鵺
@AmnR
第一章 始まり
第一章 始まり
東京タワーが崩れ落ちた。
十一月が始まり、服装が徐々に厚着へと切り替わる、そんな秋の日のことだった。伊上竜は大学四年生で自身の進退について迷いながら地下鉄に揺られていた。休日は家にいると終わっていない卒業論文のことが頭を支配し、何か言いたげな教授の顔が浮かんでくるのだから当ても無く外出をして逃げていた。そんな時にふと、現実逃避の一環として東京タワーが見たくなったのだった。
赤羽橋駅で電車を降り、地下鉄特有の蒸したような空気を吸いながら、地上へと続く長い階段を登り切ってすぐのことだった。目の前の横断歩道がタイミング悪く赤に変わり、空を見上げると、そこには他のビル群に埋もれながらも、その赤と白の体をこれでもかと主張する東京タワーが鎮座していた。
「あれが一番大きいタワーなの?ゴジラとかウルトラマンよりも?」
伊上の隣で同じく信号待ちをしていた子供が、隣に立つ父親に質問しているのが聞こえた。子供の視点からすればあれは余計に大きく見えるのだろう、そして伊上は自分も昔、父に同じような質問をしたことを思い出していた。
「いや、ゴジラには負けるかもな。でも東京タワーだって凄いんだぞ」
父親は子供に目線を合わせると、優しく話す。返事をする子供の嬉しそうな声が近くを走るトラックの騒音と重なる。そして信号機が青になり、歩き出した。その時だった。
遠目に見えたのは小さな閃光だった。そしてその後には鈍い衝撃音が聞こえた。スローモーションの様にゆっくりと、タワーの中央から崩れ落ちていく。高層ビルに隠れて見えなくなるとその数秒後、地響きが伊上の足に伝わった。あまりに突然の出来事に、それが現実のことだと理解が追いつかなかった。それは誰しもが同じで、騒々しかったはずの道路が静寂に包まれていた。逃げなくては。そう考えた伊上の視線はさっき自分が通った地下鉄の入り口へを映す。それは子供の泣く声と、車が衝突した音が聞こえたのと同時だった。
思わず振り返ると、横断歩道の数歩先で車が炎上している。さっきの父親は子供を必死に抱きしめている。そして目が合った。脳の危険信号は今までにないほど、強く伊上に命令している。無視しろ、その場から立ち去れと。何度か足踏みをして、伊上が下した判断は親子に駆け寄ることだった。
「この子を見ていてくれないか?俺は運転手を助けなくちゃいけない」
叫ぶように、父親が言った言葉に伊上は何度も首を縦に振った。
「このお兄さんと一緒にいるんだぞ、わかったか?」
子供の肩を掴み、そう言った父親は伊上を一瞬見ると、事故現場へと走って行った。
「大丈夫だ。ゴジラはいないから踏み潰されたりはしないよ」
子供を安心させようと、懸命に話しかけたが、既に泣いている子供とは会話はできない。父親が大破した車のドアをこじ開けると、血に濡れた腕がだらりと出て来たのを見て、伊上は子供の目を掌で隠した。そして自分自身も強く目を閉じていた。
「それはお前、中々貴重な体験だったじゃないか」
村瀬正彦が伊上の話を聞いて、最初に言った感想だった。
「お前な、不謹慎って言葉知ってるか?それにあの後電車が止まって、タクシーが拾えるまで何時間も歩いたんだぞ。そんな友人に掛ける言葉がそれかよ」
あの事件から一週間が経ち、不自然なほどにテレビのニュースから東京タワー崩壊の件は話されなくなっていた。だから村瀬のように、一過性のイベントだと考える人間がいてもおかしくはない。伊上にしても、その後の卒業論文の制作に追われていたし、就職活動でも数多の不採用を叩きつけられてそれどころではなかった。
「まぁ、よかったじゃないか。生き残れたんだから。こうして俺の家で酒が飲めるわけだしな」
そう言って、村瀬がビールを振ると、中身が無いことを示す空虚な音が静かに鳴った。
「だが肝心の酒が無くなっちまったな。買って来てくれよ」
村瀬は最後の一口を飲み干し、缶を握り潰すとそれを伊上に向かって投げつけた。おい、と言って伊上が上半身を逸らすと、目標を見失った缶は壁に当たり、床に落ちた。
「流石元ボクサーだな、こんなの朝飯前か?」
「あんなの誰だって避けれる」
伊上は高校生までボクシングをやっていたが、過去の一件でリングには上がれなくなっていた。だから大学入学を機にボクシングからは距離を置いていた。
