犬 とOL

九十九 千尋

犬 とOL


「やっと見つけました。僕と、家庭を築いてください」


 カナコの手を取る青年が唐突に言い放った。

 青年とカナコとの距離はわずか数センチ。手に至っては完全に密着している。さらさらとした前髪に整った眉目鼻立ち、吸い込まれそうになるほど綺麗な瞳。ふっくらと厚みと潤みをもった唇に柔らかそうな頬。きめ細やかで真っ白な、芸能人でも嫉妬しそうな透き通った肌。この距離から見てわかるように、いや数十メートル離れたところからでもわかるほど絶世の美貌の持ち主が、今まさにカナコの手を取って愛の告白をしているのだ。

 さらさらとした手の触感から伝わる温かさと微かに香る甘い香り、熱烈な視線と、俗に「珠のような声色」とはこういうものなのだろうと感じさせる心地よい声によりつくられた雰囲気にカナコは飲み込まれそうになる。


 本来であれば感動的なプロポーズという奴なのだろうが、状況を少しでも考えればまったく感動的ではない。

 カナコは唐突に自身に降って湧いたこの事態に対し、至極まっとうな言葉を返した。


「いやあの、誰?」


 青年の顔に困惑の色が落ち、そこから苦痛のように眉間をしかめ始める。その様に「実は私が全く記憶にないが酔った勢いで何か関係を持った相手か、あるいは実は私には記憶障害がありその間に出会った人だったりする」のだろうかとも思いもした。

 その様子にカナコの良心が痛みかけたが、青年の潤んだ瞳に写り込む、化粧のノリがいまいちな四十代女性がカナコを現実に引き戻した。

 そう、この青年とはである。ここはカナコが務める会社の前。今は残業一時間後の二十時。天気は晴れ。ついでに季節は初冬の寒くなり始めた頃。

 青年は何かにハッと気づいたようにし、カナコの手を放して白い八重歯を見せて微笑む。細めた目がまた愛くるしいのにこんな残念な頭とは、神様は残酷だとカナコは思い始めていた。

 青年はカナコに苦笑いをし、手を己のデニムで拭きながら、カナコからの言葉に応える。


「あ、ごめんなさい。その、僕は……あー、そう、ヤシャと言います。突然で……本当にごめんなさい……それで、あの、実は神様に」


 そう言ってヤシャと名乗った青年は頭を下げる。頭を下げる際に生じた風すら良い匂いがすることに、カナコはもはや危機感を覚え始めていた。

 ヤシャは何かを身振り手振りを交えながら、どうしてカナコに会いに来たのかというのを、会いに行くのにどうすればいいのか悩んだ云々という話からし始めた。が、カナコはその話に全く集中できていなかった。残業終わりの頭だからというのもあるのだろうが、目の前で絶世の美男子が自分なんかに熱烈な視線を向けて微笑んでいる。このどこか現実離れした状況を目の前に、今自分の身に何が起きているのかを考えることをカナコは放棄し始めた。

 ヤシャの存在からなんとか目を逸らし、冷静に考えれば考えるほど、ここにいる理由が自分には無いのではないかと思えた。そもそも初対面の男性に急にプロポーズをされるなど恐怖以外の何物でもなく、きっとこのヤシャという青年の同年代の女性なら悲鳴をあげて逃げているのではないか、いや、むしろ若さのパワーでそのまま行くところまで行くのだろうか、自分にはそんな節操のないことはできないな、出来ないからこんな年まで結婚を逃しているんじゃないか、などともはや不毛なことを考え始めていた。


「あの、カナコさん?」

「え? あ、はい。なんでしょうか?」


 気が付けばうつむき始めていたカナコの顔をヤシャが覗き込み、そのことに驚き、また彼の話を全く聞いていなかったことに少々の罪悪感を覚えたことからカナコはかしこまった答え方をしてしまった。

 ヤシャはカナコにはにかんだ笑みを向けて、話を聞いていなかったカナコに告げた。


「カナコさんは今日は御疲れみたいですし、考えてみれば僕が急に会いに来たから……」


 そういって、うつむき、手をもじもじとさせて気まずそうにする様にカナコはその昔、小学生の頃に密かに拾って育てていた野良犬を思い出した。

 首のところで見事に毛の色が変わっている、真っ白な頭に真っ黒な体をした子犬だった。道端の背の高い段ボールに入れられていたのを見つけ、家では飼えないので近所の男子小学生が捨てた秘密基地に匿って密かに育てていた野良犬だ。

