ウチの名前は独孤琢(どっこ・たく)

野栗

ウチの名前は独孤琢(どっこ・たく)

 かずちゃん、明日、何時の飛行機で東京に戻るん? ――ほうか。ほれやったら、今晩はゆっくりできるな。

 今年の高校野球、池田の学校が久しぶりに活躍しよったな。

 覚えとるで? あの学校が昔、何度も甲子園で優勝したこと。

 あの時かずちゃんはまだこんまかったけん覚えとらんかもしれんけど、あのチームな、ほんまはな、監督も選手も人間ちゃうんでよ、みな箸蔵山の豆狸が化けとぉんでよ、って山城のおばさんがよう話っしょったな。

 まあ、信じるかどうかはおまはん次第や。ほなけんど、西阿(そら)の方では狸の中の狸やいうたら、何と言うても甲子園の名伯楽・池田のお蔦狸じゃ。

 山城のおばさんが元気でおいでた時は、きせるでタバコをふかしながら、よう狸の化かし話をしよった。池田のお蔦から山城の藤太郎、おそめ、お艶……なつかしいな。


 かずちゃんも徳島を離れて久しうなっとるしな。今晩はえっとぶりにこんな話でも聞いていかんか。


   ***


 お艶狸は生まれも育ちも山城の娘狸。山での暮らしに飽きると、時々里に下りてはおまわりや呑み屋の大将に化けて、不埒な酔っぱらいを懲らしめておった。その変化(へんげ)の才を見込んだ池田のお蔦は、海の見える広い世界に行って本格的に修行せんか、ともちかけた。

 お艶は山を下り汽車に乗って鳴門市に出ると、さっそく界隈を束ねる金時狸の下に身を寄せた。お艶は金時が経営する鳴門駅前の土産物屋店員に化け、観光客相手にバチもんの鳴門ワカメやらがっつり底上げした箱入りスダチやらを、笑顔といっしょに売りつけておった。金時は売上を数えてはホクホク顔だ。


 ある日、池田からお蔦がやってきた。かすりの着物に赤いたすき掛けでくるくると働くお艶を見て、お蔦はそろそろ長期の変化修行に移らんか? と誘いかけた。


 それからお蔦は、あんまりし過ぎたらアカンでよ! と金時狸に釘を刺すのも忘れない。


 長期、つまり年単位の変化修行。それは、変化を解いて狸に戻ったところを人に見られたら最後、今までの修業が全部水泡に帰すという、厳しいものだ。

 

 そやお艶、鳴門南高校野球部の四宮監督は、細かいことに気の廻らん大ざっぱなお人や。ほなけん四月から首尾よう潜り込めたら三年間心置きなく修行に励めるでよ。書類まわりはうちが何とかするけん、どうで?


 お艶は心ひそかに今の商売長う続けたらアカンと思いよった。まさに渡りに舟。二つ返事でお蔦の提案を受けたお艶は、春までの短い間、山城にいんでととさまかかさまに報告し、幼なじみの染吉狸と暫しの再会を喜び合った。修行が済んだらすぐ山城にもんて来い、待っとるきにな、と染吉。


   ***


 お艶は独孤琢(どっこ・たく)というすこしばかり風変わりな人間名で鳴門南高校野球部に潜り込んだ。独孤琢はソバカス面にドカベン体型の捕手、口数は少ないが、チームメートから家のことを聞かれると


「ととさまは阿波山城の十郎兵衛、かかさまはお弓、兄さまは染吉」


と人形浄瑠璃のマネしてまぜっかえす一面もあった。


 独孤琢――お艶は鳴門南高投手陣の練習相手の捕手をつとめておった。「壁」と呼ばれるこの役回りは地味で辛いものだが、不必要に人間どもの注目を浴びずに済む。

 そうそう、かれの特技は球拾い。なんと言うても、こっそり狸の姿に戻っては草むらでも用水路でもどこでももぐり込み、大事なボールを見つけてくるんやからな。


 二年目の早春二月。お艶は壁の他に控え捕手としての練習にも余念がなかった。

 ある日、練習が終わってグラウンドにトンボかけをしておると、どこからか懐かしい匂いが漂ってきた。人間には知るすべもない、胸をえぐるような、いてもたっても居られないその匂い。

