天使のソアリング

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 斜面を吹き上げる風をキャノピーがはらむ。山麓に向かって数歩走ると、しょうのパラグライダーは宙に浮いた。夏の上昇風が毎秒二メートルという速度で翔を空の高みに連れてゆく。

 知り合いのとびが一羽、向こうの上空で輪を描いていた。

「トビちゃん、今日も一緒に飛ぼう」

 トビちゃんは片翼を少し上げ、ピーヒョロロと鳴いた。

 トビちゃんが飛翔する空には何時も静かな上昇風が吹いている。

 翔のパラグライダーはゆっくりと左旋回を始め、尾根の東側で滑翔ソアリングするトビちゃんに近づいた。

 山麓に一軒のコテージが見える。翔が妻の美緒みおと暮らす家だ。

 美緒はコテージのベランダに立ち、こちらに手を振っている。

「いいなぁ。自分だけズルいよ」

 家を出る時、美緒は拗ねた顔をした。

 十日後に全国大会が控えている。三十路を前にして翔は初めて出場権を得た。この大会にはどうしても出場したい。本当なら医師の勧めに従って出来るだけ美緒の傍にいるべきだろう。美緒には申し訳ないと翔は思う。

 今年の初め美緒はフライトをやめた。ドクターストップがかかったのだ。

 コテージのベランダで美緒が下に向けた人差し指を上下させた。下を見ろという合図だ。

 翔は下を見た。

 翼長三メートルほどの鳥?がめちゃくちゃに翼を羽搏はばたかせ飛んでいる。

「まるで阿波踊りだ。あれじゃ山チンするぜ」

 山に墜落することを山チンという。

「あれ?」

 翼の下に手と足と頭が見える。七、八歳くらいの子供だ。頭の上には淡い光を放つ……輪?

「天使……だよな」 

 きっと夢だろう。でも例え夢だとしても遭難者を見過ごすわけにはいかない。翔はトビちゃんに目くばせをした。トビちゃんは急降下して天使のすぐ横につくと、翼を左右にピンと伸ばした。羽ばたきをやめて滑空しろと天使に指示したのだ。

 運転の未経験者はハンドルをやたらと左右に切り、車を蛇行させる。ハンドルを握る手から力を抜けば車は真直ぐに走る。天使はトビちゃんの指示に従って翼を左右に広げ、飛行姿勢を安定させた。

 天使はトビちゃんに誘導され、山麓の草原に無事着地した。

「ありがとう」

 天使がトビちゃんに頭を下げると、トビちゃんは「礼なんかいいよ」みたいな顔をしてピーヒョロロと鳴いた。

 どう見てもその子は天使だった。背中に純白の大きな翼があり、頭の上では直径十五センチくらいの輪が淡い金色の光を放っている。輝くブロンドの髪。エメラルドグリーンの瞳。そして「愛」そのものと言っていいほど愛くるしい顔立ち。まるで天使だ……というか本物の天使らしいけど。

「一応ありがとうな。おっちゃんも」

……イチオウ? そして……オッチャン?

