第4話 潮流

 弥山は、標高535Mの山だ。登ったことはなかったが、大したことはないだろうと高を括っていたら、登り始めて早々に後悔することとなった。


 とにかく斜面が急なのだ。


 密に乱立している木立のお陰で真夏の炎天下に直接晒されることは少なかったが、舗装されていない山道は一人分の歩く幅しかなく、岩が隆起している箇所も多くて歩きにくいことこの上ない。


 観光スポットの割に経費削減してんじゃねえ、と心の中だけで悪態をつきながら登ったが、弥山の山麓は、ユネスコの世界遺産『厳島神社』の登録区域の一部となっているため手を加えられないのかもしれない。


 私は、歩き始めて数分で汗だくになっていた。


 舞は、部活動のソフトテニスで多少鍛えているからか、常に私の先を行く。


 何度私が待ってと声を掛けたか分からない。


 その度に舞は、早くと私を急かしつつも私が追いつくのを待ってくれた。


 若さの違いだとだけは決して思いたくない。


(なんでこんなことに……)


 やはり舞を無理矢理にでも家へ連れて帰るべきだったのだ。


 舞の気持ちはわかる。


 大好きな祖母のために何かしたいというもどかしい程に健気な想いに、姉として見守ってやりたいという妙な矜持を抱いたが為に、こんなことになってしまった。


 本当は、こんなことをしている場合ではないのだ。


 母に言われるまでもなく公務員試験の勉強もしてはいるものの、本当に自分がしたいことは何なのか、未だ見い出せずにいる。


 そんな状態で就職活動がうまくいく筈もなく、正直低迷している。


 舞の為だと言いながら本当は、自分こそが現実逃避をしたかっただけなのかもしれない。それにしては、厳しい現実逃避だ。


 祖母もこの道を登ったのだろう。幼い乳飲み子を背負い、子を助けたい一心で。


 まるで今の私とは真逆な境遇に自己嫌悪を覚えた。


 しばらく無心で登り続けた。どれくらい経っただろうか。


 突然、舞が立ち止まった。


 頂上に着いたのだろうかと舞の肩越しに顔を覗かせて、私は息が止まった。


 声が出ない。肺が酸素を欲しているのも忘れた。


 それは、ただただ美しかった。


 眼下に紺碧色の海が広がっている。対岸までぷかぷかと幾つかの島が浮かんでいる様は、まるで天空に浮かぶ大きな湖のようだ。


 同じ海でも、東京で見る荒々しい海とはまるで違う。穏やかな海面は一見凪いでいるように見えるが、その体内では、激しい潮流が川のように幾つも流れており、要所要所ぶつかり合い渦潮をつくる。この激しい潮流差によって海底部の養分が巻き上げられ、この瀬戸内海を豊かな漁場とたらしめているのだ。


 何十年、何百年経っても色褪せない美しさ。それこそこの景色の真価だと思った。


 胸のすく想いがした。これまで悩んでいたことが全て些末なことに思えた。それだけ目の前の情景が圧倒的すぎたのだ。


 今私の身体が熱いのは、単に山を登って来た所為だけではないだろう。


 心が震える。景色を見て感動したのは生まれて初めてだった。


 これが瀬戸内の海なのか。


「おばあちゃんも、この景色見たんよね」


 舞が呆然と呟く。今では祖母の気持ちが解る気がした。


 こんなに美しい景色を目にしたら、ここで生きていきたいと強く想っただろう。


 子供にもこの景色を見せたいとも思うだろう。


 そして、その孫にも――。


 私は、初めて自分が生まれ育ったこの地を誇りに思った。


 霊火堂で、舞は、持参した水筒に霊薬を入れてもらうと、大事そうに背中のリュックに仕舞った。しかし、その表情は堅い。


 本当は舞にも解っているのだ。霊薬を持って帰っても、祖母の病気は治らないと。それでもここへ来たのは、他に縋りつけるものがそれしかなかったからだ。


 帰りはロープウェイで降りようと話していた時、再び母からの電話が鳴った。


 私たちは、互いにはっと顔を見合わせた。


 電話を取ると、切羽詰まった声で母は言った。


『おばあちゃんが……』



 私たちは、ロープウェイで下山するとフェリー乗り場へと走った。


 来た道順を逆に辿り広島駅まで戻ると、タクシーを拾い、祖母の入院している病院へ向かう。


 そこには、意識を取り戻した祖母の笑顔が待っていた。


「そう簡単に死にゃあせんよ」


 舞が泣きながら手に入れた霊薬を渡そうとしたが、祖母は笑顔でそれを辞退した。


「ようけえ生きたけえ、はぁええ」


 その三日後、祖母は眠るように静かに息を引き取った。


「おばあちゃん、幸せだったんよね」


 通夜と葬式が終わった夜、舞が初めて口を開いた。


 私は、最後に見た祖母の笑顔を思い出しながら、ほうじゃね、と答えた。


 すると舞が突然、あっ、と声を上げる。


「お土産忘れた」


 私はそんな舞に呆れつつも笑みを返した。


「また行けばいいよ」


 そう、ここで生きていれば、いつでも行ける。


 父に霊薬の話を聞くと、そんなこと言ってたっけなあと頭をかいていた。


 本人は信じてないようだったが、その時、霊火堂で撮った写真が残っているというから登ったことは事実だったのだろう。


 霊薬の効果が嘘か本当かは解らないままだが、それで良かったのだと思う。


 舞は、自然といつもの調子を取り戻しつつあったし、それこそが祖母の最後の思惑だったのではないかと思えたからだ。


 そして私は、広島の公務員試験を受けることに決めた。祖母が愛し、一生を過ごしたこの地を私も愛おしいと思うようになっていたからだ。


 瀬戸内の海は、今日も静かに私たちを包み込むように横たわっている。

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【短編】潮流 風雅ありす @N-caerulea

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