 お艶はソバカス顔を上げて匂いの方向を確かめた。そう、狸は犬の仲間。鋭い嗅覚で方向を定めると、お艶はグラウンドをそっと抜け出した。


「染吉!」


 染吉は子どもの姿に化け、木の葉のお金を握りしめている。

 お艶は子どもに駆け寄ると


「おまはんなんしに…? まさかととさまかかさまに何か…!」


 子どもの染吉は首を横に振ると声を張り上げた。


「ちゃう。お艶、わい、おまはんに会いに来たんや」


「何や、そやったんか。ははは、うちは大丈夫や。あと一年と少しや。あんな染吉、うちらひょっとしたらこの夏甲子園にも行けるかしれん」


 子どもは顔をゆがめると地団駄を踏んで


「ちゃうちゃう、ほんなんちゃう。一年も待てるかいだ! わいはおまはんに会いたかったんじゃ」


とブンブン首を横に振った。


「……染吉! おまはん何しよん? 人に見られたらえらいこっちゃ」


 お艶はだしぬけに狸の姿に戻った染吉を抱き上げると、そっと学校から離れ、素早く近くの藪の奥に潜り込んだ。そこでお艶も術を解き、するりと狸の姿になった。



「お艶、ほんまに会いたかった」


「うちもじゃ、染吉」



 互いに再び人間の姿に変化した二匹はそっと藪を出ると、染吉はバス停へ向かい、お艶はグラウンドへ戻っていった。 チームメートが駆け寄って「タク、さっきまでどこ行っとったんじゃ」と言いながら、お艶の背中についた笹の枯れ葉を払い落としてやった。


   ***


 桜の蕾が綻び始める頃。ある日お艶は何だかえらく身体が重いと感じた。疲れたんやろな、と早めに床についたのだが、何だかドキドキして眠れない。あの日の染吉の姿がしきりに瞼に浮かんで、何度も寝返りを打った。

 身体の重さは良くなるどころか、日を追うごとに少しずつ、少しずつ増していった。毎日の練習が、信じられんぐらいにせこうなり始めた。


 捕手は、ずっと屈んだまま投手の球を受けんならん。おまけにプロテクターが容赦なく身体を締め付けてくる。お艶は防具を緩めたり膝をついたりしながら、しんどさを何とかしようともがいておった。我が身に何が起きているのか皆目見当がつかぬまま、キャッチングもスローイングも身のこなしも、目に見えてぎこちなくなっていた。


「タク、怪我でもしたんか?」


と監督に聞かれると、お艶はいいえと首を横に振った。


 このまま倒れでもしたらえらいこっちゃ、人間の医者に頭のてっぺんから足の先まで検査された日には、いっぺんに正体が知られてまう。ああどないしよう。一体何なんやこのせこいんは?


 ある日、卒業したばかりの先輩たちが練習を見にやってきた。

 彼らはノックを受けるお艶の防具が緩いのを目敏く見つけるや「タク!」と呼び寄せた。


「タク、何やこれ、ぞうらいな付け方しよって。そんなんやからフライもろくに捕れんのや」


と叱咤すると、プロテクターをぐっと締め上げた。お艶は喉まで出かかった悲鳴を飲み込んだ。監督がこの時休憩の合図を出さなかったら、どないなってたやろか。

 お艶はグラウンドの隅で、急いで防具を外した。その時、腹の中ではっきり、何かが動くのを感じた。


 束の間の休憩が終わると、お艶は監督に


「このところ自分、スタミナが足らんように思います。少し外周走ってきていいですか?」


と申し出た。監督は「ほうか。ほな行ってこい」と背中をポンと叩いた。


 お艶は染吉と入ったあの藪に入り込むと、大急ぎで狸の姿になった。変化を解くのはあの時以来だ。そして己の腹の辺りを見て、お艶は絶望にくらくらした。腹の仔は四匹。一匹ずつはっきり動いているのがわかる。なんしに? なんしに?

