満月に誓う。(肆)

 そして、約束の満月の夜。

 ツバキと綱、貞光の三人は、堀川にかかる一条戻り橋へと向かっていた。

 季武と金時は、別ルートで一条戻り橋へと向かう。橋の両端から鬼を挟み撃ちにするという頼光考案の作戦だ。


「ねぇ、綱……」


 ツバキは、前を向いたまま、小声で隣を歩く綱に向かって話しかけた。その声は、どこか不安げだ。


「どうかしたか?」


 綱がツバキを気遣うように優しく声を返した。

 ツバキは、モモカから借りた綺麗な桃の花が描かれた羽織を着て、顔が見えないよう頭の上から薄衣を被っている。


「あのね、これが終わったら、さ……」


 そう言いながら、ツバキの歩みが止まる。

 二歩進んだ先で、綱も足を止めて、ツバキを振り返った。

 薄っすらと白粉おしろいを塗ったツバキの白い肌が月の光に透けて、紅を差した頬と唇がいつもの雰囲気とは異なり、色っぽく見える。


 ツバキの視線が下を向く。


「神泉苑のツバキを見に……連れて行ってくれない?」


 神泉苑とは、平安京の大内裏に接して造営された禁苑で、竜神を祭って雨乞いを行うための神聖な場所だ。殿上人しか入ることを許されない場所であるため、官位を持たないツバキが勝手に入ることは出来ない。

 それでも、神泉苑には、毎年、見事な椿の花が咲き誇ると人づてに聞いてから、いつか見たいと密かに憧れていた。


「……そうだな。拙者では無理だが、頼光様にお願いしてみよう」


「ほんとう? 約束だよ」


「ああ、約束だ」


 ツバキは、綱の言葉に勇気をもらったようであった。

 再び歩き出し、一条戻り橋に着いたが、そこには、まだ誰の姿も見えない。時刻は、子の刻を過ぎて、丑の刻へとうつる頃合いであった。


 ツバキは、ひとり橋の上で待った。

 綱と貞光は、少し離れた物陰から様子を伺う。何か異変があれば、すぐに駆け付けられるよう、手は各々の武器に添えている。


 しばらく経って、もう現れないかと思いだした頃、男が現れた。男は、モモカに扮したツバキに近づくと、薄衣をまくって顔を覗き、眉を寄せた。


「……うん? ちがうな、この女ではない」


 顔も見たことがないのに何故、とツバキが思うよりも早く、男は続けた。


「美しくなければ意味がないではないか」


 言外に、ツバキの容姿に対する侮蔑の言葉である。いつもなら、かっとなるところだが、ツバキは、男のあまりの美しさに言葉を忘れた。見惚れる、という甘い感情からではない。この世のものとは思えないほどの美しさは、見る者に畏怖と恐怖すら与えるのだということをツバキは初めて知った。


 ――鬼だ。……と、ツバキは確信した。


 額に角すら生えてはいないが、人の領域を超えた美貌と、この世ならざる空気を男は纏っていた。


「まぁ、いい。代わりに、この女を連れてゆこう」


 鬼は、そう言って、ツバキの細い手首を掴んだ。

 その時――


「待てっ! その手を離せっ!」


 綱だった。橋の上に鬼が現れたのを見て、颯爽と橋の上へと駆け付けたのだ。手には、既に抜身の剣を構えている。

 <鬼切丸>と呼ばれるその刀は、源家に代々伝わる名剣で、源満仲みなもと の みつなかが天下守護のため、唐国で尊名高い刀鍛冶につくらせたという、目に見えぬ妖を切り捨てることができる妖刀だ。

 しかし、綱と刀を見ても、鬼は、表情一つ変えないまま口を開いた。


「ふむ。誰だ、お前は」

「拙者は、渡辺綱と申す。貴様が〝茨〟という鬼か」

「いかにも」

「京で若い男女をさらっている神隠しの犯人は、貴様か」

「……いかにも」


 素直に答えてもらえるとは思っていなかった綱は、少々面食らいながらも、更に茨鬼いばらきに言い募る。


「何故、人を攫う」

あるじと私は、美しいものが好きなのだ」

「主? 他にも仲間がいるのか」


 茨鬼は、にやりと口角を上げて、それには答えず、別の言葉を紡いだ。


「お前、美しいな」


 茨鬼の声は、綱の背筋に何か冷たいものが這うような錯覚を起こした。


「気が変わった。よし、お前を連れてゆこう」


 茨鬼は、ツバキの腕を離すと、刀を構えている綱の方へと歩み寄る。


「だめっ……!」


 ツバキが叫んだ。咄嗟に、茨鬼の袖を掴む。


「邪魔をするな」


 茨鬼の鋭い眼光に睨まれて、ツバキが怯む。それでも、手は袖を掴んだままだ。

 その隙に綱が駆け寄り、刀を上段から斜め下に向けて振り抜いた。

 しかし、寸でのところで刃を避けた茨鬼は、ツバキを抱えて空に跳んだ。


「きゃあっ!」

「ツバキ!」


 人の御業とは思えぬ身軽さと俊敏さ、そして腕力。茨鬼は、そのまま橋の欄干に立つと、ツバキを抱えたまま、綱を見下ろして笑った。その瞳は、金色に光り、額からは、二本の角が生えている。

