第07回:琉球王国と壺屋焼
■沖縄と言えば、蒸留酒の『
■また泡盛と言えば、甕で長期熟成した『
■大切な古酒を保存する甕は、『南蛮甕』と呼ばれます。『ナンバンガーミ』と地元では発音される、赤い地肌を持つこの甕、もともとはシャム(現在のタイ王国)の蒸留酒が詰めてあった甕を、沖縄で模したモノだと言われます。ちなみに、鉄分を含んだ粘土を使い、釉薬を掛けずに焼き締める、同じような赤銅色の輸入陶器は、『南蛮焼』と総称されました。
■日本の蒸留酒である焼酎も、シャムから沖縄を経由して伝播したという説が有力です。薩摩藩でも泡盛をマネて、甕に焼酎を保存し、古酒のように熟成しようと試みる者もいたそうですが、上手くいきませんでした。上薬を掛けない南蛮焼の甕は静かに呼吸し、甕の土が酒の中にわずかに溶け出し、独特の風味を産むため、マネできないとも言われます。
■南蛮焼以外に、江戸時代に珍重された、『
■このように沖縄の陶磁器は、東南アジアの海上貿易の中継基地として、古くから栄えた琉球王国の歴史を反映した、国際色豊かな物でした。もちろん、陶磁器は日用品でもあり、生活必需品ですから、琉球王朝時代の沖縄でも自作されました。初期の頃は南蛮焼の陶器が多く、これを『荒焼』と呼びます。有名な魔除けのシーサー像も、荒焼ですね。
■しかし、琉球王朝が薩摩藩の支配下に入ると、それまでのような自由な交易は制限され、外国からの陶磁器の輸入も減少しました。このため第十代琉球国王の尚貞王は、各地の小規模な窯を一カ所に集めて、『壺屋』と呼ばれる焼物地域を創り、琉球独自の陶器を生産するようになります。また、薩摩から朝鮮人陶工を招いて、技術を導入しました。
■安土桃山時代の朝鮮出兵の折りに、各地の大名は陶磁器の先進地であった朝鮮の陶工を連れ帰り、技術導入しました。江戸時代になると、朝鮮通信使と共に帰国を許されましたが、職人が軽視されがちな儒教文化の朝鮮と違い、多くの大名は陶工を厚遇したため、帰国せずに日本に残ることを選んだ者が多かったのです。これが『薩摩焼』などのルーツです。
■薩摩藩の朝鮮人陶工が伝えた技術は、陶土に化粧土を被せて絵付けや彫刻を施し、釉薬を掛けて焼き締めるという物で、薩摩焼の『白もん』と呼ばれる焼物の技術に近い物でした。琉球ではこれを、荒焼に対して『上焼』と呼びます。こうして東南アジアをルーツとする荒焼と、朝鮮をルーツとする上焼が、現在の壺屋焼の要素となりました。
■薩摩藩に貿易がコントロールされていたとはいえ、琉球は海外貿易を続けていましたから、鎖国によって外国からの技術が流入しづらい江戸時代にあっても、人的交流は比較的楽でした。第十代琉球国王の尚穆王は、平田典通を清王朝に派遣し、赤絵の技術を習得させ、評価を高めます。こうして壺屋焼は、琉球王朝の交易品として海外輸出されたのです。
■ところが明治時代になると、本土から大量生産による安価な焼き物がもたらされます。本土の窯元に対抗するには、壺屋焼は生産規模が小さかったのです。壺屋焼は衰退し、廃絶の危機を迎えます。しかし、日用品の中に素朴な美を見いだす民芸運動が大正末から興隆し、壺屋焼は再評価されます。東京などの大都市圏でも広く紹介されました。
■こうして文化の火を守った壺屋焼は、昭和六〇年(一九八五)に金城次郎が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、さらに評価を高めます。もし機会があれば、沖縄県読谷村の『読谷やちむんの里』に足を運ばれてはいかがでしょう? 海洋貿易国・琉球王国の歴史と文化を背負った壺屋焼の鮮やかな彩色には、沖縄の明るい日差しが一番似合うようです。
陶芸コラム『火と土の芸術』 篁千夏 @chinatsu_takamura
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