第06回:佐渡金山と佐渡焼
■佐渡島の佐渡焼といっても、全国的な知名度はまだまだですね。初めて聞いたという方も多いのではないでしょうか。これは、その存在が奈良時代や平安時代どころか、古墳時代まで歴史をさかのぼれる古窯と違い、佐渡島自体の歴史がそれほど古くないことによります。記録に佐渡島が現れたのは八世紀以降、行政区分として佐渡国が置かれてからです。
■元々は辺境の地として、隠岐島や喜界島などと同様に、遠流の島として順徳天皇や日蓮なども流されました。佐渡島が歴史の表舞台に出てくるのは一六〇一年、関ヶ原の戦いの翌年に佐渡金山が発見されてからです。もっとも佐渡金山といっても、佐渡島の中にはいくつもの鉱山があり、膨大な量の金と銀を産出し、江戸幕府の財政を支えました。
■佐渡金山の中で最大の産出量を誇ったのが相川鉱山で、江戸時代は金山景気に湧いて、全国から多くの人間が集まりました。人間が増えると、生活必需品の需要が高まるのは自然の成り行きで、佐渡でも専業の窯元が生まれました。佐渡には現在、およそ四〇件ほどの窯元がありますが、その内の半数近くが相川町に集中しています。
■もっとも、初期の頃は越前焼などの、日本海側の古窯から、北前船などで佐渡島に輸入された陶器が多かったようです。佐渡で本格的な焼き物が生産されるようになるのは、金山発見から二百年近く経過した寛政年間(一七八九〜一八〇〇)、相川の黒沢金太郎が、釉薬と登窯を用いた陶器の作成を始めたのが、最初とされています。
■黒沢金太郎の窯跡は発掘調査され、現在は佐渡市の指定文化財となっています。幅約四メートル・長さ十六メートルの大型登窯の跡が発掘され、陶器や瓦、甕などを一度に大量生産できたことがわかっています。黒沢金太郎は茶陶器などの作品を多く残していますが、登窯の特徴から瀬戸焼や美濃焼の技術から影響を受けていることがわかっています。
■この段階では佐渡の陶芸は、まだ他の窯の模倣にすぎませんが、少し時代を下って文政年間(一八一八〜一八二九)になると、伊藤甚兵衛が金山から掘り出される酸化鉄を含む赤土を、陶土に混ぜて焼くようになります。そうすると焼き上がった陶器は、釉薬を用いなくとも赤く焼き上がるため、佐渡独特の焼き物として伝承されます。
■この佐渡金山から掘り出される赤土を、『
■もっとも、赤土を使った無名異焼は、当時の佐渡の窯の火力が弱かったため、高温で焼き締める陶器や磁器に比べると柔らかく、同じく幕末に完成した常滑焼の朱泥の急須などとは、趣が異なります。佐渡の無名異焼は、地元の人間に『朱物』と呼ばれ、多くの窯元が生産します。時代が移ろい、明治時代になって無名異焼に大きな技術革新が起こります。
■常山窯の初代三浦常山が世に出て、無名異焼を高温焼成することで充分な硬度を得ることに成功し、中国江蘇省の宜興窯や常滑焼にも引けを取らない、朱泥陶器として、高い評価を受けるようになります。ちなみに無名異焼では、銑鉄の融点と同じ千二百度もの高温で焼き締めます。常山の他に赤水窯の伊藤赤水が出て、佐渡の陶芸は大きく発展します。
■無名異焼の特徴としては、水に焼き物用の粘土を混ぜて
■また、無名異焼は
■佐渡焼といった場合、無名異焼以外の焼き物も含みますが、無名異焼が佐渡の陶器の代名詞になっている状況です。しかし近年は、三浦小平二が青磁で、五代目伊藤赤水が無名異焼で、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受け、佐渡の陶芸の評価が高まりつつあります。佐渡の陶芸文化の、さらなる発展が期待されます。
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