久我山さん

たつじ

久我山さん

 子供の頃からおれのそばには、『久我山さん』っていう化け物がいる。仕立てのよさそうなダブルのスーツを着ていて、白い手袋をしている。爬虫類みたいな三白眼に、大きな口。謎のイケメン紳士、に見えなくもない。あくまで、大人しくしていればだけれど。

「トウヤ! お前、またボーッとして! バンドの状況わかってんのか? ガケッぷちだぞ! ガケッぷち!」

 ギターの圭太の声で、一気に現実に引き戻される。ここは夜のファミレスで、おれたちは今、三人でバンドの新曲を考えている。もう大学四年生なのに、就活をせずサークルの延長のバンド活動にかまけていた。

「ごめん、久我山さんのこと考えてた」

 素直に言ってしまって、ドラムの隼人がキャップを脱いで食いついてくる。

「久我山さんって誰!? 女!? トウヤ、ついに初彼女できた!?」

「知らねぇよもぉ。トウヤはさ、結局バンドもおれらのこともどうでもいいんだよぉ」

 圭太がパーマのかかった頭を抱えて呻いている。オレンジジュースをすすってスマホを見る。やばい、もう八時だ。早く帰らないと、久我山さんが暴れる。

 玄関を開けると、いつものように久我山さんが九十度のお辞儀と嫌味で出迎えてくれた。

『おかえりトウヤ。バンドごっこはまだ続けるのか?』

「うん。暇だしね」

 おれはあらかじめ買ってあった、近所の洋菓子店・モンナのショートケーキを差し出す。久我山さんは袋を破くと、ヘビのように長い舌を器用に使ってあっという間に食べてしまった。これが彼の食事なのだ。

『ウーム。やはりスイーツはモンナに限る』

「これしか食べとことない癖に。部屋行くよ」

 久我山さんは他の誰にも見えない。たまに街に連れて歩いても、誰も気づいている気配はない。母さんのような例外もいるけれど、ほとんど言葉は通じてないみたいだ。こないだおやつにドラ焼きを出されたときだって、

『このメス豚! モンナのケーキを買ってこい!これは私への仕打ちに違いない! 私が嫌いならそう言えばいいだろう!』

 なんて、台所ですごい剣幕でまくしたてていたけれど、

「あんた、なにわけわかんないこと言ってるの」

 と、冷たく一蹴されていた。笑える。馬鹿だな久我山さんは。親だって所詮他人なんだ。自分の欲求を理解してもらうためには、こちらも歩み寄るしかないんだよ。久我山さんみたいに無暗に泣いたり喚いたりしちゃ、逆効果だ。あぁ、でも久我山さんの親はおれの親じゃなかったね。あはははは。こりゃ失敬。

 久我山さんが最も活発になるのは深夜二時頃だ。

『この世のケーキは二種類に分けられる。イチゴが乗っているか、そうでないかだ』

 久我山さんが部屋のベッドに座り、おれは隅でその言葉を聞いている。この時間が好きだ。できることなら二人でずっとこうしていたい。でも、長くは続かない。そのうち久我山さんは、モンナのケーキを食わせろって、部屋中の本や楽譜や服を片っ端から投げたりして暴れ始める。そうなったらおれは、最終手段として動画サイトを漁り、久我山さんに音楽を聞かせてやる。色々試したけれど、結局おれと同じで鬱屈した青年の心情を歌ったロックが好きみたいだ。不思議だな。いかにもクラシックとか聞いてそうな顔なのに。

『トウヤには私しかいないんだ。今までずっとそうだった。これからもずっとそうだ……』

 曲を聞いて大人しくなった久我山さんは、背中を丸めて鳴き始める。おれはこの鳴き声を、子供の頃から全てノートにメモしている。単なる習慣だった。ひょっとして、これが次の新曲に使えるかもしれないな。クローゼットの隅に積み上げてあるノートの束を見ながら、なんとなくそう思った。

 はたして、おれの予感は当たった。久我山さんの歌詞をつけた曲のおかげで、おれたちのライブは連日大盛り上がりだった。こんなことは初めてだ。

「トウヤお前、ひょっとして、天才じゃね?」

 舞台上で、圭太が頬を紅潮させて耳打ちする。楽屋を出ると、スポーティーで化粧っ気のない女の子が、モンナの袋を持って立っていた。もしかしなくても、出待ちだ。

「あの……今日の歌、すっごいよかったですっ」

 そう言って、彼女は袋を押しつけて去って行った。家に帰って、久我山さんが即行でビリビリにした袋の中に手紙を見つけた。文末にメッセージアプリのIDが添えてある。

 おれと彼女—ユミちゃんが付き合うのに時間はかからなかった。元々バンドのファンだったユミちゃんは、最近のおれの作る歌詞にシンパシーを感じてくれたらしい。おれの作る歌詞って、まぁ、正確には久我山さんのパクリなんだけど。そう思いながらも、ハタチ過ぎて初めてできた彼女に浮かれて、不器用なりに距離を縮めて行った。そしてついに、ユミちゃんが部屋に来てくれるフェーズに入った。となると、邪魔なのはアイツだ。