 飼い方が悪かったのもあり、秘密基地の壁をストレスからかよく噛んでいた。そのことを叱ると、目に見えてシュンとしてしまう様が却って愛らしくて仕方が無かったものだ。そうそう、こうしてうつむいて、前足をすり合わせて気まずそうにしていたな、などと思い出に浸るカナコである。

 いや、目の前に居るのは人間だし、あの子犬には名前を付けていなかった気がする。少なくとも、ヤシャという名前ではないし、あの子犬はカナコが小学生の時分にどこかへ、煙のように消えていなくなっている。流石に唐突にプロポーズしてくる危険人物とはいえ、犬に例えるのはどうなのか。

 何度も謝って来るヤシャをしり目に、カナコはそんなことを思っていた。


 ふと、今更ながらここは自分の勤める会社の前なのだということを思い出し、先ほどのやり取りなどを会社の誰かに見られていないかがカナコは気になり始めた。

 そもそも、今日は行きたい行きつけの飲み屋があるので、そこで疲れを癒そうと思っていたのだが……思わぬ足止めを喰らって今に至る。

 カナコはヤシャの纏う雰囲気に呑まれぬように、少しずつその場を離れながらヤシャの謝罪を切った。


「あ、うん。で、ごめん。悪いんだけど私も予定が有るから、それじゃあ」


 ヤシャは何か言いたげだったが、半ば逃げるように、いや足早に逃げながらカナコはその場から去っていく。

 その背中にヤシャから力強い宣言が呼び掛けられる。


「また明日!」






「ってことがあってさ」


 行きつけの大衆酒場である「とりみや」で、カナコは酔いに負けて先ほどあった奇妙な体験の話を、カウンター席で店主と隣の席のなじみの客にこぼしていた。

 僅か八畳ほどの広さの店内の真ん中に置かれたカウンターとそれを取り囲むように設置された座席、寡黙で言葉少なくも相槌を欠かさない店主に、炭火であぶられた鳥肉の香りが店内に溢れ、炭火の弾ける音が店の奥でガラスケースに鎮座するレコードの音楽と合わさる、この「酉の宮」はカナコの心のオアシスである。何より客が少ないことが良い。

 そんな店内で唯一騒々しいのが、この店でよく会う常連客のミヨリだ。彼女は笑いながらその話に耳を傾けつつ、ビールの入ったジョッキを隣の席で呷った。


「へぇ、いいじゃない。急に現れた王子様って感じで。非日常感半端ない」


 ミヨリが普段何をしている人で、どうしてカナコと来店時間がよく被るのかは謎だが、行きずりの飲み友達としてそれなりに付き合いのある仲である。おそらくカナコよりは少し年下で、カナコと同じような事務仕事で男どもにこき使われているのであろうことは、彼女の着ている制服にこびり付いた複数の煙草の臭いから想像するのは難しくない。いつだったか、お互いの職場の上司に関して泣きながら愚痴をこぼし合い、べろんべろんに酔っぱらって「酉の宮」の店主に二人そろって介抱されて以来の仲だ。

 カナコは本当は今日あった職場での愚痴をこぼしに来たが、ヤシャとの一件で全部が吹き飛んでしまった。

 カナコは酔いに任せてミヨリに零し始める。


「良くは無いのよ。私にだってね、彼氏がいるんですから。一応」

「ああ、浮気するだけじゃなく何時までたってもプロポーズもしてくれない、オレサマ系彼氏ね」

「そう、浮気性で金の持ち逃げの前科あり。それを理由に、マサくんは私にプロポーズをしてくれずに早何年かたってます」

「浮気の度にブランドもののバックを買ってくれる時だけ連絡くれるマサくんね」


 カナコの彼氏であるマサは、「酉の宮」ではカナコの上司並みに話題に上がる人物だ。二人は付き合って早十年ほどになる。カナコが「酉の宮」に通い始めたばかりの頃はマサもまた心の支えであったが、数年前に浮気が発覚。二人で結婚式代に、と溜めていたお金を浮気相手に貢いでいたことも露見して以来、マサとの間はぎくしゃくしながらも続いている。マサが新たな浮気相手を転々としていることを知っていながらも続けてしまっている。

