エピローグ
梓は自室のベッドの上でうずくまっていた。さきほど来栖から聞いた真相に、震えが止まらなかった。手の中に握りしめたUSBメモリだけが、自己を認識させてくれる。
夜の十一時を過ぎた頃に、来栖から連絡があった。会って話がしたい、と。寝ている両親に黙って、そばにある公園に向かった。来栖が一人で来ていて、一連の事件の真相を聞かされた。真相よりも、彩音が生きていたという事実に、梓は頭の中が真っ白になってしまった。
「私も堀北さんも、善養寺に苦しめられてきたの。あいつを社会的に抹殺するために、この音声を証拠として集めてきた」
そう言って、彼女はシンプルなUSBメモリを梓の手に握らせた。十一月の夜は寒い。来栖の手も氷のように冷たかった。
「あなたなら、それを正しく使うことができるはず」
来栖はそう言い残して、夜の闇に消えていった。
梓はベッドから身を起こして、ノートパソコンを立ち上げると、USBメモリを差し込んだ。現れた音声ファイルは数百に上った。いずれも、ひとつ数十秒から数分と短い。しかし、そのどれもが、耳を覆いたくなるような怒号や罵詈雑言だ。
梓の脳裏に明日香の言葉が蘇る。
『今はそのアカウントがお荷物に感じてるかもしれないけど、いずれ役に立つ時が来る』
明日香は、首を吊ろうとした。自分のせいで、彼女は死を選ぼうとした……そう思うと、梓は、今度こそ正しくありたいと感じるのだった。久しぶりにツイッターを開く。
『異常加熱する報道機関』というトピックが拡散され続けていた。葵の名前を真っ先に報道したメディアが、彼が不起訴処分になったことで、軒並み実名報道した記事を削除したが、すでにネット上には葵の名前も顔写真も拡散しており、それがデジタルタトゥーとなっていた。それら報道機関へは多くの批判が殺到していた。
梓は溜息をつく。つい数日前まで葵を過剰なまでに攻撃していた連中は、舌の根も乾かないうちに報道機関バッシングへと戦場を移動しただけなのだ。
自分だけは正しくありたい。梓はそう言い聞かせ続けながら、剥がし屋のアカウントを開いた。震える手でキーボードに指を落としていく。
善養寺真。
パワハラとセクハラ、差別発言。
日本のエンタメ業界は腐り切っている。
音声ファイルを選択する。「ツイートする」ボタンを押せば、十五万人に膨れ上がったフォロワーたちがこの音声を聞くことになるだろう。深呼吸をする。自分は正しいと言い聞かせる。ボタンを押した。
すぐに反応がある。
『剥がし屋さん、おかえりなさい!』
その一言が目に入った。五分もしないうちに、リツイート数が五千を超えた。あちこちでメンションされていく。爆発的な勢いで、善養寺真のスキャンダルは拡散していった。まるで、新しい宇宙でも出来上がっていくのを見守るかのようだった。
スマホが鳴る。蓮からの着信だ。梓は興奮気味の手で応答ボタンを押した。
『何やってるんだ、梓!』
「明日香が言ってただろ。このアカウントを使うべき時が来たんだよ」
『どこであんなもの手に入れたんだよ!』
梓には、蓮がなぜ怒っているのか分からなかった。認められると思っていたのに。梓も分からないうちに涙が流れ落ちていた。
『梓、悪いことは言わない。今すぐあのツイートを消せ』
「もう遅えよ……」
もう一万以上もリツイートされている。著名人やネットニュースが嗅ぎつけるのは時間の問題だ。
「もう元には戻らないんだよ、蓮」
『いや、そうかもしれないけどさ……、ツイートを消すことくらいは──』
「葵も、彩音も、もうあの頃のあいつらじゃない……」
『梓、何の話してんだよ……?』
「俺も、もう終わりだったんだ」
『違う。やり直せる。お前にはあんなにスキルがあるじゃないか。その道で就職したりして、普通の人生を歩むこともできるよ』
梓は蓮の言葉を飲み込もうとしたが、うまくいかなかった。
「うん、頑張るよ」
ごく普通の若者がそう喋らせた。
『とにかく、あのツイートは消した方がいい。また変なトラブルに巻き込まれるかもしれないからな』
「今、消すよ……」ボーッとした頭で、ツイートを削除した。「ほら、もう消した」
『よかった。今はゆっくり休め。SNSは見ない方がいい』
「そうする。結局のところ、俺は復讐の中でしか生きられないんだと思う」
『えっ? なに言って──』
梓は通話を終えて、そのまま蓮のラインカウントをブロックした。そのまま、この一か月で交換したアカウントも全てブロックする。
元に戻っただけなんだ……梓はそう思うことにして、ベッドに横になった。涙が溢れ出てきた。
江口家のリビングに、久々に明日香の姿があった。
「梓はオンラインでプログラマーの勉強を始めたんだってご両親が言ってたから、ひとまずは安心かな」
蓮は盛大に息をついた。
「そうか、よかったよ」
「でも、もう私たちとは連絡とりたくないみたい」
「仕方ないさ。あんなことがあったんだから」
向こうから千夏がやって来る。お盆の上にスイーツとコーヒーの入ったカップが載っている。
「はいはい。お二人さん、お邪魔しますよ~」
お盆を置いて、千夏がすぐに引っ込もうとすると明日香が引き留める。
「え、蓮ママ、一緒にお茶しないんですか?」
「ちょっと整体院の方が忙しくてね……。明日香ちゃんはゆっくりしていっていいのよ」
そう言って、千夏は足早に整体院の方へ向かっていった。
「日常が戻って来たみたいだね」
「日常というか、なぜかあれからえぐっちゃんがバズってさ。前以上にお客さんが来て、父さんがすげー嫌な顔してる」
