神と呼ばれた少女の物語

彁山棗

前編 長すぎるプロローグ

 そこにはただ延々と、『無』だけが広がっていた。真っ白で、真っ黒。寒いのに、温かい。暗いようで、実は眩しい。そんな場所で私は浮かんでいた。もっとも、私が本当にこの場所に『居る』と言えるのか、私自身もよく分からなかった。私は意識としては確かにここに在るのだが、自分の体がどこまで広がっているのかは分からなかった。輪郭が酷く曖昧で、『無』は私であると同時に私の外にあった。いや、そもそも私に体など無いのかもしれない。ただ私は、風が吹けば飛ぶような、意識の塊としてそこに存在していた。


 私は何なんだろう。なぜここに居るのだろう。


 そんな疑問を頭に浮かべて、永遠と言える程長い時間が経った。或いは瞬き一つ分の時間が過ぎた。突然、まばゆい閃光がぱっと開いた。私は思わず目を覆う。産まれて初めて見るその光は、ちかちかと網膜に焼き付いた。少しづつ、目が慣れてくる。温かさと、力強さを感じる。

 何かが始まる。徐々に輝度を増していく光を見ながら、私はそう思った。そのまま光は膨れ上がり、私を呑み込んだ。

 瞬きする度に、目に映る光景は絶え間なく変化していった。空っぽだった暗黒に、一つ、二つと星が浮かんだ。星はどんどん増えていき、数え切れない程の大群になった。星と星はぶつかり合って、もっと大きな星になっていく。やがて大きな星は小さな星を従え、小さな星は大きな星を回りだした。

 何回目かの瞬きの後、目の前に不思議な星が現れた。その星は鮮やかな青色をしていた。深くて、優しくて。温かい青色。その星は小さな白い星を従え、大きな赤い星を周回していた。私はこの星の名前を知っている。そんな気がする。

「チキュウ……?」

それが私が初めて口にした言葉だった。


 次に目を開いた時、私は固い地面の上に横たわっていた。驚いた私は起き上がろうとしたが、地面に貼り付いているみたいにびくともしない。体が、重い。比喩的な意味ではなく、文字通り体が重たかった。見えない糸が私と地球とをきつく、結んでいる。

 今度はゆっくり、そうっと体を起こす。手が震え、額からは玉の汗が落ちてきたが、これならなんとかいけそうだ。ようやく、たっぷり時間をかけて、私は立ち上がった。

「ここが、地球……?」

 空は青く、どこまでも広がっている。地面には背の低い草が、遥か地平線まで続いていた。どんな理屈なのかは知らないが、私はさっきまで外から眺めていた青い星の大地に両の足で立っている。確証は無いが、そう直感した。


    *   *   *   *   


 地球に降り立ってから、しばらく経った。一つだけ分かったことがある。それは地球は宇宙以上に、目まぐるしく変化する場所だという事だ。二つ目は(苦情は受け付けない)、私が目を開けている間は変化がゆっくりになるということだ。

 だから私は楽しい時はずっと目を開けていて、つまらないときは眠ることにした。もっとも、うっかりうたた寝をしてしまうこともしばしばあった。

 地球では数々の生き物が産まれ、そして滅んでいった。大抵は代わり映えしない、つまらない生き物ばかりだった。でも、恐竜はかなり楽しかった。彼らはそれはそれはべらぼうに巨大で、私など平気で踏み潰せそうなのがそこら中をうろうろしていた。私は彼らの背中に乗るのが好きだった。そのあとめちゃくちゃに噛みつかれるのだが。


 そんな恐竜達も、気付いた時にはあっという間に滅んでしまっていた。ある日空から星が降ってきたのだ。爆風が全てを吹き飛ばし、海は蒸発し、大地は沸騰した。

 私はドロドロのジャムみたいになってしまった地面に横たわり、空を眺めた。世界中が赤々と燃えているせいで、星は数えるぐらいしか見えない。そういえば昔、こうしてぼーっと星を眺めていたっけ。私はぐったりと重力に体を預ける。疲れている訳では無い。それでも、体を動かす気にはなれなかった。恐竜は私のお気に入りだったのだ。これはまた、随分と長いこと眠る羽目になりそうだな……そう思って私は目を閉じようとした。

 その時、何かの音が聞こえた。

 何の音だろう。風が吹いているんだろうか。いや、違う。これは、生き物の声だ。どこかからか微かに、聞き慣れない鳴き声が聞こえてくるのだ。気付けば地面は再び固くなり、緑で覆われていた。世界を包んだ炎は暖かな日差しに代わっている。私は耳を澄ます。向こうから見たことの無い生き物がやって来た。私は近くの木の陰に隠れて、様子を伺った。見れば見るほど奇妙な生き物だ。肌には殆ど毛が無く、泥の水溜りのような色をしている。足が四本あるくせに、後ろ足二本だけで歩いている。その代わり、前足には木の枝に尖った石を括り付けた物を持っていた。