 自分の年齢を考えれば、今更結婚相手候補を逃すのは現実的ではないとも思え、正月休みが辛くない年を迎えるには、なんとかマサが昔のマサに戻らないか、どうにか昔の間柄に戻らないか、などと、少し冷め始めた鳥皮に心の中で相談しながらヤキモキしたりするのである。

 そんなカナコにミヨリがつっけんどんな言葉を言い放った。


「別れて、その王子様に乗り換えれば?」


 カナコもまた、ジョッキに入ったハイボールを飲みながら答える。


「無茶言わないでよ。そんな、下手すりゃストーカーかなんかでしょ? そりゃ……」


 ふとカナコの脳裏に過る、件の子犬を思い出させる青年の気まずそうな笑みが、手に残った僅かな温かさや感覚が、酔いの向こうで悪魔のささやきに通じる。

 それを炭酸で流し込み、胃からこみ上げる邪念の断末魔をそっとミヨリや店主に聞かれないように気を付け、その邪念を振り払う。


「浮気は駄目! 絶対!」


 カウンターをカナコの持っていたジョッキが力強く叩いた。

 その様を見たミヨリは、カナコにある提案を持ちかける。


「んー、じゃあさ、カナコちゃん……その王子様、連れて来てよ」

「え?」


 思わずカナコはミヨリの顔を見る。ミヨリはほぼ出来上がった顔をしているが、その眼は悪戯半分でカナコを見つめている。もう半分は……


「あたしがその王子様、もらっちゃうから」







 翌日、退社のタイミングで本当に「また明日」の別れの挨拶を裏切らずに現れたヤシャは、カナコを笑顔で迎える。小走りでカナコの元へ駆け寄り笑顔を向けるその様に、なんだか全力で振られる尻尾の幻覚を覚えるカナコだった。


「カナコさん、お疲れさまです。あの、そろそろ風邪とか流行る季節だと思って……」


 そういってヤシャはどこからか取り出したレモネードのペットボトルを差し出した。

 それに対してカナコは何か妙なスイッチが入り、ため息をつきながらそのペットボトルを突き返した。


「あのね。普通は初対面の相手に飲み物とか渡さないものよ。怪しすぎるでしょう? それが善意であっても、怪しまれちゃうんだから」


 ヤシャは困惑した様子でペットボトルを受け取る。


「え、でも、僕、カナコさんとは初対面じゃ……」

「昨日今日会ったばかりの間でしょ? 最近は何年もの付き合いの相手でも信用成らないことも多い世の中なのよ。そんなんじゃ余計に警戒されて……」


 そう、長年付き合った恋人でも唐突に裏切ったりするものなのだから。

 ふと、マサと連絡を長くとっていないことが、こんな時に浮かんでくる。彼に何か渡されるときはのものしか受け取っていないことも、何故か今ふつふつと浮かんでくる。

 鼻の奥に痛みを感じて言葉を詰まらせたカナコを、ヤシャは心配した様子で覗き込む。


「あ、あの、ごめんなさい。そう、ですよね。軽率でした。……まだ怒ってますか?」


 自分の情けなさに嫌気を感じ、そして今から自分に好意を、何の手違いか寄せていると言う男性に、彼の見ず知らずの女性を紹介しに行こうというこの状況が、カナコの胸を締め付けてくる。

 カナコは言葉を絞り出した。


「怒ってはない。怒ってない、けど」

「けど?」


 けど? なんだ。何が言いたい。カナコは自問自答する。怒っている相手は……

 唐突にヤシャが慌てたように、自分の服の袖を伸ばし、カナコの頬を拭う。一瞬カナコには何が起きているのか分からなかったが、見上げた自分の視界が滲み、まともにヤシャの姿も見えなくなっていることにようやく気付いた。