「なんで商売繁盛してんのに嫌なのよ」
「遊びたい人だから、あの人」
「あ、あれ……」
音を絞って流していたテレビを明日香が指さした。画面に来栖の姿が写っていた。蓮は急いでリモコンでボリュームを上げる。
『──……ました。作家の来栖ねおさんらをはじめとしたクリエイター団体は、本日、SNS運営企業に対し、SNSユーザーの心身保護のための要望書を提出したと発表しました。要望書の中で、来栖氏は、「インターネットを誰かの幸福のために利用することが当たり前である世の中を目指したい」とし、SNS運営企業に対して協力を要請しました』
スタジオでは、大きなモニターを使って、要望書の内容を説明していた。
『やはり、この要望書の中でも、SNS運営企業の努力義務としての項目が話題になっておりまして……。「攻撃意思確認プロトコル」というものなんですが……、あくまでひとつの提案として、こういう風な内容が書かれているんですね』
一、SNSに送信される投稿内容をAIが自動的に解析する。
二、解析内容に攻撃的な表現が含まれる場合、投稿はサーバーに一時保存されるが、投稿は保留状態となる。
三、サーバーから、ユーザーが攻撃的な内容を投稿しようとしている旨を通知する。通知には、保留されている投稿を実行するためのPINコードが記載される。PINコードを入力し、投稿を確定させることで、攻撃的な投稿に責任を負うことに承諾したとみなす。
『これ、いかがでしょうか?』
『うん、やっぱりね、SNSも広告収入を得ているわけですから、メディアとして、ユーザーの心身保護というのは目指すべきだと思いますね。もう二度と琴平フィルさんのような方を出してはいけませんからね』
『いやでもね、一方で、発言の自由を侵害するっていう可能性もあるわけですよ』
『だから、投稿できないわけではないんですよ。ちゃんと責任を持つっていう確認をですね──』
『それだけじゃなくて、企業によって公然と検閲が行われる危険性も孕んでいるわけですよ。ここはね、やっぱり、こういう感情論じゃなくて、ちゃんとしっかり議論して、決めていかなきゃいけない話であって──』
『そうやって話し合いしてる間に、また新しい琴平フィルさんがね──』
『いや、あなたね、そうやって極端な例ばかり出してね──』
蓮はテレビを消した。
「どこもかしこも批判殺到」
「これじゃいかん脱走」
明日香が韻を踏んで返すと、蓮は笑った。
「そういえば、明日香のお父さんもバズってるみたいじゃん」
「そうなんだよ。パパ、ちょっとやばいよ」
まとめサイトに端を発する正気こと〝ポジティブおじさん〟の動画が、「よく分からないけど元気が出る」らしく、今やユーチューブにインスタグラムにティックトックと、かなりの利益を正気にもたらしているらしい。あんなとんでもないおっさんが人々の耳目を集めるとは、世の中分からないものである。
「この前なんか、ユーチューブでHIKAKINと対談したって言ってたもん」
「ええ……、何を喋ることがあるんだ……」
「いや、なんか、ネットの炎上について話してきたとか言ってた」
「真面目だな」
「でも、パパだからさ、全部変なエピソードトークにしかならないから、絶対参考にならないと思うよ」
「ますますなんのために対談したんだよ。でもま、楽しいならそれでいいか」
明日香は肩をすくめてみせた。
「で、蓮、星さんと会ってたみたいじゃん。何の話だったの?」
蓮は恥ずかしそうに目を逸らした。
「刑事を目指せというようなことを言われたよ。それから、これからアドバイスを聞きに来るかも、とも言ってた」
「なにそれ、すごいじゃん。分かりましたって言った?」
「まさか。まだ推薦入試の結果も出てないし、とりあえず今は大学入試に集中しないといけないからさ」
「なーんだ」
明日香はつまらなそうに、両足を投げ出した。
「そっちこそ、新しい学校はどうなの?」
「順調だよ。この調子なら高卒資格も取れるし。だから、私も大学入試に集中だね」
しばらくの沈黙。明日香が言う。
「なんか、私たち普通じゃない?」
「高橋ジョージだって言ってる。なんでもないようなことが幸せだったと思うって」
「それってたぶんおじさんとかおばさんが言うことだよね」
「怒られるぞ」
明日香はイタズラっぽく笑って、皿の上に載った小さなモンブランを一口で頬張った。そのまま彼女は立ちあがる。
「もう帰るのか?」
明日香はうなずく。蓮は彼女の後について玄関までやって来た。サンダルを突っかけて、明日香と一緒に玄関の外に出る。もう冬がやって来ていた。
「うーわ、寒っ」
「中入ってなよ」
明日香が道路に出る。蓮がふと庭先を見ると、ケーシー洋介がゴルフクラブを振るっていた。
「蓮! 父さん出番が少なくて寂しかったぞ!」
「うるせー! 仕事に戻れ! さっき母さんが手伝いに行っただろ!」
「そこまで言うことねえだろ……」
洋介はぶつくさと言いながら整体院の方に引っ込んで行った。
「お互い、父親のことは苦労するねえ」
明日香が笑うと、蓮もつられて笑った。
「それじゃあ」
「じゃあ、また」
蓮は江口整体院の看板を見上げた。ここから全てが始まったように思う。バカバカしい映像が記憶に残っているが、それもなぜか感慨深いものだ。
明日香が遠ざかっていくのが見える。
またそれぞれの日常が、足元を確かめるように歩みを進めていくのだ。
──了
批判殺到 山野エル @shunt13
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