 鬼に姿を変えても尚、それは一枚の絵になるほど美しかった。


「綱っ!!」


 背後から貞光が叫んだ。

 橋の上は、狭いため、刀を振り回す間合いを考えると、貞光が近寄ることが出来ないでいる。


「くっそ! おっさんと金時は何してんだよ!」


 橋の向こう側から現れる筈の季武と金時の姿が未だに見えないことに、貞光は憤りをぶつけた。

 実はその頃、季武と金時は、別の鬼と対峙しており、一条戻り橋へ近づくことが出来ないでいたことを、二人は後で知ることとなる。


「その者を返せっ!」


 綱が怒気を孕んだ声で叫んだ。

 茨鬼は、綱の必死な表情から、自分の掴んでいる命の価値を知って微笑みを浮かべた。


「よし、返そう」


 そう言うと、とん、と毬でも投げたかのような気軽さで、抱えていたツバキを綱の方へと放った。


「ツバキっ!!」


 宙に浮かんだツバキを抱きとめようと綱が手を伸ばす。


 ――が、次の瞬間、綱の目の前で、ツバキの胸から鬼の腕が生えていた。鬼の手には、どくどくと脈打つ赤い臓器が握られている。

 着物に散った血飛沫が、まるで咲き誇る大輪のツバキのようであった。


「うああああああああああーーー…………っ!!!」


 慟哭。


 その獣のような雄叫びが自身の喉からほとばしっているのだと綱が気付いた時には、全てが終わった後であった。


 ただ綱は、持っていた刀を無我夢中で鬼に向かって振りかざしていたことだけは覚えている。

 茨鬼は、まさかすぐに切り返されるとは予想していなかったのであろう。

 綱の握る刀から、何かを断つ鈍い感触が伝わった。

 

 ごとり、と固い棒のようなものが地に転がり、血だまりを作った。

 綱の刀が鬼の腕を切ったのだ。


 茨鬼は、自身の肘から先が消えているのを見て、初めて顔色を変えた。


「また会おう」


 茨鬼は、残った左手で宙を切り裂いた。……ように見えた。

 すると奇怪なことに、宙に亀裂が入った。亀裂は、小さな穴となった。異空間へと繋がっているようだ。茨鬼は、そこへ腕を突っ込んで無理やり広げると、自身の身体ごと穴の中へと捻じ込んだ。

 綱が追い掛けようとしたが、穴は鬼を飲み込むと、すぐに閉じてしまい、後に残ったのは、いつもの堀川の景色があるばかり。


 綱は、倒れたままのツバキの傍へ戻ると、その冷たくなった身体を抱き起こした。


 既に息はない。


 心臓を一息に突かれたのだから当たり前だ。

 目を閉じたツバキの白い頬に、透明な液体が零れた。

 それは、綱の目から零れ落ちた涙だった。


 だが、綱は、すぐに泣いてはいけない、と思い、袖でそれを拭った。

 ツバキとの約束を一つも守れなかった自分には、泣く資格などないのだ。


「茨鬼……必ず……必ず、お前を見つけ出して……切るっ!!」


 綱は、満月に向かって咆哮するように、そう心に深く誓った。



  〆  〆  〆



 すべてを話し終えると、綱は、ふぅ、と息を吐いた。胸に溜まっていた重苦しい何かが空気と一緒に吐き出されたかのようで、その表情には迷いがない。


 式神は、綱の話を聞いていたのか、いなかったのか、特に感想を言うでもなく、橋の向こう側を見つめていた。

 永い時を生きる式神にとって、人間の生き死に対する感情が理解できないのかもしれなかった。


『見つけたぞ』


 式神は、金色の瞳孔を広げて言った。

 鬼の痕跡を見つけたのだ。


「行こう」


 綱の言葉が合図となった。

 式神の額から雷のような光の筋が現れ、宙に向かって放たれた。と、何もなかった空に黒く異質な穴が開く。

 茨鬼が逃げ延びた穴によく似ている、と綱は思った。


――必ず、茨木童子を討つ。


 そう、綱は、満月に誓った。

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