の右腕が着ているジャケットの胸ポケットに伸びた時、伊上は咄嗟に構えた。足は緊張から震えているが、何もせず死ぬことは耐えられなかった。

 伊上がとった行動を見て虎は吹き出した。口の中に残っていた鶏肉の欠片が床に落ちる。虎はゆっくりと胸ポケットから手を引き抜くのを伊上は見つめる、そこには煙草のい箱が握られていた。虎が一本を咥えると、銃を構えていた部下の一人が近づき、火を点けた。煙草がじりじりと燃える音が聞こえると、男は再び銃を構え、伊上を一瞥した。

「ボクサーかぶれに銃なんか使うかよ」

虎は首元に掛けていたネクタイを右腕に巻き付けると、指を手前に何度か引いた。到底敵わない相手だが、この状況下で伊上の頭は逃げの選択肢を破棄し、戦闘状態に入っていた。

 もう足は竦んでいない。前に出した左足に合わせて、右ストレートを放った。ゴングは鳴っていないが、伊上の動きが開始の合図だった。拳は鈍い音と共に虎の顎にめり込む。だが拳はそれ以上前に進まない。

「それで本気か?」

虎はその名を冠する獣のように素早く拳を振り抜いた。風を切り裂く音が伊上の耳元を刺す。紙一重で拳を避けた伊上だったが、その拳一つで虎との圧倒的な戦力差を思い知った。半歩後ろに下がったが、虎は獲物を逃すまいとその距離を詰める。伸ばした虎の手が伊上に触れる直前だった。

「虎、猿。君たちは一体何をしているんだ」

室内に響いたその声を聞き、虎は舌打ちをする。今まさに伊上を掴もうとしていた腕を引っ込めると、煙草の煙を吐いた。落ちた灰が目の前を漂い、床に落ちる。

「説明してもらおうか」

声の主は続けてそう言った。虎はそれを意に介さない様子で、拳に巻きつけたネクタイを外すと、伊上を指差す。

「あんたの愚息が部外者を連れ込んだ。それを俺が処理しようとしてたんですがね」

虎は伊上から視線を外し、元いたテーブルへと悠々と歩いていく。目の前の巨体が去ったことで伊上はやっと声の主を見ることができた。

 車椅子に乗った男は、白髪で五十代に見える。一見すると老人だが、その目は鷲を彷彿とさせるような鋭い眼光を放っていた。肩で呼吸をする伊上に村瀬が駆け寄る。

「伊上、大丈夫か?」

肩に置かれた手を払うと、平気だ、と言って伊上は呼吸を整えた。虎は去ったが状況は何一つ理解できす、何も変わってもいない。

「親父、こいつは俺の友達なんだ。俺のミスで巻き込まれた」

虎との会話からもしやとは思いいていたが、その情報は伊上を更に混乱させるだけだった。

「牛鬼か。まさかお前まで狙われるとはな」

「俺を殺すんですか?」

我慢できず、伊上は会話に割って入った。自分の生死が掛かっている状況でマナーなど気にできるはずがない。

「君が伊上君か。虎が勝手な行動をして悪かった。まずはそれを謝罪しよう。そして君の質問に対する答えはまだ待ってほしい」

「こいつは殺させない。親父、頼むよ」

村瀬は懇願するように親父、と強調して言った。

「これだから、組織に入れるのは早いって忠告したんですよ俺は。このアホはことの重大さを理解しちゃいない」

椅子に座りながら、虎は大声を出す。村瀬は言い返すこともなく虎を睨む。

「蛇、君の意見を聞きたい」

村瀬の父の呼びかけに応えるように、虎の向かいに座っていた男が立ち上がる。椅子が擦れる音を聞いて初めて、伊上はそこに男が座っていたことを認識した。

「本名伊上樹、年齢は二十一歳、両親は共に他界。ご子息と同じ大学に通っていて、成績、素行共に目立った問題はありません。就職活動を行っているらしいですが、進捗は悪い。特筆する点といえば、幼少期から高校卒業までボクシングをしていたようですが、暴行事件を起こして辞めたようです。以上の情報を踏まえると、組織には不向きでしょうし、処理が妥当かと」