「礼なんかいいよ」

……本当にいいよ。「」とか「しつ」とかが上につく礼なんか。

「墜落しなくてよかった。オちるって天使には致命的なんだ。オちた天使は堕天使の烙印らくいんを押されて天国から追放されるんだよ」

……あのな天使君、君は「落ちる」と「堕ちる」を混同している。

「どうして、墜落しそうになったんだい?」

「こいつのせい」

 天使はスマホを翔に見せた。

「動画が途中で途切れちゃったんだ」

……スマホのせいじゃなくて君のせいだよ。天使がスマホ見ながら空飛んじゃ駄目だろう。

「何の動画を見ていたの?」

「トップガンの無料先行公開動画だよ。飛行練習の参考にしようと思ってさ」

 さっきの飛行を見る限り、この子が『トップガン』を参考にするなんて百年早い。

「空を飛ぶ練習をしていたのか」

「まあね。一週間後、天国国交省認定航空技術検定試験を受験するんだ」

「難しそうな試験だな」

「そう。それにオちると」

「堕天使の烙印を押されて天国から追放される?」

「そんなことあるわけないでしょ。さっきのはジョークだよ。アホだな、おっちゃん」

……こいつ、そのうちマジックで翼に「堕」と書いてやる。

「きっと不合格だ。僕、才能がないんだよ。おっちゃんと一緒で」

……根拠なく一緒にするな。

 翔は下を向き小さく舌打ちをした。

「ねえ、僕に空の飛び方を教えてくれない?」

 わりと素直じゃないか、と翔は顔を上げた。

「ねえ、お願いだよトビちゃん」

 食えねえガキだと、翔は再度舌打ちをした。

 早速トビちゃんのお手本を間近で見ようということになり、翔は天使を膝にのせ、もう一度フライトした。

「いいか、よく見てろ」

 翔はポーチから油揚げを出し、

「トビちゃん、いつものオヤツだ」

 それを宙に投げた。トビちゃんは翼をわずかに翻し横に滑るように油揚げに近づくとそれを銜えた。

「今トビちゃんはわざと風に流されて自分の後ろに飛んでいる油揚げをゲットした。この飛び方を……」

「あの油揚げ、トビちゃん、どうやって食べるんだろう」

……人の話を聴けよ。

 油揚げは大きすぎてトビちゃんが飛行中に食べるのは難しい。明日からは小さく切ってあげようと、翔はトビちゃんに気遣った。 

 午後五時頃、翔たちは草原に戻った。

「迎えに来てくれなんて、恥ずかしくて言えないよ。自力じゃ帰れないし」

 天使を野宿させたら保護責任者遺棄で捕まるかもしれない。家に連れて帰ることにした。

「おっちゃん、天使をオンブした経験ってある?」

 あるわけがない。

「僕、歩くの苦手なんだ」

……飛ぶのも苦手だよな。

 パラグライダーの装具一式を前抱えして、翔は天使を負んぶした。

 疲れていたらしく天使はすぐに眠ってしまった。

 コテージに着いても天使は起きなかった。

「この子、今日、山チンしそうになってた天使だ」

「天使? 本当だわ。翼も輪っかもある」

 美緒は事も無げに言った。

 美緒は絵本作家だ。パラグライダー飛行家としても有名で、日本のサン=テグジュペリなどと呼ばれている。空をモチーフとした作品が多く、天使は美緒の絵本に頻出するキャラクターである。彼女にとって天使は少しも不思議な存在ではない。

「可愛いわね。まるで天使みたい」

 スヤスヤと眠る天使に顔を寄せて美緒が呟いた。

……いや、みたいじゃなくて、本物の天使だから。

「こんな可愛い子が欲しいね」

「うん」

 天使の小生意気なセリフを思い出しながら翔は曖昧に頷いた。


 朝のリビングで天使と美緒は話していた。

「ねえ、君はなぜ空を飛ぶの?」

 美緒がスケッチブックを開きながら訊いた。

「子供だから車やバイクの免許は取れないし、お金がなくてバスにものれないから」

 美緒はスケッチブックに、バス停で悲し気に財布の中を覗いている天使を描いた。しっかり絵本のネタにしている。

「君が空を飛ぶ理由をききたいのよ」

「みんなにしあわせを届けたいから。それが天使の仕事なんだよ」

 美緒はスケッチブックにハートを抱えて飛ぶ天使の絵を描いた。


 飛行教習二日目。天使は自前の翼で丘の斜面から離陸し、斜面上昇風リッジリフトにのって空高く昇った。三日目には熱上昇風サーマルを捉え次々とそれを渡り飛び続ける技を、四日目には、山岳波ウェーブを利用して飛行する高難度の技術と乱気流への対応スキルを習得した。

 あんたより上手……みたいな目で、トビちゃんは翔を見た。

「何であんなに飲込みが早いんだろう」

「あの子には希みがあるからよ」

 美緒はスケッチブックを開き、ハートを抱いて飛ぶ天使の絵を翔に見せた。

 五日目。飛行教習の最終課題は、平地からの垂直離陸である。

「先ず風に向かって立つのよ。そして、翼を上げながら大きなボールを握るように空気を掴むの。次にその空気のボールを一寸後ろの地面に叩きつけ、同時に地面を蹴る。それで離陸できるはずだわ」

 美緒は天使を外に出し、風に向かって立たせた。

「トビちゃんのお手本を見ながら言う通りにやって。先ず翼をバサッと広げる。いくよー。ワン、翼で空気のボールを掴む。ツゥ、それを地面に叩きつけ、スリー、地面を蹴る! ほら、離陸できた」 

 天使はわずか十五秒で最終課題をマスターした。コテージの周りを飛びながら大燥ぎに燥いでいる。

「美緒さん、トビちゃん、ありがとう。あっ、ついでにおっちゃんもね」

……礼なんかいいよ、ついでの礼なんか。

 天使は大きく羽ばたき、天空に去った。

「別れの挨拶も無しかよ」

「大丈夫よ。LINE交換してるから何時でも連絡できるわ」

「……」


 大会まで後三日。

……どんな希みを抱えて自分は飛んでいるのだろう。

 その希みを知れば、自分は風の一部になれるのかもしれない。自由という名の風の一部に。

 翔は昇降計バリオメーターを見た。愛機は着実に高度を稼いでいる。

 空に帰る。懐かしい空に……それが自分の希みかもと、ふと思った。

 翔のパラグライダーは上昇を止めた。気がつくと、今までで一番高い空に翔は浮いていた。

 空が「おかえり」と言った。そんな気がした。

 人工的な音が聴こえる。昇降計のアラーム? いや救急車のサイレンだ。

 コテージの玄関先で救急車にのせられている美緒が見えた。

 翔はソアリングを止め、急降下を始めた。

 コテージが迫っている。向かい風アゲインストをつかまえないと危険だ。翔は、急旋回しようとした。が、間に合わなかった。

 翔のパラグライダーはコテージのベランダに突っ込んだ。右足に猛烈な痛みが走る。捻挫したらしい。車を運転して救急車を追うのは無理だ。翔は脚を引き摺りながら家に入り電話でタクシーを呼んだ。


「身重の奥さんをほったらかしてパラサイティングなんかしているからよ」

……いえ、パラグライディングです。

「大会出場? 出来るわけないでしょ、この足で」

 捻挫の治療をしながら医師は呆れ顔をした。

「おめでとうございます。予定日の三週間も前だったのに、今年一番の元気な赤ちゃんですよ」

 外科診察室のドアを開け、助産師が第一子の誕生を翔に告げた。

 美緒のLINEにメッセージが入った。

「美緒さん、おめでとう。ついでに、おっちゃんもね。世界で二番目に可愛い天使より」

……普通、自分で自分のことを可愛いって言うか?

 世界で一番可愛い天使をあやしながら翔は笑った。

                                   了

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