てんちゃんとお散歩の空

尾八原ジュージ

てんちゃんとお散歩の空

 豆柴のてんちゃんはもうおばあちゃんだ。初めて会ったときはおねえさんだったのに、いつの間にかおばあちゃんになっていた。

 てんちゃんの散歩をするのはわたしの役目だ。学校から帰ると、てんちゃんは「おかえり志乃しのちゃん」と言いながら、カチカチと足音をたてて玄関にやってくる。

「お散歩でしょう」

「そうです。行きましょう、てんちゃん」

 部屋に鞄を置き、代わりにリードとビニール袋と水を持つ。首輪にリードをつけてもらう間、てんちゃんは澄ました顔で斜め上を向いている。

 海沿いの遊歩道には、今日も散歩をする人間や犬の姿がある。よく見かけるシェパードと背の高いお姉さんのコンビが、軽やかな足取りでわたしたちとすれ違う。

「こんにちは」

 お姉さんがわたしに挨拶をする。わたしも「こんにちは」と返す。

 シェパードはてんちゃんに「こんにちは。よいお天気ね」と声をかける。てんちゃんは「ええ、本当に」と答える。

 今日は確かにいい天気だ。風は少し冷たいけれど、空はよく晴れて目が染まりそうなほど青い。海も穏やかに光っている。

「ちょっと疲れちゃったわ」

 トコトコ歩いていたてんちゃんがわたしを見上げる。散歩は好きだけど、おばあちゃんだからすぐに疲れてしまうのだ。何年か前のてんちゃんは、ドッグランの中でいつまでも走り回っていたのに。

「休みましょうか」

 わたしはそう言って、近くのベンチに座る。

 てんちゃんはベンチの下に寝そべって、いつも笑っているような顔で海を眺めている。ここ一年で痩せて、毛並みも白っぽくなって、ああ年をとったなと思う。てんちゃんと過ごす時間は、時々残酷なほど短く感じられる。

「いい風ね」

 てんちゃんが言う。ヒゲが風に吹かれて揺れる。

「そうですね」

 わたしの頬を、冬の新鮮な風が撫でて通り過ぎる。

「きれいな海ね」

 てんちゃんが目を細める。

「そうですね」

 わたしも海を見る。波が太陽の光を受けてきらきらと輝く。

「空もきれい。お散歩の空はぜんぶ好きよ」

 てんちゃんがわたしを見上げる。「お散歩のとき空を見るとね、志乃ちゃんのお顔もいっしょに見えるのよ」

「そうですか」

「そうなのよ。晴れの日もくもりの日も雨の日も雪の日も、志乃ちゃんといっしょだからぜんぶ好きよ」

 てんちゃんは笑う。

 わたしは鼻の奥がツンと痛くなる。


 ああ、てんちゃんがあと八十年くらい生きたらいいのにな、と思う。

 わたしがおばあちゃんになるまで、いっしょに散歩をして、いっしょに空を見ていたいと思う。

 でもてんちゃんはもう十五歳で、豆柴だからもうおばあちゃんで、わたしといっしょに年をとる時間は、たぶんそんなに残っていない。

「志乃ちゃん、かなしいことがあったの?」

 てんちゃんは立ち上がって、わたしの前を行ったり来たりする。「なんだか元気がないわよ」

「ううん、大丈夫」

 わたしはまばたきをして、うっかり零しそうになった涙を瞼の裏に押し込める。

「てんちゃん、そろそろ行きましょうか」

「ええ、行きましょうか」

 わたしたちはまた歩き始める。

 てんちゃんが歩きながら、またわたしを見上げる。

「すてきな空ね」

 そう言って、うれしそうに笑う。

「そうですね」

 わたしは返事をして、手の中のリードを握り直す。海風がわたしたちの上を通り過ぎ、遠い空へと吸い込まれていく。

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てんちゃんとお散歩の空 尾八原ジュージ @zi-yon

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