 見れば、ヤシャも今にも泣きそうな表情でカナコの涙を拭っている。


「ごめんなさい。怖がらせてしまったみたいで、そんなに怖いとは思わなくて……」

「いえ、いいえ、違うの。これは、その」


 言いよどんだカナコに対して、ヤシャもまた言葉を絞り出す様に、途切れ途切れにその言葉を口にしようとする。


「もう、もう安心して、ください……僕は、カナコさんに、は、会いに、来ま」

「待って、違う。違うから……これは違うから」


 ふとまた冷静さが過り、場所が会社の前であることをカナコは思い出した。

 場所を変えた方が良い。少なくとも、こんな泣き顔を会社の人たちに見られたくないし、往来の場で男女がお互いに涙を流している様は何事かと思われかねない。





 そして、期せずして、ヤシャを「酉の宮」へ連れて行くことになったのである。

 ヤシャは、というと焼き鳥が好きなのかカウンターを乗り越えそうな勢いで、まさに食い入るように調理中の焼き鳥を覗き込んでいる。

 そんなヤシャにミヨリは興味津々……というわけではなく、ヤシャの隣ではなくカナコの隣に席を移して座った。

 にやけ面でカナコを見つめるミヨリにカナコは気まずくなってぼやく。


「な、なによ……」


 二人が「酉の宮」に来た時、その二人の様子に即座に席を立って駆け寄り、何が有ったかを詳しくは聞かずにカウンター席に二人を座らせたミヨリだが、ヤシャの方には一瞥しただけで興味が失せたように見える。

 店主は無言で温かいお絞りをカナコに渡し、これまた無言で頷いて焼きたての鳥皮をくれた。

 ミヨリは緩み切った頬でカナコで聞いてくる。


「で、乗り換える決心はつきましたか? ついちゃったかな?」

「最低……」


 カナコは貰ったおしぼりで瞼を覆いながら、適当な注文をする。

 おしぼりの熱がじわりじわりと瞼裏の暗闇に広がるのを感じながら、目の前に注文の品が置かれたのを耳で聞き取り、おしぼりを顔から取った。

 すると、カナコの左に居るヤシャは、頬をわずかに染めながらカナコを左から見つめ、カナコの右に居るミヨリは、頬を酔っ払い特有の染め方をしながらカナコを右から見つめている。

 カナコは少し悩んだ末に右側、ミヨリの方を向いて、サービスの鳥皮を口で串から外して頬張る。

 その様にミヨリは笑いながらカナコの座席を掴み、ぐるりと回してヤシャの方を向かせる。

 温かい鳥皮を食べながら、頬を鳥皮の油で汚している状態で絶世の美男に見つめられる状況に気まずさを覚え、カナコは自分で席を回してカウンターの店主の方へ向き直った。

 と、直後、何か硬いものをカウンターの上に落としたような音が聞こえ、見れば既にヤシャが酔いつぶれていた。

 その様子にミヨリは笑い、カナコは焦った。


「え、嘘でしょ。そんなにお酒弱かったの? ご、ごめん。そうと知らずに……」


 カナコは、幸せそうな笑みを浮かべて穏やかな寝息を立てるヤシャに自分の上着を脱いで貸し与えた。

 その様子を見て、ミヨリは満足そうにビールのジョッキを少し傾けた。


「良かった良かった。カナコちゃん、駄目彼氏に何時までも囚われてたらどうしようって、そう思ってたんだよね」


 カナコは自分の席に戻りながら、ミヨリに思ったことを投げかけてみる。


「え、でも、ミヨリちゃん、このイケメンストーカー紹介してくれって……」

「ううん、カナコちゃんのさ、ヤシャくんの話する時の顔見てて」


 ミヨリは身振り手振りを交えて仰々しく、ビールジョッキを抱きしめながら劇的にカナコの心情を歌い上げる。


「『もう少しお互いに知り合ってみたいのー』……って表情してたもの」


 そう言って、にやけ面で見つめてくるミヨリにカナコは苦笑する。


「じゃあなに? 私の後押しをするために、ここに連れてくるように言ったわけ?」

「応よ応よ。もうカナコちゃんってば真面目過ぎるんだから。見るからに良い人そうだし、逃す手は無いと思うけどな」

「でも……私にはマサくんが……」


 裏切られる辛さは知っているから……。

 というカナコの飲み込んだ心の声をミヨリは耳聡く聞き取り、カナコに言う。


「カナコちゃん、ヤシャくん酔いつぶれてる間に連絡先交換したら?」

「え? ええ??」


 一体全体どういうことか、そもそも酔いつぶれてる相手にそれはどうなのか、この酔っ払いめ……などと思っている間にミヨリの行動は速かった。

 眠っているヤシャをまさぐり、ポケットというポケットを探る。途中で何か下卑た笑いが漏れたことにカナコは少し苛立ちを覚えた。

 が、直後、ミヨリが首をかしげる。


「あれ? ヤシャくん、スマホないの?」


 どうやら、ヤシャは携帯電話を持っていないようだった。そういえば、ヤシャが普段何をしている人なのか、全く情報が無い。

 そもそも話し合う機会として設けたこの席で、彼は酔いつぶれている。その人間離れした美貌から、その手の仕事についていてもおかしくはないのだが、カナコの狭い、一般人としての芸能界の知識では知る由もない。

 そういえば、カナコに対して……ヤシャはどういう経緯で会いに来たと言っていたんだったか……最初に彼は、何と言ったんだったか?