伊上は淡々と読み上げられる自分の情報を他人事のように聞いていた。まるで作品の登場人物の話をするかのような口ぶりには現実味を感じる余地がなかった。

「暴行事件。一体何をしたんだね」

その問いかけに伊上は唇を噛み締めた。誰にだって言いたくないことはある。死ぬかもしれない状況でもそれは変わらない。

「事件の詳細でしたら」

「やめろ」

伊上は思わず叫んだ。蛇は伊上を一瞥すると、何も聞こえていないかのように視線を元に戻す。

「試合で相手を殺しかけた。それ以上でも以下でもない」

「君はそんなことをできる人間には見えないがね」

一体何がわかるんだ。伊上は続けてそう叫びたくなった。だがそれはできずただ拳を握り締めるだけだった。横に立つ村瀬と一瞬目が合う。

「伊上を俺の下に付ける。それでどうだ。親父も蛇も文句はないだろ?」

村瀬の発した言葉に呼ばれた二人は返答しない。蛇は視線を村瀬の父に向け、視線を向けられた本人はただ黙って目を閉じている。

「おいおい、俺は文句しかないぞ。こんな弾除けにすらならねぇガキは組織に二人もいらねぇんだよ」

静寂を切り裂くように、虎の声はよく響く。

「それならお前の部下はガキ以下だな。銃を持ってるだけのチンピラが」

その煽りに、先ほど伊上たちに銃を向けていた虎の部下たちが反応する。虎の前だからか勝手な行動はしないが、その威圧的な目線だけで彼らが何を考えているかは察しがついた。

「伊上、生きるには腹括るしかねぇぞ」

耳元で村瀬はそう呟くと、持っていた銃を床に落として話し始めた。

「伊上がここで虎の部下三人を倒す。それができなきゃ殺していい。俺が育てるって言っても元が弱くちゃ話にならないからな」

先ほど村瀬に言われた言葉を思い出す。伊上は目をきつく閉じ、肺の中の空気をゆっくりと吐き出した。深い呼吸が終わった後で、伊上はゆっくりと目を開ける。目前に立つのは三人の男だ。伊上はゆっくりと構えた。

 複数人を相手に戦うのは自殺行為だ。例え格闘技の経験があったとしてもそれは避けなければならない。映画で聞いた知識を身をもって伊上は体感した。単純な話、腕の数が2本と6本では攻撃も防御も話にならない。拳を避けたと思っても、続く攻撃を避けることなど不可能だ。伊上は腹に拳を受け、膝を付いた。そこに別の男の膝蹴りが放たれた。痛みは無く、一瞬の眩しさと共に伊上は床に崩れ落ちた。

 

「伊上君」

人気のない夜中の公園で、伊上は突然声をかけられた。ランニングの途中に立ち寄った公園で同級生に声をかけられることを想定していなかったので、しばらく無言で立ち尽くしていた。

「まぁ日課だから」

ぶっきらぼうにそう答えた伊上は目の前の女性が、同級生で同じクラスの美咲であることに気づいた。教室で見る姿とは大分違う姿に困惑しつつも、彼女の苗字を思い出せないことに若干の申し訳なさを覚えた。

「ボクシング?かっこいいじゃん」

美咲はブランコの柵に腰掛けながら、腕を交互に振ってシャドーボクシングの真似事をしている。

 伊上は夜中の冷たい空気が好きだった。誰の目も憚らずに自主練に汗を流せるからだ。ただ気になったのは普段見ない美咲がそこにいたことだった。

「もう夜中だ。親御さんが心配するだろ」

「警察みたいなこと言うんだね。でもそれは伊上君もじゃない?」

舌を出して、上目遣いで美咲はそう言った。無視してトレーニングすることはできなかった。

「俺、両方ともいないから」

その言葉は公園内でただ美咲の耳にだけ届いた。その後は止まりかけたブランコの擦れる音がしている。しまった、こんなことを言うべきではなかったと、伊上は口に出した後にに後悔した。

「そうなんだ。でもウチも似たようなもんだから似たもの同士だね」

美咲は無理やり作った笑顔を顔に貼り付け、伊上を見ている。ランニングでかいた汗がそろそろ乾き始めていた。

「でも家には帰らないと。警察が来たら厄介なことになる」

「そんときは一緒に走って逃げようか」

美咲は腰掛けていた柵から立ち上がると、伊上に一歩近づいた。

「俺は今走ったばっかなんだ」

自分に課したランニングを走り終えると膝が笑ってしまう。正直立って話しているのも辛かった。

「家が近くなら送って行こうか?」

伊上の問いに美咲は手を横に振った。

「平気。じゃあまた学校でね。伊上君」

そう言って美咲は小走りで公園を後にした。伊上は普段よりも冷たく感じる公園の中で、ベンチ座る。思えば美咲と始めて話をした。高校じゃ彼女は明るく誰にでも人気がある生徒だ。だが伊上はその逆だった。両親が死んだことも少なからず影響しているだろうが、必要な時以外はあまり口を開かなくなった。死んでしまっては何を話したって無駄なのだから。