 ここまで修行を重ね、あと一年というところ、今年のチームは甲子園も十分狙える、と監督も言っていた。

 しかしこのまま練習を続けたら最後、この仔たちが無事でいられるわけがない。今まで何度も投手の球を捕り損ねては腹や胸に当て、ホームベース上のクロスプレーではランナーの体当たりをもろに食らったりしていた。お艶は震えが止まらなかった。いくら人間に化けても、腹の仔までを誤魔化すことはできない。雌狸の宿命にお艶は歯噛みした。


 こんなところでぐずぐずしてはいられない。お艶は独孤琢の姿に戻ると、学校の外周をぐるぐる走った。決して楽なトレーニングではないが、腹に衝撃を加えぬ分、捕手の練習よりはるかにましだった。


   ***


 そうや、お艶の話を続ける前に、染吉のことを少しばかり言うとかないかん。


 染吉は山城の段々畑で、小松菜を育てておった。

 先週収穫が終わったのは「春のセンバツ」種、来週からは「夏の甲子園」種を蒔く予定だ。染吉はなんしに小松菜の品種は揃いも揃ってこないおかしげな名前なんやろと思いつつ、鳴門で修行を重ねるお艶を思ってこの二年、願をかける思いで肥料を運び水をやりして「春のセンバツ」「夏の甲子園」に「秋冬のエース」「冬の豪速球」を育てては出荷しておった。


 染吉は里人に化けると、山城の農協に収穫した小松菜を運び込んだ。待合室に置いてあった徳島新聞のスポーツ面を開くと、鳴門南高校野球部監督の狸顔が飛び込んできた。お艶はこの人の元で修行を続けておるのか、と思うと、安堵が胸いっぱいに広がった。

 わしはまる一日化けるのでも精一杯やのに、お艶はもう2年も野球部員に化けておる。ホンマに大したおなご狸じゃ。

 会いたい、会いたい、一日でも早う一緒になりたい。


   ***


 お艶は考えた挙げ句、監督に練習メニューを走り込み中心にしたいと申し出た。監督は


「せやなー、タク、お前三月頃からよう食べるようなっとるしな、動きが鈍うなっとるのも、身体が大きいなってきよるからやろしなー。ボール触らんとしばらく走り込んで絞った方がええやろな。ほなけんどスダチの皮まで食べられんでよ。あれ農薬かかっとるけんな」


と二つ返事で快諾した。


 次の日から、お艶は黙々と外周を走った。チームメートは、タクの奴なんしに冬でもないのに単調でしんどい走り込みなど志願したんやろか? と囁き合った。


 葉桜の季節に入り、お艶はついに走ることすらせこうておれんようなった。走っては歩き、また走っては座り込みして、容赦なく腹を蹴飛ばす四匹の仔を宥めていた。


 ある日、いつものように練習前のストレッチをしておると、監督がやってきた。


「タク!すぐ来い」


 監督は狸顔を引きつらせて、大声でお艶を呼びつけた。校舎に入ると、監督は生徒指導室にお艶を押し込んでピシャリと扉を閉めた。


「タク、お前、なぜここに呼ばれたかわかるか?」


「……いいえ」


「タク、お前の今の練習メニューは何や?」


「ストレッチと外周ランニング、それからチューブを少し……」


「どや、成果はあったんか?」


「……」


「成果はあったんか、て聞っきょるんじゃ!」


「……」


「もう一度聞く。成果はあったんで?」


「……まだ」


 監督は冷ややかにお艶のソバカス顔を見つめた。


「ランニング主体の練習でスタミナつける言うてこのメニューにしたんは、お前やろ」


「はい……」


「どうで?スタミナとやらはついたんか?」


「……まだ……」


「そやろな。タク、おまはん外周ずいぶんさぼっとったらしいやないか」


「……」


「誰も見とらん思うとったんか?」


「……」


「今朝、校長に電話があったんじゃ。ソバカス顔の野球部員がうず潮公園のベンチで長い時間寝よったってな!」


 昨日、走っているうちに腹の仔が動き回り、いつにも増して激しく腹を蹴飛ばしてきた。こらえられんようなって公園のベンチに倒れこみ、仔がおとなしくなるのを待っていた、あの時だ。苦しさが少し和らいだ時に、ついうつらうつらしとったかもしれん――