 唐突にカナコの携帯が着信を告げた。

 懐メロのラブソングが店内に響き、それがカナコの、浮気性の恋人であるマサからの電話であることをカナコは知る。


 カナコは店主に会釈し、荷物をそのままに携帯を片手に店を出た。

 電話口からは、上機嫌のマサの声がする。


「よう、カナコ。今どこ?」


 カナコの頬を冷たい冬の夜風が覚ます。

 そうだ。私には、恋人がいる。裏切られようと、私が裏切られて辛かったのだから、だから私は裏切るわけには……。


「ああ、マサくん。……どうしたの? 今、『酉の宮』っていう飲み屋さんで友達と飲んでたとこ」


 解り切った質問を投げかける。


「ああ、じゃあさ、駅の近くの公園まで出て来てくれね? いやお前にさ、よ」


 いや、いや、どうせなら、貰ったバックは売ってしまおう。いやいや、それ以前に、本当にただのプレゼントとして買った可能性だってあるじゃないか。端から決めつけるのは良くない。まだ、決まったわけじゃない。

 そう思っていた。マサが独特の鼻につく臭いをさせながら現れるまでは。


 駅から少し離れた住宅街にある、さびれた公園。「酉の宮」から寒空の中を歩かされてたどり着くと、マサは既に公園に来ていた。

 マサはにやにやしながらカナコにブランド物のバックが入った紙袋を渡して来る。


「いや、苦労したぜ。こいつは限定物だってよ。お前の為に用意したんだからな」


 マサが来るまでの間に冷えた指で、紙袋の中のバックを取り出してみる。

 これが何なのか分かった上で、お礼を言わなければならない。


「おいカナコ、どうしたんだ? 嬉しくないのか?」


 言うべきだ。お礼を。プレゼントをありがとう、と。

 カナコの込みあがる感情は、嗚咽になって漏れた。

 マサはどういう事か察したのか、苦笑いをしながらカナコに向き直る。


「なんだよ、嬉しかったのか? そんなに、泣くほど嬉しかったんだよな? ん?」


 カナコは思わず、そのバックでマサの頭を殴りつけた。

 そして、どうして泣いてるのかを訴えようとした次の瞬間、カナコの視界に火花が散った。


「何してくれてんだこのアマ! せっかく買ってやったんだぞ! 高かったんだ!」


 一瞬何が起きたのか、いつの間にか寝そべっている地面が、自分の鼻血で温まる感覚で我に返った。カナコの心に、怒りもさることながら恐怖が沸き上がった。自分の血が流れていることに恐怖し、痛みに恐怖し、そして……自分の人生を呪い始めた。


 そんな彼女に手が差し伸べられた。

 暖かなその手は、彼女を優しく立ち上がらせる。カナコを守るように、ヤシャが彼女を抱き寄せる。

 その様にマサが、やれやれという風に笑い始める。


「なんだ、お前も浮気してたのか。ああ、そうかよ。だったら俺のだってノーカンだろ? あーあ、気持ちはお前から離れてなかったのに、俺ショックだわ」


 そして唐突に怒りを露にした。


「よくも浮気をしやがったな!」


 ヤシャを傍に感じ、カナコは飲み込んだ言葉を吐きだした。


「あんただって浮気してたでしょうが! いつもいつも浮気の度にブランド物のバックを寄こして……手が古いし私の好みをまるで知ろうともしなかったくせに!」


 マサは血走った眼でカナコを睨みつける。


「うるせえ! お前は俺の物だろうが!!」


 その怒声に、先ほどの暴力を思い出し、カナコは思わずヤシャの腕にしがみついた。

 するとどうだろう。ヤシャの腕が二倍にも三倍にも膨れ上がり、カナコの耳元に獣の如き唸り声が聞こえ始める。脇目に見えていたヤシャの横顔はみるみるうちに伸びていき、まるで犬か狼のような長いマズルが現れる。