「じゃあ、こうしよう。俺のパンチをお前が避けれなかったら酒を買いに行ってくれ」
太腿を手で打って立ち上がった村瀬は両方の拳を握りしめ、顎に合わせた。伊上もそれに合わせて立ち上がったが、本気にはしていなかった。
「ふざけんなよ。俺の方が不利だろ」
パンチは当てるよりも躱す方が難しい、伊上にはそのことが身に染みていた。だが伊上の言葉を無視して、村瀬は拳を放った。顔面を狙ったストレートを伊上は身を屈めて避ける。
「お前本気かよ」
続く村瀬のアッパーカットを避けるため、素早く後ろに下がった。だが後ろは壁で、背中を打ちつけた。リングを背にしてしまう、ボクサーにとっては危険地帯だった。だがそれと同時に染み付いた習慣が伊上の足を前へと進めた。ほぼ無意識の内に放った左の拳は村瀬の鳩尾に触れる直前で止まった。
「降参!誰かタオルを投げてくれ」
大袈裟に腕を振って、村瀬は笑った。一方で伊上は呆然と拳を見つめている。
「流石だな。俺の負けってことでコンビニ行ってくるわ」
ハンガーから上着を外すと、それを肩に抱えたまま村瀬は玄関から出ていった。伊上の耳には高まった心拍音だけが聞こえていた。
村瀬が外に出た後、伊上は座りながら自分の左拳を見つめていた。無意識に出たあの拳、現役時代も何度かあった。だめだと思った時に体が自然と動いてしまう。そして固く緊張した拳を開くと、手汗が滲み、掌の皮膚は白く滲んでいた。
気を紛らわすために、テレビを点けると夜中ということもあって面白そうな番組はやっていなかった。いくつかチャンネルを変えて、結局伊上が選んだのは無愛想な女性キャスターが淡々と情報を読み上げるニュース番組だった。
「それでは明日以降の天気です」
そう言って、映し出された映像に東京タワーは無く、灰色のビル群だけが地面から生えてきた雑草のように隙間なく敷き詰められている。しばらくその映像を眺めていると、ふとテレビの横に置かれた時計が目に入った。近所のコンビニに行くだけだというのに、随分と遅い。飲み過ぎで何処かで吐いていることも考えられたが、まだ2缶程度だ。そんなはずはない。連絡をするか、自分も外に出るかしばらく迷っていると、玄関のチャイムが鳴った。
ここは村瀬の家だというのに、何故チャイムを鳴らすのか理解ができなかったが、両手にビニール袋を持ってドアを開けられない村瀬の姿が想像できて、玄関まで向かった。
「おい、そこにいるんだろ」
その声は低く、掠れているせいでそのほとんどがドアに吸収されているように小さく聞こえた。そしてそれは村瀬の声とは明らかに違っている。
「猿が、隠れてないで出てこい」
そう言うと同時にドアが強く叩かれ、伊上は動けなくなっていた。だが頭は冷静に村瀬が出て行って鍵を閉めていないことを思い出していた。脈打つ心臓を必死で抑えながら、ドアノブに手を伸ばし、鍵を閉めようとしたが、無慈悲にもドアは開かれた。
「お前、猿じゃないな」
ドアの前に立っていた男の姿を伊上は見つめることしかできなかった。男は黒いスーツの上からコートを羽織っていて、背丈は伊上よりも高かった。そして何より伊上の目を引いたのは顔につけている般若の仮面だ。
「村瀬は今いませんよ」
絞り出した声は掠れていて、緊張から何度か息継ぎをしながら伊上は言った。
「目撃者は消すのが決まりでな。災難だと思って諦めてくれ」
ゆっくりとした動作で男は伊上の胸ぐらを掴んだ。その動きは見えていたが、男の異様な雰囲気に飲まれ反応ができなかった。遅れて動いた腕で引き離そうとするがぴくりとも動かない。男は逆の腕で、胸ポケットを探り、何かを取り出した。
それがナイフだと気づくのに時間は掛からなかった。玄関の光が反射して鈍く光る刀身が振り下ろされるところで、伊上は拳を男の胸めがけて振り抜いた。抵抗されると考えていなかった男は掴んでいた手を放し、後ろに下がった。振り抜いた拳に手応えはない、後方に下がり威力を殺された。自分よりも背丈の大きい相手とは試合はしたくない。根本的に対応できる距離が違うからだ。だがこんな状況ではそうも言ってられない。
「一般人かと思ったが、お前猿の護衛か?」
変わらぬトーンで男はそう尋ねた。答える代わりに、伊上は地面を蹴って一気に男との距離を詰めた。インファイトに持ち込むしかない。伊上はそう考えた。そうして放った二発目は男の顎を狙ったフックだった。だがその拳は男の掌に掴まれた。男はそのまま伊上の腕を捻る。伊上と男の間には1センチの距離もなかった。