「……電話なすったのは、どなたですか……」


「アホ! ほんなんお前に言う必要やあるかいだ! 自分のしたことよう考えてみい!」


「……あの時、急に身体がきつうなって、休んどったんです……すみません……」


「それだけか!」


 監督はお艶の顔をきっと指差した。


「お前がこの間ずっと練習さぼってからに、ちんたらほっつき歩っきょる、って話もようけ学校に来とるんじゃ! 独孤いうんは、お宅の生徒さんですか? ってな!」


 お艶は練習着の胸の人間名に思わず手を当てた。


「向こうさんは、あんなふうに高校生に公園のベンチ占領されたらかなん、東京の公園みたいにベンチに仕切りをつけて、お前みたいなの寝させんよう鳴門市に言うていくわ! とまで言うておいでたわ」


「……電話したの、東京の人なんですか……」


「アホ! やる気ないんやったら、さっさとやめて今すぐ山城へいんでまえ!」


「かんにんして下さい! 練習さして下さい!」


「ほうか。ほんなら、後でおまはんのやる気とやらいうのを見せてもらおか?」


 お艶の全身に寒気が走った。仔がまたぞろ腹の中ではしゃぎ出す。


「タク、お前のような奴は皆の練習の邪魔じゃけん、わしが来るまでずっとここにおれ!」


 そういい残すと、監督は荒い足音を残して去っていった。

 お艶はへたへたと座り込んだまま、動けない。


   ***


 あと一年で変化の修行が終わる。この大事な時に、よりによって染吉の子を授かってしもうた。


 人間のおなご衆の中には、行きずりの相手と子が出来てしもうて、誰も頼れず誰にも相談できんうちに、ある者はなけなしの貯金をはたいて病院で中絶し、ある者は公園のトイレやコインロッカーに生み捨て、ある者は母子で孤立した挙げ句我が子に手をかけてしまう、いうむごい話がある。

 いつぞやチームメートがテレビのニュースを見ながら、よう自分の子を平気で殺したりできるなあ、おんなは怖い、と他人事のように笑っていた。お艶は本気でその口を引き裂いてやろうかと思った。あの時、お艶は血の滲むほど唇を噛み締め、ソバカスを真っ赤にして、チームメートに振り上げかけた拳をやっとのことで下ろしたのだった。


 甲子園に出たら可愛い子がなんぼでも寄ってくる、よりどりみどりやな、って何なん? 人間のおとこ衆って何考えて生きとるん? そんなことが笑い話やら冗談になるなんて、ほんまに恐ろしい話じゃ。


 グラウンドから聞こえる球音をぼんやり聞きながら、生徒指導室の机に突っ伏したお艶はこんなことを思い出しておった。

 死んだばあさんが、昔こんな話しよった――この辺の山の農家の嫁はんの中には、家人に内緒でヘソクリをためておるもんが何人もおる。おとこ衆は何も考えんと、したいときにするけん、育て切れんことがわかっとる子ができてしまうんじゃ。それを「始末」するのに、一人で辛い身体ひきずって里の産婦人科まで行くんやが、病院の受付で懐から五円玉を紐に通したヘソクリを何本も出して、腹の子をお願いします、とくるんじゃ。

 何やこれ? と嘲り笑う新米の看護師を、医者が顔を真っ赤にして


「おまはん、この嫁はんが、どないな思いして働いて、このお金を貯めて持ってきたかわかっとるんか!」


と叱りつけていた――という話。

 そう、おとこ衆の中にも、こういうお方がおいでるんでよ、という話じゃった――。


 むざむざ人間のおなごと同じ運命を辿るなど、うちはほんま願い下げじゃ! おとこ衆はなんしにこの苦しみの一片すら我が身に引き受けもせんで涼しい顔でおれるんや? おとこのわがままのせいで身体引き裂かれるのは、いつもおなごや。それやのに、少しばかりおなごに味方するようなこと言うただけで、なんしに出来たおとこ衆じゃとありがたがられるんや。


