6.
架空口座に入るお金は私の想像以上だった。二等分したとしても、大学の学費くらいはすぐに貯まりそうだった。
ある昼休み、男から近くのファミリーレストランに来るよう連絡がきた。外は三十度を超えている。おまけに息苦しいほどの湿気だ。私は躊躇したが断ることもできず、流れ落ちる汗を拭いながら、指定されたレストランに向かった。
男はそこで明らかに血の気を失った顔をしていた。来月、監査が入る。すぐに証拠を消さなければ全てばれてしまう。悪いが、小遣い稼ぎは終わりだ。男はそう告げた。
私は混乱した。なぜバレるの? だってデータ上の辻褄はあっているはずでしょう?
金じゃない、取引先に対する監査だ。そう言って男は唇を噛んだ。取引先のさらにその先、いわゆるサプライチェーンに関する調査が入る。サプライチェーンのどこかに不正や倫理上の問題があれば、自社にとっても致命的となる。そのための調査だ。当然、例の取引先にも調査が入る。もしもペーパーカンパニーの存在がばれたら、あとは芋づる式だ。
またしても私は追い込まれた。この悪事を終えることには何の未練もなかったし、学費としては十分な金額が貯まっていた。男は後始末は自分がやるから心配するなと言い、私にはあの取引先への発注をストップするようにと指示した。
それから数日して男が会社を辞めたことを耳にした。自主退職とのことだった。私は嫌な予感がして秘密口座を調べたが、残高はほぼゼロだった
私はその時になって全てを理解した。私の小さな犯罪を見つけたときから、男の狙いはこれだった。体の関係など「ついで」だったのだ。私を共犯として利用し、お金はぜんぶ自分が頂く。監査が入るとことも事前に知っていたのかもしれない。だからそのタイミングに向けて退職の準備を進め、取引先とも話を合わせていたのだろう。今になって、発注手続きは男の分も含めて私が行っていたことを思い出した。
男は自分の言葉通りきれいさっぱりこの犯罪を切り上げたのだ。
男は私が訴え出ないことを分かっていたし、万が一監査で何かが出てきたとしても、調査上に浮かび上がるのは私だけだ。取引先は発注主から脅かされていたと主張するだろうし、その頃にはあの男はどこか遠くに行ってしまっているだろう。そういえば東南アジアへの赴任経験があると言っていた。
監査は予定より早く行われた。取引先から電話がきて、ペーパーカンパニーの存在が疑われているとのことだった。相手はひどく取り乱していて、どうしたらいいかと聞いてきた。しかし私に答えなんてあるはずがない。
時間の問題だった。私はあの男が許せなかった。
もしかしたら、今ならまだいるかもしれない。そんなことあるはずがないと思いつつも、私は男のマンションに向かった。絶望のあまり呆然とする私には、それ以外にできることはなかった。
電車に揺られながら色々なことを思い出していた。やがてその全てがあの男への憎悪に変わった。なんとしても私の手で償いをさせる。私は刑務所に行くだろうが、あいつが行くところはそこではない。
私は一つ前の駅で下りて、大型のスーパーに向かった。そこで柳葉包丁と魚の切り身をいくつか買った。切り身の方は店を出てすぐに捨てた。時計は午後六時を指していた。男の部屋へ行くのは暗くなってからにしよう。
私は通りにあるカフェに入った。
気温が下がる気配は全くない。
気づくと、閉店の音楽が聞こえてきた。午後八時。
私は歩きながらたくさん考えた。しかしどれだけ考えても憎悪が薄まることはなかった。
私は肩にかけたトートバッグに手を入れた。そして指先で先ほど買った包丁の感触を確かめた。
長いこと歩いた。駅一つ分だったが、この暑さの中では何倍にも感じられた。さらに坂を登りきった時には、シャツが背中にべったりと張り付いていた。おそらく顔もひどいことになっているだろう。私は汗を拭うことも忘れ、まっすぐに向かった。この道は何度も通ったことがある。男に呼ばれるまま幾度となくここに来ては夜を過ごした。
マンションの前に来ると、運よく住人がエントランスをくぐろうとしていた。私は足音を忍ばせながら、気づかれぬよう距離をおいて中に入った。
階段を登りながらもう一度バッグの中に手を入れ、今度はそれをしっかりと握ってみた。これが私の魂を救ってくれる。
予想はしていたが、何度チャイムを鳴らしても反応はなかった。電気メーターも動いていない。すべては男の計画通り。ここにいるわけなどないのだ。私はマンションを出た。もう終わりだ。何一つ手はない。
暑さも汗も、この後のことも、もう何も気にならなかった。自分が生きているのか死んでいるのかもよく分からなかった。唯一、耐え難い疲労だけを感じていた。通りには人っ子一人いない。車の音も町のざわめきもない。
公園が見えた。私は吸い寄せられるようにベンチに腰をおろした。
娘の顔が浮かんだ。
あの子は大丈夫だろうか。両親が面倒を見てくれるだろうが、結局、私は何一つあの子にしてやれなかった。それどころか私のせいで後ろ指をさされて生きていくのだろうか。私のせいで進学を諦めたりするのだろうか。
せめていくらかのお金でも残してあげたかった。
どれだけそうしていたのか分からない。近くで足音が聞こえたので、私はゆっくり顔をあげた。若い男がビニール袋を手に公園を歩いていた。目が合ったので私はすぐに下を向いた。
その男は近づいてくると声をかけてきた。私は苛ついた。なにやら心配している素振りだが魂胆は見えている。夜中に暇そうな女を見つけたので、都合よく楽しもうというのだろう。こんな年上の女に、しかも住宅街の公園で声をかけてくるなんて、どれだけ欲求不満だというのか。
さっさとやり過ごそうとしたが、救急車などと言い出したので私は慌てた。それから若い男は私の隣に座ると、さらに何かをしゃべり続けた。作り笑顔で反応はしたが、彼の言っていることなど耳に入らない。私は反対側に顔を向け、興味が無いことをアピールした。しかし男は帰ろうとしない。
――金はある
ふとその言葉が聞こえた。
私は振り向いて男の顔を見た。社会人には見えない。大学生? なんだっていい。この男は今、金はあると言い切った。
私は男に、この辺りに住んでいるのかと聞いた。男はそうだと答えると、一目で分かる高級マンションを指さした。そこに一人で暮らしていると。
そして私を誘ってきた。
私にはもう時間がない。少しでもいい、今すぐあの子にお金を残したい。あの部屋にはどれくらいのお金があるだろうか?
私が頷くと、男は足に触れてきた。
いいわ、それでいい。私は自分の手をそこに重ねた。男は手を肩に回すと、そのまま胸に入れてきた。胸元を濡らす汗を男の手が撫でた。指先が下着の隙間にすべり込む。
欲しいのね。いいわよ、望みをかなえてあげる。
私はバッグの中に手を伸ばし、最後にもう一度確かめた。
めぐりあう夜 瀬山 将 @manash
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