「猿はどこだ?」
「猿なんか知らないね。動物園にでも行けよ」
仮面の目の部分から男の目が見えるが、そこから感情を読み取ることはできない。右腕は使えず、左だけではどうすることもできない。今こそタオルを投げてほしいと、伊上は思った。
「そいつを離せ。クソ野郎」
村瀬の声だ。思わず振り向くと、その手には銃が握られている。状況が理解できない伊上の必死の思考を待たず、村瀬は引き金を引いた。それと同時に男の体が横に飛び、伊上を掴んでいた手が離れた。
「伊上、こっちだ!」
走り出した村瀬の背中を必死で伊上は追いかける。何が起きているかを考える思考は置き去りにされた。
一度も後ろを振り返らず、マンションを地下まで降りると、そこは駐車場になっていた。ここまでは歩いて来たため、こんな場所があることを伊上は知らなかった。
「運転頼む!」
村瀬はポケットから取り出した鍵を伊上に向かって投げると、目の前の黒い車に近づいた。手がうまく開かず、取り損ねた鍵が地面に落ち、空虚な音が駐車場に響く。
「何やってんだ、早くしろ!」
怒鳴る村瀬に言い返すこともできず、鍵を拾い上げると鍵を開け、車に乗り込んだ。
「出せ!」
スタートボタンを押し込むと、低音を響かせエンジンが始動する。それと同時に目の前のインターフェイスが発光を始めた。状況を飲み込めない伊上が震える手で、シートベルトを引き寄せようとしていると、村瀬が頬を叩いた。
「シートベルトなんかいいから、早く出せこのアホ!」
動き出した車が、入り口を見つけたところでフロントガラスに般若の姿が映った。その手に握られた銃は真っ直ぐこちらを向いている。
「どうする?」
その問いかけに答える代わりに、村瀬は伊上の足を上から踏みつけ、アクセルを踏み込んだ。伊上の体がシートに押し付けられる。伊上はもはやハンドルを握ることを放棄した。
衝撃音の後に何かが転がる音を通り過ぎて車はさらに加速していく。振り返ると倒れた男の姿はどんどん小さくなっていった。
「止めろ」
村瀬の呼びかけで、伊上はブレーキを踏み込む。タイヤが甲高い音を出しシートに押しつけられていた伊上の体は自由になったが、次はハンドルに頭をぶつけそうになる。
「ここで待ってろ。エンジンは切るなよ」
そう言うと村瀬は右手に銃を持ったまま、外に出て後ろへ歩き出す。微かに動いたように見えた男の体を踏みつけると、一発、二発と銃弾を浴びせた。伊上はそれをバックミラーから見つめていた。鏡越しに見るその景色はまるで映画のようで、現実感が欠如していた。伊上が唖然としていると、再び助手席に村瀬が乗り込んだ。ナビを操作している村瀬を伊上はただ見つめることしかできなかった。
「目的地が設定されました。これより自動運転を開始します」
村瀬がナビの操作を終えると、運転席の伊上の意志とは無関係に車は動き始めた。これは本当に映画なんじゃないかと伊上は思った。
車はしばらく走っているが、既に山道に入っており、外の景色は変わり映えがなく、伊上は自分がどこにいるのか把握できなくなっていた。そして横に座る友人のこともわからなかった。
「何も聞かないのか?」
手にしていた銃にセーフティを掛け、ダッシュボードにしまうと村瀬は静かに問いかけた。まだ体から緊張が抜けきっていない伊上にはその声が小さく聞こえ、返答が遅れた。
「聞いたら答えてくれるのか?」
口の中が乾燥していて、その声は掠れていた。伊上は村瀬の目を見たが、そこから感じたのは申し訳なさだけだった。
「ここで話すわけにはいかない。けどすぐに話す時がくる。それまで待ってくれ」
椅子を倒した村瀬は腕を組んで、目を閉じた。伊上は月明かりが頼りなく差し込む景色を眺めながら今日来るはずだった面接の結果について考えていた。その時になって自分が靴を履いていないこと、携帯を忘れたことに気づいた。それに気づくと冷たくなった足の裏が痛み始める。どうすることもできず伊上も目を閉じた。闇の中で浮かび上がる般若の仮面を必死に抑えるために、瞼に力を込めた。
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