 甲子園が何や、修行が何や、腹の仔らはまごうことないうちと染吉の子じゃ。


   ***


 やがて球音が止み、生徒指導室に夕闇が迫り始めた。監督の足音が近づいてくる。


「独孤琢!」


 怒鳴り声とともに扉が開いた。お艶は顔を上げのろのろと立ち上がった。


「さあ、これからお前のこれまでの練習の成果見せてもらおうか。何人か残ってもろうとるけん、しっかりやらんかったらホンマこらえんぞ!」


 夜間照明が煌々とグラウンドを照らしている。


「監督、少しだけ待って下さい 」

 お艶はそう言うと部室に入り、タオルとサラシで念入りに腹を巻いた。


「さぞかしみっちり走り込んてきたやろから、そろそろボールに触ってみんで?」

 監督は、ほれ! とプロテクターを突き出した。


 山城のおんなたちは、病院で腹の子を「始末」してもろた後、ろくに休むこともできんまま家に戻って、そのまま炎天下の、あるいは寒風吹きすさぶ畑に出て野良仕事したいうやないか。


 お艶は防具をきっちりつけると、監督に「お願いします」と一礼した。

 監督が指示したのは、投手の球を捕り素早く二塁に送球して盗塁を刺す、お艶の一番苦手とするプレーの反復練習だった。バッター役は不動の四番・木村、ランナー役はチーム切っての韋駄天・板東だ。投手の球を捕球、しゃがんだ姿勢から、スラッガーの猛烈なスイングに阻まれながら素早く二塁に送球する。その度に、腹の仔はいごいご動き回る。


「何やそれ、膝べたっとついたまま捕るアホがどこにおるんで? そんなんやからまともなスローイングでけへんのじゃ」


 お艶はワンプレー毎に監督に叱咤され、時に小突かれる。


「タク、一度位アウトにできんのか? 少しはやる気出したらどや! 走られまくりやんかお前。たいした練習の成果やな」


 いつしか日はとっぷり暮れ、空には星がまたたき始めた。


 監督は選手を集めると、今度はスクイズ練習を命じた。場面設定はノーアウト満塁。バッターとランナーが交代した。韋駄天の板東が左バッターボックスに入り、チーム一の巨漢の木村が三塁ランナーに。

 お艶も決して小柄な方ではないが、あれが猛然とホームに突っ込んで来るのかと思うと、背筋がゾッとした。


「板東、お前、足生かすためにもう少しバントの練習しておけ。独孤琢、お前ええ加減性根入れて、今度こそきっちりアウト取りや」


 二年間みっちり打撃投手をやってきた投手は、心にくい程バントしづらいコースに球を集めてくる。

 板東が辛うじて当てた球は小さいキャッチャーフライになった。木村は勢い余ってホームと三塁の間まで飛び出した。

 お艶はその行く手を阻むように立ち塞がると、「サード!」と声をかけて送球。何とかアウトを取ることができた。腹の仔がまたぞろいごいごし始める。お艶は、我が子もこないしてうちを応援してくれとるんやろか? とぼんやり思った。


 二回目の練習。さっきアウトを取られた木村は、両のほっぺたをパンパン叩いて気合いを入れ直している。

 板東がバットの先っぽを球に当てると、お艶はそれを拾おうと手を伸ばした。その時、四匹の仔がポンとお艶の腹を蹴飛ばした。動きの止まったお艶の目に、猛然とホームに突っ込んで来る木村の巨体が入った。慌ただしく球を拾うと、お艶もホームに向かった。二人はホームベースの上でぶつかり、お艶は呆気なく吹き飛ばされた。お艶は握った球を離すと、地面に叩きつけられながら両手で必死に腹を庇った。


