バランスボールに二人乗り2

うたた寝

第1話

 残業。この世でトップ10に入るくらいには嫌いな言葉かもしれない。休日出勤とどっちを上位にしようか悩むレベルだ。休日出勤の方が言葉的なインパクトは大きいが、一方で、休日にしか起きない、という頻度のレベルの話で言うと、残業という言葉の嫌さが際立ってくる。

 まぁ、言うほど彼の会社は残業が多い会社ではない。むしろ全体の平均を見ると少ない方だろう(平均が高すぎる、という社会の闇は一旦考えないものとする)。残業など月に一、二回あればこの会社では多い方だが、今日はその一、二回に当たった。しかも結構重ための残業だ。流石に終電までは掛からないだろうが、一応終電の時間をチェックしておく。

 腹減ったなー、と思いながら仕事をしていると、同居人からチャットが届いた。ん? っと思ってチャットを開いてみると、

『何食べたい??』

 という恐ろしいメッセージがキッチン前で撮った自撮り写真とともに送られてきたので、仕事など一旦放置して、彼は慌てて返信する。

『何するつもり?』

 キッチン前でエプロンを付けて立っているのだからやることなど一つだろうが、一応希望を持って聞いてみたのだが、世の中、希望というのはあっさり砕かれるものである。

『好きな物でも作って待っていようかと』

 やっぱりか……、と彼は少し文面を考えた後、

『気持ちは大変嬉しい、ありがとう。でも至急キッチンから離れなさい』

 と送る。返事はすぐ来た。

『ぶーっ!!』

 不満げに頬を膨らませた写真とともに送られてきた。それには適当に『むくれている顔も可愛いねー』と返しておく。大体『可愛い』と言っておけば彼女の機嫌というものはそれほど悪くならない。

 語弊の無いように補足しておくと、彼女の料理が劇的にマズい、ということはない。恋人フィルターを通しているから、とかではなく、上手いか下手かで分類するのであれば、間違いなく上手い方に属するだろう。レシピ本を見ないで完全感性で作るあの姿勢は一種の憧れさえ覚える。まぁ、たまに感性が外れて大失敗もするが、基本的には美味しい料理を作ってくれる。

 では何が不満なのか? 彼女が使った後のキッチンが尋常じゃない汚くなるからである。

 同居始めの料理が当番制だった頃、彼女が使った後のキッチンを夜明けまで清掃して復旧活動したことはどれほど年月が経とうと決して色褪せまい。何をどうすればあそこまで汚れるのか。ペンキを持ってきて適当にぶちまけてもあそこまでは汚れまい。

 以降、彼女のキッチンへの立ち入りは原則禁止している。どうしても使いたい時は、食材一つに対し、焼く・煮るなどの簡単な料理工程であれば許可している(それでも汚すのだが、まだ復旧作業は楽である)。

 ああ、ちなみに彼の経験からの余談だが、誰かと同居して家事を当番制にする場合、当番制にする家事はどちらもやりたくない家事にした方が良いと思う。例えば、綺麗好きの人がズボラ(大らかと言い換えてもいい)な人と掃除を当番制などにすると、絶対掃除の仕方で揉めるからである。どっちも拘りが強いならまた話は別だが、どちらかが全然拘りが無いのであれば、拘りが強い方に任せた方が上手くいく。結果家事を全面的に引き受けることになった彼が言ってどれほどの説得力があるかは分からないが(彼は別に拘りが強いわけではないのだが、自分でやった方が早くて楽と理解した)。

 しかしこうしては居られない。しばらくは言われた通りキッチンには近づかないだろうが、いつしびれを切らしてキッチンへと近付くか分からない。

「すみません。同居人がご飯を作るとか恐ろしいことを言い出したので帰ります」

「? いいことなんじゃねーの?」

 そこだけ聞くといいことかもしれないが、ことは一刻を争うのである。早く帰らなければ彼が可愛がっているキッチンがっ!

「っておいこら待て逃げるなっ!!」

 キッチンがぁぁぁっ!!



 何度丁寧に『私のキッチンがピンチなんです帰らせてください』と説明しても『何を言っているんだコイツは』という顔をされ、全然聞き入れてもらえなかった。部下の話を聞かない上司などみんな地獄に落ちればいいと思う。せめてもの抵抗で『キッチンの歌(作詞・作曲:彼)』を大声で歌いながら残業してやった。

 終電で帰宅とはならなかったが、それでも結構遅くなってしまった。こんな時間までご飯も食べずに働かされる労働環境は間違っていると思う(厳密にはご飯は食べていいのだが、その分帰りが遅くなるので彼が自主的に食べなかっただけ)。

 が、より間違っている労働環境に置かれているのは、彼を優しく迎え入れているスーパーの店員さんたちであろう。こんな時間までスーパーを開けているなんてブラックだわ、と思わないでもないが、この時間に帰宅する立場としては、開けてくれていると大変ありがたいのは確かである。おまけに値引きされていて安い。いいことだらけである。一部売り切れてしまって買えない、というデメリットもあるにはあるが。