 思わず口角が上がる。これは案外、そう長く眠る必要は無いかもしれない。私はこっそり跡をつけてみることにした。

 私らは歩き続け、山の麓の辺りへやってきた。私は再度驚かされた。そこには彼らの巣があった。しかしこれも、見てきたどの生き物のものとも違っていた。

 彼らの巣は木の柱を地面に垂直に突き立て、そこに枝で骨組みを作り、上から藁を被せて作られているようだった。そしてそれらの巣が十数軒ぐらい集まって、更に堀と柵で囲まれていた。もっと間近で見たい。私は堀を飛び越え、柵を跨いで、彼らの巣に近付こうとした。その時、

「おい!何者だ!」

という声が降ってきた。それとほぼ同時に何かが私の耳を掠めて通り過ぎ、地面にさった。びっくりして見上げると、そこには一際高い巣の上で何かを私の方に向けて構える者の姿があった。目が合う。彼が目を見開くのが見えた。

「ば、化け物!」

彼が大声を上げた。次の瞬間また何かが私の耳を掠めた。しかしそれは今度は地面ではなく私の左肩にあたった。

「ぐぁっ……!!」

感じた事の無い、左肩が熱く抉られるような感覚が体を一周してびりびりと駆け巡った。

「化け物だぁ!化け物が来た!誰か、誰か助けてくれぇ!」

 何でこんな事をされなければならないのか。訳が分からなかった。それでも、すぐにでも逃げなければ。それだけははっきりと理解できた。左肩にさったそれを力任せに引き抜いて、地面に捨てた。赤い液体が吹き出し、頭の中で火花が散る。逃げなければ。逃げなければ。私は無我夢中で地面を蹴った。今までこんなに速く走った事は無い。頭がくらくらする。目の前に黒い斑点が浮かんでは消えた。心臓がめちゃめちゃに跳ね回り、汗が吹き出すのに寒かった。こんな酷い気分は初めてだ。奴らの足音がすぐ後ろから聞こえる。少なくとも五、六人は居そうだ。捕まったらひとたまりもないだろう。逃げて、走って、走って逃げて。後ろを絶対に振り返らないようにしながら、頭を空っぽにして私は走った。その甲斐あってか、だんだんと奴らの足音は遠のいていった。足の裏がずきずきと痺れた。

 もうこれ以上は耐えられないと感じるまで、私は走り続けた。周りが平原から森になる辺りで、だんだん足が回らなくなってやっと私は立ち止まった。息を整える。もう奴らは追ってきてなかった。冷たい空気が肺に心地よく、火照った体温を冷ましてくれた。見回してみると、辺りは既に暗くなっている。肩の傷はもう治っていたが、まだずきずきと熱を持っていた。私は地べたに足を投げ出して座った。足の裏が、足首が、太ももが。要するに脚全体が、へとへとに疲れ切っている。私は空を見上げる。

 綺麗なまるが私を見下ろしていた。今日は一際月が大きい。さっきまでの追跡劇が別の世界の出来事に感じられるぐらい、静かな夜だった。木の葉のざわめきも、虫の声も、どこかに息を潜めていた。

 微かに水が流れる音が聞こえた。近くに川があるのだ。私は手探りで這って、小川の畔に座った。さらさらと水が流れる音が静けさを埋めていく。逆さまの月と、頭上の月。二つを見比べながら、私はさっきの出来事を反芻した。

 まず思い出したのは、左肩に感じたあの感覚だった。あれは何だったのだろう。左肩を擦る。あれは感じた事の無い感覚だった。出来れば二度と出会いたくない。あいつ……化け物と私を呼んだ、あいつの目。敵を見る目だった。あの目が私を変えてしまったのだ。そんな気がした。

 化け物。あの生き物は確かに、私をそう呼んだ。驚き、見開かれた目……そういえば私は、どんな見た目をしているのだろう。今まで確認したことはおろか、気に留めたことも無かった。私は立ち上がり、川の近く、足元が濡れるぐらい近くまで近寄った。水面に映し出された自身の姿を見て、私は思わず息を飲んだ。

 水面に写っているのは、他でもない『あの生き物』だった。少なくとも姿形はそっくりだ。毛が殆ど無くて、泥水色の肌。足が四本あるのに、後ろ足だけで立っている。違うのは背丈が頭二つ分小さい事と、胸が小さく膨らんでいること。そして、何より。


 私の眼は、一つだった。


 彼らの二つの目よりも何倍も大きな一つの眼が、顔の真ん中、鼻とおでこの間に鎮座していた。

「化け物……」

 私はもう一度、今度は声に出して呟いた。この眼か。この眼が私が化け物と呼ばれる所以なら。それならば、彼らは何者なのだ。なぜ私と彼らは違うのか。なぜ私を攻撃したのか。……分からない。宇宙が始まってから今日までずっと生きてきて、あらゆる物を見てきた。それなのに、彼らの事は分からない。知らない事ばかりだ。知りたい。彼らを、あの奇妙な生き物を、知りたい。

 そのためにはまず、『眼』を何とかしなければ。前髪をくるくると指先で弄ぶ。これで何とかなればいいが……。そうと決まれば、急がなければ。恐竜の一件を通じて、私は生き物の持つ時間が案外短い事を学んだ。私は立ち上がる。満月は山々の稜線にその半身を沈めつつあった。反対の方角の空には、地平線の向こうから赤い光が溢れ出ていた。

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神と呼ばれた少女の物語 彁山棗 @yansaco

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