「何や、ボールこぼしてしもうたんか。ホンマあかん奴っちゃな。……タク、お前何しよん、いつまで寝よるんじゃ」


 監督がつかつかと近寄って来た。


「タク、早よ立ちらんか!」


 監督が防具のベルトを掴んでぐいと引っ張ると、お艶はミットを外してその手をつかんだ。


「監督、かんにんして下さい! かんにん……」


「何言うとるんじゃ、まだ終わっとらんぞ」


「監督、ほんまのこと、全部言います。うちは、うちは……」


「何ごちゃごちゃぬかしとるんじゃ!」


「お腹だけは、かんべんして下さい! 今まで隠しとって、ほんまにすみませんでした。ほんまのこと、ここでみな話しますけん、お願いです! お腹だけは、かんべんして下さい!」


 木村が抱きかかえるようにお艶の身体を起こすと、


「タク、大丈夫か? 頭打ったりしてへんか? おい、これ救急車呼んだ方がええかも……」


 救急車の言葉にビックリして跳ね起きたお艶。


「そんなん呼ばんといて! うちは大丈夫や!」


 立ち上がった拍子に、四匹の仔が盛大に腹を蹴り上げる。お艶は腹を抱えて再びうずくまった。


「うちは……大丈夫やけん……うちは……」


「お前、うち、うちって、何や? おなごみたいなしゃべり方しよって」


「監督……みんな……ずっと嘘言うて、すみませんでした。ほんまの……ほんまのことを……話します」


「ほんまのことって何や、言うてみ」


 監督は蒼白になったソバカス顔を見下ろすと、不得要領な表情を浮かべた。

 独孤琢は顔を上げると、意を決して話し始めた。


「うちは……山城の……狸です。ととさんも……かかさんも、狸です。

 狸が……こんなふうに……化けて、ここにおるのです」


「は?」


「うちのお腹には赤子が……赤子がおります。今まで隠しとって、ほんまにすまんことです」


 監督もチームメートも、狐につままれたような顔になった。


「……こうして人に化けるのは、狸の修行のひとつです。……独孤琢いうんは、鳴門南の野球部に入るための嘘の名前です。うちのほんまの名は……お艶いいます。お察しの通り、雌狸です。……お腹の仔は山城の、うちの大切な幼なじみの狸の子です。うちひとりのせいで、皆にこんなに迷惑かけてしもうて、ほんまにすまんことです」