 そして、地を揺らすような、低く響く声が、彼女を抱き守る怪物から聞こえる。


「彼女は、お前のものではない! 失せろ!!」


 見る見るうちにマサの顔色は青ざめ、そのまま泡を吹いて白目をむいて、公園の地面に鈍い音をたてながら倒れ込んだ。


 その直後に、ミヨリがどこからともなく悲鳴と共に現れた。そして、カナコとヤシャの元へ駆け寄り、カナコの鼻血に酔いも覚めたとばかりに慌てふためいた。

 カナコはそれより驚くことがあるのでは、とヤシャを見たが、ヤシャは怪物ではなく人の姿に戻っていた。

 その後は泣きじゃくる二人を連れて、自分の鼻血を抑えながら「酉の宮」に戻った。

 店に戻るや珍しく狼狽した店主により、カナコは救急車が来るまで店の奥の席に陣取らせてもらった。後日聞いた話では、このタイミングで店主の通報によりマサは御用となったとか……





 数日後、また会社の前でカナコはヤシャに会った。


「カナコさん、鼻、痛みますか?」


 見るからに切なそうな、心配顔でヤシャは、まだ治療のための包帯が巻かれたカナコの顔を見つめる。

 カナコはヤシャに、あの晩、ヤシャが二倍にも三倍にも膨れ上がった怪物に見えたことを聞くべきか聞かないべきか悩んだ。

 悩んだ末にカナコの口から出た言葉は別の言葉だった。


「連絡先とか、ある?」

「連絡先、ですか?」


 ヤシャの顔に疑問符が浮かんでいるのがありありと見える。やはり、彼は連絡先を持ちえないのかもしれない。だが……そんなことはあり得るのだろうか。

 そんな疑問とは裏腹に、カナコの口は真逆のことを口にする。それは、また自分の結婚適齢期などを気にした発言なのか、あるいは、確かに芽生えつつある感情に向き直るためなのか……


「いざって時、連絡が取れないと大変でしょう? もしかしたら、ストーカーとか来るかもしれないし」

「あ! 先日の、逮捕された、カナコさんにふさわしくない暴力男ですね! 大丈夫です。次は絶対に指一本触れさせません」


 力強く頷き、決意の表情でヤシャはカナコの手を取って見つめてくる。

 いや、どちらかというとヤシャの方がストーカーだった、とは、もうこの際言うまい。

 カナコは真剣に見つめられて気まずく感じる。


「えっと、それで……」


 カナコの視線が逃げた先が自分とヤシャの手であったためか、ヤシャはハッとしてカナコの手を放して、もじもじとしながら謝る。


「あ、ごめんなさい。つい、距離感は守れって、ミヨリさんからもあの後言われました……ごめんなさい」

「いや、そうじゃなくて……連絡先」


 これまたハッとしてヤシャは頷き、しかし分かりやすく目線は泳いだ。

 カナコはふっと、冗談交じりに言う。


「もしかして、狼だから連絡先が無い、とか?」


 ヤシャの表情は音を立てたかのようにピタリと固まり、カナコの中に言い知れぬ不安がよぎった。

 だが……


「冗談よ。狼な訳ないでしょ。否定しなさいよ……まったく、どっからか来た家出少年とかだから連絡先が無い、とかそういうのでしょ?」


 半分以上、自分に言い聞かせるようにカナコはそうヤシャに聞いた。

 ヤシャは、真剣にカナコを見つめて答える。


「実は、僕はカナコさんが過去に可愛がってくれた野犬の生まれ変わりで、カナコさんが忘れられずに、怪異の世界で努力をして、犬神となって戻ってきたんです。呪われた身になってでも、あなたに会いに来たかった」


 唐突な、しかし何かがピタリとハマる答えを射られ、カナコは鳩が豆鉄砲を喰らったかのように、あるいは鯉のように口を開け閉めした。

 その様にヤシャが笑いだし、カナコに言う。


「冗談ですよ。犬の訳がないですよ」


 しかしカナコはどこか合点がいった。きっと、冗談ではないのだろうと。


 ……とはいえ、それが何か問題だろうか、とも……思ってしまう自分が居る。

 きっとミヨリに相談でもしようものならまた真面目だと言われてしまうだろう。自分でもそう思う。


 だから、少しの間は、当面の間は……夜叉か犬神か、それが私の

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