サドンデス
腹音鳴らし
サドンデス
今日のドライバーズミーティングは最悪だった。
いくらルールとはいえ、毎回大事なレース前に同じような事をだらだらと説明されるのは、苦痛でしかない。他の連中も似たような思いをしているはずだった。
送風機の埃っぽい風がうずまく部屋に、狭い
マシンを数百グラム軽量化するために、途方もない開発費がかかってしまう業界である。……となれば当然、余計な肉を蓄えやすいドライバーが、真っ先に減量を迫られる。
「顔色が良くないぜ、アンリ? レースが怖くなったのか?」
「それはあんたでしょ?」
チームメイトのウィルがいつもの軽口を叩くのは、私の体調を気遣うゆえのことだった。
下位カテゴリーのレースでは何度もぶつかり合った仲だが、こうして同じチームになると、ウィルは存外気の良い奴だった。私が女だからという理由で不当な扱いをしたり、なにかにつけてセックスを迫ってくる周りの連中とは違う。
もちろん彼は、私がこれまでそういう奴らに何をしてきたのかを、知っているからだとは思うが。
「聞いたか? リコの奴、また太ったらしい」
「あのデブ。人には痩せろってうるさいくせに……」
シーズン前に監督のリコから指示されたウエイトは、あまりにもふざけた数字だった。それでも、チームにたった二席しかないシートを自分の物にするために、私はその要求を呑まざるをえなかったのだ。
今朝までに仕上げた体は羽のように軽い。だが、これが明日の本選終了まで続くのかと思うと、視界に入った人間全員、粉々にしてやりたい気分だった。
じろじろと
マシントラブルやクラッシュでの火災が致命傷になりかねない為、レーシングスーツは耐火性を重視した素材でツナギになっている。ミーティング中、他のドライバーと同じように上着部分をはだけてTシャツ姿になっていたのだが、この日は特別、無駄口を叩く馬鹿が多かった。
「また胸がでかくなったんじゃないか? アンリよ。ちゃんと減量してんのかぁ?」
「このレースで勝ったらヤらせてくれよ!」
「俺はヤらせてくれたら、お前に着順譲ゆずってもいいぜ」
「そりゃいい。どうせシートもケツ振って手に入れたんだろ?」
前の二人は無視して、後の二人にはそうしなかった。
当たり前だが、突然立ち上がった私に、パイプ椅子で殴られる覚悟ができていた者はいなかった。ミーティングの最中だというのに、予選出場を予定していた他チームのエースドライバー二人は、頭と顎を
ただ、私を取り押さえたのがウィルだったのは、不幸中の幸いだった。羽交い絞めにしたのが他のドライバーだったなら、私はきっと、そいつの股間も蹴り上げていたと思う。
チームスペースに連行されていく間、私は囚人のように両脇をガードマンに抱えられていたが、ミーティングルームの外で待ち構えていたプレス関係者達には、しっかりとウインクをサービスしてやった。
チームの広告塔として、周囲から期待されているのは知っている。そして自分が、現在唯一の女性ドライバーとして、このカテゴリーを戦う異色の存在である事も。
良くも悪くもメディアに取り上げられる。だったらせめて、しけた顔より笑顔でいたい。その方が、写真映りも良いだろうから。
私がケガを負わせたドライバー達のチームオーナーは、揃って激怒していたそうだが、事の発端が彼らのセクハラだと分かった途端、抗議を取り下げて罰金の請求に踏み切っていた。コミッションからチームへ通達された罰金額は4000ユーロ。いまだにリラの感覚が抜けきっていない私には、あまりピンときていなかった。
……ともかく、そういうわけで私は今、チームのトレーラーの中で
予選の出場資格を
窓の外にはモンツァ・サーキットの
フォーミュラカーレースの最高峰、F1チャンピオンシップで走るのが憧れというドライバーは、星の数ほどいる。
しかし、F1の出場枠である全十チームにはマシンが各二台ずつ。すべて合わせても、たった20席しかないシートに、世界中のプロドライバーが群がるわけだ。断じて楽な道のりではない。
今期の成績では、新世界への切符にはまだ手が届かない。
それでも、あと一歩のところまではきた。このカテゴリーまで昇りつめたプライドが、私の中には確かにある。……だからそれを侮辱する馬鹿野郎は、絶対に許せなかった。