「何やて? 狸?」


「タクお前狸やて?」


「おなごの狸が何でこんなとこにおるんじゃ?」


 口々に訊ねるチームメートに、お艶は答えた。


「私ら狸は、茶釜にでも車にでも屋敷にでも、何にでも化けられます。雌がおとこ衆に化ける位、造作ないことです」


「狸の姿に戻るのは、ここですぐにできます。……ただ、人の言葉がしゃべれんようなります」


 そう言うと、お艶は術を解いた。

 ソバカス顔が消え、腹ぼての狸の姿が鳴門南ナインの目の前に現れた。


「タク……」


「……」


 監督は、狸の顔をまじまじ見つめながら訊ねた。


「お前、どこで赤子を生むつもりでおったんで?」


 狸はキュンキュン鳴いている。


「そうか、誰にも言えなんでおったんやな」


 狸はキューンと切なく一鳴きした。


   ***


 次の日の朝、鳴門駅に狸顔の監督とソバカス顔の独孤琢が現れた。


「大丈夫か? 同じ化けるなら、赤ん坊にでも化けてくれれば、わしが負うていくのに」


「大丈夫です。メイナン(鳴南)野球部はそんなヤワじゃありません」


「ほなけんど無理せられんでよ」


「うちの子らもメイナン野球部員ですよ。この間ほんまによう猛練習に耐えました」


とソバカス顔が腹を撫でて微笑んだ。


「監督、うちは駅前の土産物屋でしばらく世話になりました。挨拶してきますけん」


「さよか、わしはここで待っとるけん、早う行ってこい」


 お艶は土産物屋の引戸を開けると、主人の金時に声を掛けた。


「親方、お艶です」


「お艶か。どうで? 野球の方は?」


「親方、実はわけあって、山城に戻ることになりました。あないにお世話になったのに、申し訳ないことです」


「あー、ほうえ? おまはんのような娘狸が修行をよう続けんのは、おおかたアレやろ?」


 金時は下卑た笑いを浮かべると、右手で腹の前に半円を描いて見せた。


 手塩にかけた若狸が、修行を放り出してふがいなく国もとに帰る、そのやるせない怒りはお艶にも痛い程分かる。

 それでもなんで雌狸の挫折がこない見下した言われ方をされなあかんのか、悔しさにソバカスが真っ赤になった。


「申し訳ございませんでした」


 お艶は頭を下げると、店を後にした。



 監督とお艶は汽車を何度も乗り換えて、阿波池田の駅に着いた。そこには高野連役員に化けたお蔦が待ち構えておった。


「あー、四宮さん、お久しぶりです」


 そう言って、野暮ったい背広姿のお蔦は駅前の宿屋にふたりを案内した。鳴門から山城まで、その気になれば一日で着く位造作もないことやけど、四宮監督はお艶の身体を気遣い、池田の高野連役員に宿を頼んでいたのだった。


「四宮さん、ちょっと独孤くん借りますわ」


 お蔦はお艶を連れて、池田の町に出た。お蔦の古巣の強豪校のグラウンドが見える小高い丘で、ふたりは術を解いて互いに狸の姿になった。


 お蔦はお艶の腹を見て、こんなになるまで何であのきつい野球部の練習を続けていたのか、と涙を流した。人間のおなごの苦しみは、到底うちの比ではありません、なんのこれしきです、私の修行のために、お蔦さまにあんなにお力添え頂いたのに、こんな不始末となり、お詫びの言葉もありません、と答えながら、お艶の胸に今までのことが一度に甦ってきた。お艶は地べたに座り込んでおんおん泣いた。


 お蔦は最後まで「誰の子や?」と聞くことはなかった。


   ***


 山城にもんたお艶は、無事に四匹の元気な子を生んだ。染吉は別狸のようになって戻ってきたお艶を迎えて、初めてことの全てを知った。染吉はただただお艶を抱きしめ、我が身の不明を恥じ、己の胸をかきむしることしかできなかった。

 畑では「夏の甲子園」がすくすく育ち、子どもらは小松菜の葉の間でかくれんぼしながら毎日遊んでおった。


   ***


――お父ちゃん、甲子園じゃ。


 球場の公衆電話にぶら下がるように、幼稚園児ぐらいの女の子が受話器を握り締めている。


――着いたんか? これから試合か?


――うん。


――お藤、お母ちゃんに代わってくれんか。


――お母ちゃん! お母ちゃん!


 四人の幼児が黄色い声をあげると、鳴門南高校野球部の試合用ユニ姿の独孤琢が受話器を受け取った。


――お父ちゃんごめんな。


――何言うてんるんや、それはこっちのセリフじゃ。小松菜ぐらいわし一人でどないにでもなるわい。子どもらはどないで?


――はしゃいではしゃいでしよるわ。ホンマどもならん……お鯉、お母ちゃんから離れたらアカン言うたやろ! 常吉、あんたおしっこか? ……お父ちゃんまた電話するきにな! 

――常吉! 我慢しいや! ここで落としたらこらえんでよ! 狸ちゃうんやきに、どこでもせられんのでよ!


 受話器を置くと、独孤琢は大慌てで育児グッズでパンパンのエナメルバッグを担ぎ、子どもたちをだれでもトイレに押し込む。


   ***


 鳴門南高校の試合の前日、染吉はお艶に甲子園に行ってこい、と言い出した。木の葉じゃないホンマもんのお金ぐらいなんぼでもあるけん、行ってこい、と。


――行ってきますわ。この子らも、一日ぐらいは化けれるようなってきよったし……


――なに言うてるのや、子どもらはおいていき。おまはん一人で四人の小さい子どないして連れていくんじゃ?