「いいから中に入っててよ。早くしないとユミちゃん来ちゃう」

『散々私を利用しておいて、目障りになったら閉じ込めるというのか』

 久我山さんの言う通りだった。おれはクローゼットの扉を開けながら、何も答えることができなかった。久我山さんは意外にも、暴れたりすることなく中に入ってくれた。

『いいか。ユミちゃんは私じゃない。私じゃないということはトウヤを裏切るということだ』

 ユミちゃんを悪く言う久我山さんが許せなかった。

「ずっと黙ってたけどさ。おれ、アンタの声って大嫌いなんだ」

 勢いよく扉を閉めた。一階から母さんの呼ぶ声がする。

「トウヤ。あんたの好きなモンナのケーキ買ってきたよ。ユミちゃんと食べなよ」

「ありがとう母さん。今お腹いっぱいなんだ」

 締め切ったクローゼットから、久我山さんの声が漏れてくることはなかった。

 久我山さんのいない日々が始まった。おれは毎日、自分で作詞しようとした。バンド活動は長いけど、ちゃんと真剣になったのは、これが初めてだった。でも、ファミレスで何時間頭を抱えても、久我山さんのような歌詞が生まれることはなかった。諦めて外に出た。ちょうど就活の面接を終えたのだろう、スーツ姿の同級生と出くわした。

「毎日キチーよ。お前は最近なにやってんの?」

 さっぱりした髪にネクタイも絞めていて、大学で会うよりずっと大人に見える。おれは答える。

「なにって、バンドだけど?」

「おお、夢追い人! 頑張れ!」

 頑張ってるよ、と強く言い返したい気持ちを堪えて、ヘラヘラと笑った。こんなとき、なんて返すのが適切なんだろう。大学生活も就活もコミュニケーションも、他人が当たり前にできていることができない。子供のときからずっとそうだ。久我山さんを放っておけないから、みんなと遊べなかった。久我山さんが暴れるから、おれにはずっと自由らしい自由がなかったんだ。でも今は違う。おれにだって彼女ができたんだ。あとはおれ一人でも作詞ができるってことを、証明するだけだ。

 全然だめだった。ノートに何冊も書いて持って行ったけれど、圭太に全部ボツにされた。圭太も隼人ももうバンドを諦めかけていて、ファミレスのテーブルに瀕死の魚のように突っ伏していた。圭太が呻く。

「お前さぁ、なんか最近変わったよな。変なオーラなくなったっていうか。人としてはいいことなんだろうけど」

 圭太はぐっと伸びをして、おれらももう潮時ってことかな、と付け足した。

 待ち合わせの場所に半泣きで現れたおれを、ユミちゃんはよしよしして慰めてくれた。二人で手を繋いでしばらく歩いた。ユミちゃんはずっと何も聞かないでくれていた。そういう形の優しさが好きだと思った。公園に差し掛かったとき、ユミちゃんが「あれに乗ろ!」とブランコに駆けて行った。夜のブランコは不思議だ。全ての人間の心を素直にする。おれはユミちゃんとブランコをこぎながら、気が付けば話し始めていた。

「あのさ。内緒にしてたけどおれ、スランプになる前パクリをしてたんだ」

「どういうこと……?」

 訝しがるユミちゃんに、おれは訥々と話した。小さい頃から、そばに久我山さんっていう化け物がいたこと。そいつのせいで普通に暮らすことができなくて、独りぼっちだったこと。そいつはモンナのケーキしか食べないこと。そいつの鳴き声を、パクッて歌詞にしていたこと。

「ごめん意味わかんないこと言って。でも話してみてわかった。おれはこの話を、誰かに聞いてほしかったんだ」

「トウヤってやっぱりちょっと変わってるよね」

 そんなにツライならやめてもいいんだよ、バンドも作詞も。と、ユミちゃんがあっけらかんと言うので、

「でも……」

「私たち、きっかけはトウヤの歌詞だったけど、でも、歌詞を書いてないトウヤのことも、私はちゃんと見てるよ!」

 ユミちゃんはにこりと笑った。この人はおれの全てを好きになってくれているんだ。そう思ったら、涙で目の前が滲んだ。ユミちゃんは続けた。

「久我山さんかぁ、今度会ってみたいな」

「普通の人には見えないんだ。でも、ユミちゃんには見えると思う」

 そこまで言っておれは、クローゼットに入れっぱなしの久我山さんに、全然餌をやっていないことをやっと思い出した。

 走って家に帰ってクローゼットを開けると、久我山さんはよだれを垂らしてやせ細っていた。よかった、まだ生きてる。

『随分長い間、ユミちゃんと話していたんだな』

 いじらしくなって、おれは久我山さんを抱き締めた。久我山さんがいないと歌詞は書けない。でも、このまま久我山さんが死んでしまえば、おれは多分マトモになれる。小さい頃から求めていた、普通の生き方ができるだろう。ユミちゃんと二人で、生きていけるだろう。

「おれはこれから、あんたをどう扱えばいいんだろう」

 這いつくばる久我山さんに、フォークでケーキを食べさせながら考える。久我山さんは力なく、何度も生クリームを床に落としては鳴いておれに縋った。

『トウヤ……』

「へぇ、そんな上品なおねだりもできるんだ」

 昔は暴れて、おれを食べようとしたこともあったのに。

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久我山さん たつじ @_tatsuzi_

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