雨に呑まれる星明かり

汐海有真(白木犀)

01 救世の娘

 リーシアと初めて話したときのことを、僕は永遠に忘れられないだろう。




『一人で村の外に出てはいけない』という約束を、好奇心旺盛おうせいだった十歳の僕はいとも簡単に破り、鼻歌をうたいながら冬の森を歩いていた。普段は両親と歩くその道を一人で進んでいるというだけで、心の中は言い表しようもない興奮で満たされ、心臓が強く脈打っていたのを覚えている。


 突如として背後で、がさ、と音がした。僕は鼻歌をうたうのをやめて、怪訝に思いながら振り返った。


 当時の僕の三倍はありそうな、金色の鱗に覆われた巨体。手足は十本ほどもあり、その全てから紺色の爪が伸びている。ぎょろりとした三つの赤い目が、呆然としている僕の姿を鮮明に映し出していた。背中から生えた翼には、グロテスクな血管が浮き出ていた。


 僕ら人間はその存在を、〈ホシバミ〉と呼んでいた。この星に巣食う、巨大な異形の獣。人間を捕食し生きる、食物連鎖の頂点に君臨する存在。


〈ホシバミ〉を実際に見たことがなく、知識としてしか知らなかった幼い僕は、心の底から震え上がった。それからようやく叫び声を上げて、一心不乱に逃げ出した。〈ホシバミ〉が僕を追い掛ける音が、後ろから聞こえてくる。僕はすぐに転んでしまい、身体を地面に打ちつけた。鈍い痛みと大きな恐怖で、目に涙が滲んだ。


 振り向くと、気味の悪い笑みを浮かべた〈ホシバミ〉がいて、僕は懸命に首を横に振った。自分など食べても美味しくないと、そう伝えるかのように。でも〈ホシバミ〉は、一本の長い腕を僕の方にゆっくりと伸ばす。人間の気持ちなど〈ホシバミ〉に伝わることはないのだと、絶望しながら思った。


 ――そのとき、だった。


 ふうわりと、石鹸と花を混ぜ合わせたような香りが、僕の鼻をくすぐった。その香気には覚えがあった。話したことのない彼女が、いつも漂わせている香り――


 僕の目の前に、彼女は立った。低い位置で二つに結わかれている、銀雪を溶かしたような長髪が、やけに印象的な後ろ姿だった。


「……〈ホシバミ〉様、」


 透き通った声音が、しんと静まり返った世界に響き渡った。まるで雪の結晶のような音だった。どうしようもなく綺麗で、それでいて寂しげな、音――


「どうかこの人に、酷いことをなさらないでください……この人は、わたしの住む村の仲間なのです……お願いします、どうか……」


 彼女は微かに背中を曲げて、祈るようにそう告げた。彼女越しに見える〈ホシバミ〉は、もう捕食者の笑顔など浮かべていなくて、代わりに真摯な表情を灯しているようだった。


 こくりと、〈ホシバミ〉が頷いたように見えた。そうして〈ホシバミ〉は、僕と彼女に背を向けて、森の奥の方へと帰っていった。僕は信じられないと思いながら、去っていく〈ホシバミ〉と彼女の後ろ姿を見つめ続けていた。そっと、彼女が振り返る。


 夜空を塗り込めたような、漆黒の瞳。目と同じ色彩の、シンプルなカチューシャ。首元に覗く、二つ並んだほくろ。品の良さそうなワンピースに身を包んでいて、微かに見える脚の肌は美しく白い。


 それは間違いなく、同じ村に住んでいる同い年の少女――リーシア=ティリーレンだった。


 彼女はそっと、僕に向けて手を差し出した。桜色の唇が、ほのかな微笑によって淡く形を変える。僕は逡巡してから、リーシアの真っ白な手を取った。冬の外気に晒された肌らしく、彼女の手が少しばかり乾燥していたのを覚えている。


 立ち上がった僕に、彼女はそっと首を傾げた。


「あなた、ミナセくんよね? ミナセ=レノアータくん」

「……うん、合ってる」


 僕は空いている方の手で、涙の滲んだ目を拭った。するとリーシアは、ポケットからレースのあしらわれたハンカチを取り出して、そっと僕の目に触れさせた。


「ちょ、ちょっと」

「どうかした、ミナセくん?」

「その……汚れちゃうよ、君のハンカチが」

「汚れる? 変なことを言うのね、涙は汚くなんかないよ」


 視界を覆っていたハンカチがなくなって、僕は再びリーシアの姿を見た。彼女の真っ黒な瞳と目を合わせていると、彼女が村で呼ばれているあだ名のようなものが、ふっと頭に浮かび上がった。


 ――『救世の娘』


 意思疎通が不可能なはずの〈ホシバミ〉に対して、祈りを捧げることができる存在。彼女のお陰もあり、僕たちが住んでいる村の安寧は保たれていた。


 リーシアはハンカチを仕舞うと、僕の右手を両手で握って、心配そうな顔をした。


「これからは、〈ホシバミ避けの鈴〉なしに、村の外に出ちゃ駄目だよ。一人で出るのも、駄目」

「……君は、一人で来たんじゃないの?」


 同年代の女の子に諭されるのが不甲斐なくて、僕はそんな言葉を口にしてしまう。リーシアはふっと笑って、手を握る力を少しだけ強めた。


「わたしは、『救世の娘』だもの。だから、いいんだよ」


 反論することなどできなくて、代わりに僕の心臓は、律動を早めていった。


「……? ミナセくん、顔が赤いよ?」

「そっ、そんなことないし!」


 リーシアは「そうなの?」と言いながら、不思議そうに僕のことを見つめていた。


 ――愚かだろうか。


 自分の命を救ってくれた人間に、いとも簡単に、恋をしてしまうことは。

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