――お父ちゃん、この子らはメイナンの野球部員じゃ。うちと一緒に、あのきつい練習をくぐり抜けてきた子たちじゃ。ほなけん、うちが甲子園に連れて行きます。


――お藤、お鯉、米吉、常吉! お父ちゃんとこ来い! おまはんら、お母ちゃんと一緒に甲子園行くか?


――行く! 行く! お藤行く! お母ちゃん連れてって!  


――お鯉も!!


――お母ちゃん! お母ちゃん!


 四匹の子は母狸にまとわりついた。


――ほうか、ほなら一緒に行くか?


――行く! 行く! 米吉も行くう!


――常吉も!!

 

――お母ちゃん! お母ちゃん!


――お藤、お鯉、米吉、常吉! お母ちゃんと一緒に、庭に出なはれ。

 甲子園行くのに、狸のままではなんぼなんでもぐあい悪いきにな。

 おまはんら、もしよう化けんのやったら、ここで留守番や。


――嫌や嫌や! 留守番やかしするかい! お藤は行くんじゃ、甲子園行く!


――ほうか。ほなら、お母ちゃんが先にするけん、よう見とりや!


 お艶は頭に木の葉を置いてそっと目をつぶると、ポン! と変化した。

 ソバカス顔の高校球児が狸の父子の前に現れた。


 子どもたちも頭に木の葉を乗せ、ありったけの力を振り絞ると、年長さんぐらいの子どもに化けた。


――お艶、まさか、そのなりで行くんか?


――お父ちゃん、さすがにこの練習着では行かん。学校の制服があるきにそれで行くわ。そや、この子らの荷物せなな。


 お艶は鳴門南高校野球部のエナメルバッグを取り出した。校章の横には「独孤琢」の人間名が入っている。

 

 染吉は狸の子に戻った四匹を引き寄せると


――おまはんら、お母ちゃんの言うことよう聞くんやで。甲子園でお母ちゃんを困らせたらな、お母ちゃんがええ言うてもわしが絶対こらえんけんな!


と繰り返し言い聞かせた。


   ***


 坊主頭に背番号のない試合用ユニ姿のお艶と四人の子どもたちはだれでもトイレを出ると、まっすぐアルプススタンドに向かった。鳴門南高校の大応援団の中に、ベンチ入りできない野球部員の一団がいた。お艶はその端に子どもたちを座らせた。

 かちわり氷をちゅうちゅう吸いながら、お鯉がスコアボードを指差した。


――お母ちゃん、相手どこやの?


――東京のチームや。かなり強いらしいで。


――お母ちゃん、東京ってどんなとこやの?


――お母ちゃん東京はいっぺんも行ったことないけん、よう知らん……ほなけんど東京は、東京の公園はな、ベンチで人を寝ささんよう、どこのベンチにも真ん中に固い仕切りがこしらえてあるんでよ。


 応援の団扇が配られる。お艶は補欠の仲間と肩を組み、高らかに応援歌を歌う。

 歌が「阿波の狸」に替わると、子どもたちは団扇をふりながら黄色い声を上げはじめた。


――あんなお母ちゃんらな、みな同じ服やけん、わからんようならんよう、そばにおりや。


――常吉はお母ちゃんの匂い大好きじゃ。お母ちゃん匂いですぐわかるきに、大丈夫じゃ。


――米吉もお母ちゃんの匂い大好きじゃ。


――お鯉は、お母ちゃんのくっつき虫になるんじゃ。絶対離れへん!


――あんなお母ちゃん、お藤な、お藤も大きいなったら甲子園出るんじゃ。


――ほうか、そら頼もしいわな。


――お藤な、お母ちゃんと同じ鳴門南高校でソバカスのキャッチャーになるんじゃ。ウチの名前は独孤琢じゃ。


――ほうか……


 試合開始のサイレンが響き渡った。

 お艶はグラウンドに散る鳴門南ナインを見つめながら、お藤の小さな手を握りしめた。

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ウチの名前は独孤琢(どっこ・たく) 野栗 @yysh8226

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