 どれほど遅く帰ったとして、なるべく自炊をしたい彼は総菜コーナーには目もくれない。何? 5割引き? などと目を奪われてもいない。手に取って悩んでもいない。一回カゴに入れかけて出したりもしていない。……何だ? 総菜の誘惑に駆られて何が悪い? したくない時はしないのが自炊を続けるコツだぞ。ご飯だけ炊いて総菜とカット野菜でも買って晩御飯にすればいいのだ。それ自炊? と思うかもしれないが、お店で食べてなく、お弁当を買ってもいないのだから自炊にカウントしていいのである。

 とは言いつつ、誘惑を振り切って買わないわけだが。この理由は後述するとしよう。

 何作ろうかな~、と冷蔵庫の中の物を思い出しながら店内を物色。食べてはみたいが作るの面倒だな、とか、作ってはみたいが食べないな、など、食べたい物と作りたい物が意外と一致しなかったりするのが最近のちょっとした悩みである。まぁ、そんな彼の複雑な心境はまた別としても、時間も時間なので手軽に作れるものがいい。

 手軽で時間が掛からないものとなると、自然と作り慣れているものになるが、同じのを作るのは何かつまらない、という彼の心情のもと、何かアレンジできないかな、と適当に食材を物色。食べるのが彼だけなら多少美味しくなくても経験値としておくのだが、同居人にも食べさせるとなると、冒険しすぎるわけにもいかない。

 とかまぁずっと店内ウロウロ考えていたのだが、段々考えるのが面倒くさくなってきたので(残業で疲れている頭で物事を考えても上手くいかん)、アレンジはしないことに決定した。この疲労度で失敗した料理を食べては精神が持たない。そうと決まれば後は早い。お決まりの食材をカゴへと放り込んでいく。途中、安い食材も見つけたので、それは後日使うようで放り込んでいく。

「さて、帰るか」

 早く帰らないと空腹に痺れを切らした同居人が料理を始めてキッチンを蹂躙してしまうかもしれない。いや、もうされているかもしれないが、それでもまだ蹂躙されていないことを祈り、彼は早歩きで家へと帰る。



 家に帰ってドアを開けると、玄関に遺体が転がっていた。いや、訂正。彼女が転がっていた。これは空腹の限界を迎えて外に助けでも求めに行こうとでもしていたのか、空腹を紛らわせようとジョギングでもしようと思っていたのかは分からないが、頭がドアの方を向いている体の向き的に、外に出る前に力尽きたらしい。とりあえず、『家に帰ったら同居人が玄関で死体ごっこしてた件について』は考えないことにして、

「ただいま」

 家に帰ってきたのでお決まりの挨拶をすることに。彼女はうつ伏せ状態のままピクリとも動かなかったが、

「お、おかえり……」

 返事があった。どうやら屍ではなかったらしい。しかしまぁそれならそれで、動けない屍であればいざ知らず、動けるのであれば玄関前にドテーンと寝転がっていて大変お邪魔なので彼としては退いてほしいところなのだが、半分くらい彼が原因なので空いているスペースを見つけて足を下ろす。

「風邪ひくから部屋で寝なさい」

「お、お腹と背中がくっつく……」

 依然動く気配も見せずに空腹を訴えてくる。まぁ、それもそうだろう。お昼を何時ごろ彼女が取ったのかは知らないが、仮に12時に取っていたとするとそろそろ半日経つ。ここまで露骨に動けなくなるかはいざ知らず、お腹は相当減るだろう。

「先に食べてれば良かったのに」

 キッチンから至急離れなさい、とは言ったが、別に食べるなとは言っていない。外食なりお弁当を買って来るなりすれば良かったものを。

 彼女はむくっと顔だけ起こすと、

「だってぇ~」

 何きっかけだったかは忘れたが、我が家ではご飯は一緒に食べるというのがいつの間にか通例になっていた。もちろん何が何でも、という束縛ではない。付き合いで会社仲間とご飯を食べてくる、出張でその日そもそも帰ってこない、など各々の都合で一緒に食べれないことはある。が、逆に言うと、そういう食べれない事情でもない限りは、基本的にはお互いに相手の帰りを待っていたりする。

 まぁ、こんな日付が変わるかもしれない瀬戸際まで待っていなくてもいいとは彼は思うが。明日も仕事あるだろうに。とは言いつつ、彼が逆の立場で先に食べていたか、と言われると怪しいところだろうが。彼が総菜を買ってこなかったのも、恐らく彼が帰って来るまで何も食べずに待っているであろう彼女に、自分で買ってこれそうな総菜を買ってきて出すのは気が引けたのである。

 彼は買ってきた食材をテーブルへと並べる。今使わない物は冷蔵庫へとしまい、使うものは台所へと移動させる。さて作るか、と彼が準備を始めようとすると、

「手伝う?」

 屍から復活したらしい彼女がキッチンにひょこっと顔を出す。いや、要らん、と言おうかと思ったが、彼女の目がやたらキラキラしている。『手伝う?』ではなく、『手伝いたい』なのだろう。うーん、と少し悩んだ後、隣に居れば汚された瞬間すぐに掃除できるか、と考え、

「じゃあ……」

 一人でやった方が早くは終わるが、たまには一緒に作るのも悪くない。

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