 五分程度経った時、赤灯を回したパトカーが公園の近くをゆっくりと通過した。運転席の窓から見える顔馴染みの警官は伊上を見つけると、手を振る。伊上は柔軟体操をやめ、頭を下げると、パトカーは走り去っていった。その方向は美咲が走っていった方角だった。どうか彼女が見つかりませんように。そう祈って伊上はトレーニングを再開した。

 美咲との出会いはこうだった。あの時に美咲に会ってさえいなかれば、自分はもう少しだけマシな人生を送れたのかもしれないと伊上は思う。少なくともボクシングをやめる必要は無かった。


 鼻先の鋭い痛みと共に、意識が覚醒する。

 一瞬で眠っていた体に電流のように感覚が戻ってくる。目の前には意識を失う前と同じく三人の男が立っていて、自分を見下ろしている。意識が飛んでたのか、そう思うとゆっくりと視界が開け、耳に音が入ってくる。視界の端に苦い顔をした村瀬が映った。

「まだやれんのか?ボクサー」

そう言った男を睨めつけながら、伊上はゆっくりと立ち上がった。拳は既に握りしめられていて、顎に合わせファイティングボーズをとった。その拳には自分の血がべったりとついている。

「やってやるよ」

伊上はそう呟くと同時に地面を蹴った。一度倒れてしまったらもう長くは持たない。

 動き出した伊上に反応して、三人の中で一番前に立っていた男が頭を目がけて右の拳を振るう。伊上はそれを見るや、素早く左にダッキングし、脇腹目掛けて全力でフックを放った。肝臓を撃たれた男は、伊上の右方向へ倒れた。

 低い姿勢を維持し、伊上は左に立つ男へ狙いを定めた。男の繰り出した前蹴りをステップでかわして近づく。大きく足を開いたままの男の股間目がけて、アッパーカットを放つ。股間を殴られた男は大きく目を見開き伊上を睨んだが、次の瞬間には足を振るわせ顔から地面に崩れ落ちた。

 最後に残った男は地面に倒れた仲間と伊上を交互に見た。その目には若干の怯えが見て取れる。伊上が構えると、ガードの為に男は両腕を上げた。上げられた前腕目がけて、ジャブを放つ。拳骨と尺骨がぶつかる。痛みのあまり、男はガードを下げた。ここだ。ワンツーのリズムは体に染み付いたものだった。開けられたガードの隙間を縫うように伊上のストレートが男の鼻先を潰す。背中から地面に叩きつけられた男は鼻を押さえ悶絶している。

「まだだ」

倒れた男に向かい、拳を振り下ろそうとした時だった。その腕が何者かに掴まれる。

「もう十分だ。伊上」

腕を掴んだのは村瀬だった。その表情から感情を読み取ることはできない。伊上の拳から力が抜けることを確認すると、村瀬はその手を離す。

 全身から不意に力が抜け、倒れそうになるがなんとか膝に手をつき、肩で呼吸をした。呼吸を忘れていたかのように、肺が大きく膨らみ酸素を求める。いくら吸っても呼吸は落ち着かず、肺に穴が空いたのではないかと疑った。

「勝負はついたようだな」

村瀬の父はそう言うと、蛇に視線を合わせる。視線を向けられた蛇は渋々といった様子で首肯する。

「おい、こいつは一体どうゆうことだ」

虎は座っていた椅子を蹴り飛ばすと、大股で伊上と村瀬に近づいた。その間に村瀬が立ちはだかる。

「約束通り、伊上は俺の下で面倒を見る。それとも長の前で約束を反故にする気か?」

虎はその巨体が故に、村瀬たちを見下ろす形になった。その口調からは怒り以外の感情を読み取ることはできない。虎は村瀬の肩を手で押し、伊上の前に立つ。まずい、そう思ったが体はもう言うことを聞かない。

 十秒程度で、伊上の呼吸は普通に立ち上がれるまでに回復した。だが次は体のあちらこちらが痛む。虎は伊上が呼吸を整えている間に、倒れた部下たちの担ぎ、横に移動させた。一瞬担がれている男と目が合う。伊上はその目を直視することはできなかった。

「親父、約束通り伊上は殺さない。それでいいよな」

「あぁ見事な戦いぶりだった。だが今今後のことを話すには、彼はいささか疲れすぎているようだ」

そう言うと、次は大きな声で村瀬以外にも聞こえるように話した。

「今日は解散とする。詳しいこと明日知らせる。異論は認めない」

その言葉を聞くと体の隅々まで広がっていた緊張が解け、伊上はその場に座り込んだ。村瀬も同じだったらしく、伊上を見下ろすといつものように笑って声をかけた。

「お前は本当良くやったよ。流石だ」

その時だけは今日の混沌を忘れ、平凡な生活に戻ったような気がしたのだった。

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