二本目のワインを空にしたタイミングで、入口の方から聞き慣れた声がした。
「……おとなしくしてろって。リコにバレたらどうするんだ、それ?」
「美味かった。って、言ってやるわ」
予選を終えて汗臭いまま戻ってきたウィルに、私は悪びれることなく言ってやる。
彼は頭をがりがりと搔きむしると、対面のソファーに腰かけて、テーブルの上に残っていたワインを一気に
「ちょっと! あんたは昼からまた乗るんでしょ?」
「もう乗らねえよ」
「……それ、どういう意味?」
「どうもこうもねえ、このカテゴリーは今年で終わりだ。ここで勝っても、もう俺達にはチャンスがねえんだと。ふざけた話だ」
ウィルは吐き捨てるように言い、またワインを
「例の話、本当だったの?」
「……ああ」
今日行われているF3000カテゴリーと上位レースであるF1とでは、マシン性能が違い過ぎて、本来のカテゴリー分けの役割が果たされていない。優秀なドライバーを育てるためのステップが、
その結果、F1に上がってすぐのドライバーがマシンに振り回されてしまい、様々な場面でクラッシュが
この状況を打破するために、近く新たなカテゴリーが設立されるという噂は私も聞いていた。そして、私達はそこで結果を出さない限り、ドライバーとしての出世はないという事も。
ウィルはそれが正式に決定したことを、オフィシャル関係者から聞きつけてしまったのだろう。
「俺はもうやめるぞ。今まで散々走りまくって、やっとここまできたってのに、またイチからやり直しじゃ割に合わねえ。お前も色々考えた方がいいぜ、アンリ」
「ふぅん。まぁ、私は続けるけどね」
「正気かよ? 毎回毎回、頭おかしくなるくらい減量して、テスト走行のたびに命張ってよ。レースじゃピットのアホ共から、いちいち見当はずれの指示が飛ぶ。これじゃ犬と変わらねえよ」
これまで我慢していたものが、高級ワインのアルコールで一気に決壊したらしく、ウィルは早口でまくし立てた。
無理もない。彼の成績は、このカテゴリーではトップを狙える位置にいたのだ。実際の新設カテゴリーでドライバーの扱いがどうなるのかは、公式発表を待たなくてはならない。が、彼が聞いてきた通り、今期の成績がリセットされるような事態になれば、この八か月あまりの苦労は完全に水の泡である。
条件や制約の中でしか、走ることが許されない。
私達は、プロという名の犬だった。
「あんたの言う通りだよ、ウィル。でもね、どうせF1カテゴリーに上がったって、この状況は変わらない。どんなにグランプリでポイントを稼いでも、総合優勝したってきっと一緒よ」
「…………そこまで分かってて、続けるのか?」
ウィルの声は、どこか悲しそうだった。
だから私はテーブルの上に立ち、ワインと一緒にクーラーボックスで冷やされていたリコのシャンパンを、盛大にぶちまけてやった。
「勝負の世界で生きてる限り、この痛みから逃げるすべなんてどこにもないわ。アホ共の叫ぶ声もやまない。だったらいっそ、全部楽しめばいいじゃない」
「無茶苦茶だ。そんでもって冷たい」
「そう? 案外、セックスより気持ちいいかもよ?」
頭からシャンパンを浴びたウィルは、子犬のような眼で私を見上げている。
「あんたも来なよ。ウィル」
「何言ってんだお前……おいッ!?」
私は彼を無理矢理テーブルの上に引っ張り上げた。
大人二人分の重さで軋んだ天板は、それでもなんとか潰れずに持ちこたえていた。足場が狭すぎて、私とウィルに弾かれた空瓶が、床に落ちてガラス片をばらまく。眼下に散らばったその鋭い輝きに、彼は思わずぎょっとなっていた。
「あぶねえ!」
「今までたくさん蹴り落としてきたじゃない。一緒よ。これからもね」
「……それで? この後は?」
「だから、いつも通りよ」
「え?」
私は察しの悪いウィルから、呑みかけのワインを取り上げた。
そして、限界速度でコーナーを攻めていく、
あの瞬間と同じ気持ちで、
「踊るのよ」
狂気に、身をゆだねた。
終
サドンデス 腹音鳴らし @Yumewokakeru
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