第2話
「このラプラス方程式から―――」
僕は教授が黒板に書いた方程式をノートに書き写す。50人ほどが入れるこの講義室には今、僕を含めて7人しかいない。必修科目でもなく、試験も難しいと噂されるこの講義をとるのは大がつくほどの真面目ちゃんか、友達と情報共有が出来ずに取ってしまった人、それか僕みたいに暇を持て余している人に分けられる。卒業に必要な単位は既に取り終えていてこの講義の単位を落としたところで何も問題は無い。
お昼明けの講義で既に2人は舟を漕いでいる。僕の右前の席に座っているやつは講義の開始から今まで机の下で携帯ゲームをしている。つまりこの講義を真剣に受けている(または真剣に受けているように見える)学生は僅か4人だ。教授は学生の様子など気にかけずに淡々とニュースを読み上げるキャスターのように数式を説明する。
講義が始まってから24分。僕は荷物を纏め、講義の途中で部屋を出る。教授は僕に一瞬目を向けたが、直ぐに黒板に向き直った。
僕は歩きながら渉からのメッセージに返信する。
[やっぱ行くわ]
直ぐに既読になり、メッセージが届く。
[マジか! 助かる! 今日の女子はマジレベル高いから期待しててくれよ]
[他には誰来んの]
[男メンバーは俺、高橋、よっち。女メンバーは俺と同じ高校だった今O女のゆり、あとゆりの友達たち。みんなO女だぜ]
O女は近くの女子大だ。僕はO女にはお嬢様しかいないという偏見を持っている。
きっと渉は今回の女メンバーの中にお目当てがいる。渉のことだからきっとお持ち帰りできるだろう。高橋もなんだかんだでモテるからあいつもお持ち帰り出来る。そうなると問題はよっちで、自分だけお持ち帰り出来ず、きっとしばらく彼の機嫌は悪くなる。それは面倒くさいので、なんとか僕がお膳立てをしてあげる必要があった。
そんなことを考えながら僕は大学図書館に行き、適当に手に取った科学雑誌を読んで、渉主催の合コンまで時間を潰す。
約束の時間の5分前に渉からLINEで送られてきた住所につくと、既に渉、高橋、よっちは集まっていた。
そこは学生御用達の安い大衆居酒屋の前だった。
「よお! 佐藤」
渉が僕の姿に気がついて手を上げる。
軽く手を上げ返し、周りに視線を配る。
「女子はまだ来てないの?」
「ああ、たぶん、あと5分もしたら来ると思う。その前に先に中に入って作戦会議しようぜ」
僕は頷き、4人で居酒屋に入る。
案内されたのは大きめのテーブル席で、8人が座っても余裕があるくらいだと思った。僕はその席の1番奥、いわゆる上座に腰を下ろす。僕の横には高橋が座り、その横によっち、そして渉の順に座る。
作戦会議とは言ったが、それは「俺がゆりを狙っているからお前らは手を出すな」という渉からの釘刺しのみで、よっちはいつもに増してテンションは高く、傍に来た店員につまらない冗談を言い、高橋は黙々と手元の携帯を弄っていた。
女性陣は渉の言う通り、すぐに来た。
「こんばんはー、はじめましてー」と言いながら向かいの席にぞろぞろと腰を下ろす。
僕の目の前にはショートカットでややつり目がちな女が座った。
渉が「皆、生でいい?」と確認を取り、すぐに店員を呼んで生ビールを8つ注文した。
生ビールはすぐに来て、バケツリレーのように人から人へ回され、僕の元へ届いた。
「それじゃあ、まずは乾杯しようか。はい、皆グラス持ってー。それじゃあかんぱーい!」
僕らはまだ名前もろくに知らない彼女らとグラスをぶつけ合わせる。グラスがぶつかると中の黄金色の液体が揺れ、零れそうになる。ビールを1口、口に含む。苦味が広がる。
「よし、じゃあ、最初は自己紹介だな。俺からでいい? 俺から男子勢は自己紹介してその後、女子たちの順番にしようか」
てきぱきと渉は進行をする。僕の前に座るショートカットの女が少し顔を顰めたのに気がついた。きっとこの女は数合わせだろうと思った。少なくとも喜んでこの会に参加しているわけではないようだった。
「はい、えーと。俺は神宮寺渉って言います。W大の法学部3年です。他の奴らは皆4年なんだけど、俺だけ留年して3年のままです。一緒に留年しようね、って約束をしたのにこいつらに裏切られたんです」
ここで渉は女性陣から失笑を買う。
「あ、あとそこにいるゆりと同じ高校でした。えー、よろしくお願いします」
渉の目の前に座っている、髪の長い白のワンピースを着ている女がゆりだと分かる。
次によっちが自己紹介をする。
「お、同じくW大の法学部4年のよ、吉田哲郎です。え、えっと、みんなからは、よ、よっちって呼ばれてます。よろしく」
早口でどもっている。これはあまり印象が良くない。
よっちは顔を赤くして俯いた。自分でも失敗をしたことは分かったらしい。
「高橋芳文です。文学部です。えーとよろしく」
高橋はシンプルに、悪く言えば雑に挨拶をする。意外とこれは受けがいい。高橋のルックスも相まっての事だろうが、ミステリアスで落ち着きのある男だと思われるらしい。
僕の番が回ってくる。女性陣の視線が僕に注がれるのが分かる。
「佐藤真琴です。この中では俺だけ理系で工学部です。少し緊張していますが、皆さんと仲良くなれたら嬉しいです。よろしく」
「ねえ、真琴くんって去年のミスターコン出てたよね。そのとき真琴くん見てから私、真琴くんのファンでさー」
僕の左前に座るやや丸顔の女がそう話しかけてくる。苦手なタイプだと思う。
「まあ、うん。友だちに無理やり出させられて」
「あれ、絶対優勝は真琴くんだよね。優勝した人全然かっこよくなかったじゃん」
少し嫌な雰囲気だ。
僕は曖昧に丸顔の女に頷き返し、「じゃあ次の人」と目の前にいるショートカットの女にバトンを渡す。丸顔の女は少し不満そうに口をとがらせたが僕は気付かないふりをする。
「横山玲です。よろしく」
えー、それだけ? と笑いながら渉が言うが、渉の声を無視して玲は隣の丸顔の女に自己紹介を促す。
「進藤美穂でーす。今日はイケメンが来ると聞いて来ましたー。よろしくー」
視線を感じたが僕はやはり気付かないふりをする。次に美穂の隣の女が自己紹介をする。
「花山陽香です。O大の文学部3年です。よろしくお願いします」
「陽香はうちのサークルの後輩なんだよね。優しくしてあげてよ」
ゆりが口を挟み、ビールを飲んでからあ、うちか、と気がつく。
「神谷ゆりですー。今日はよろしくー」
枝豆が運ばれてくる。
僕は枝豆を取り、口に入れる。
周りでは趣味の話や大学の専攻の話が始まっている。目の前の女、玲と目が合った。僕は少し微笑み、枝豆の皿を少し彼女の方に寄せるが、玲はあからさまに目を逸らした。
「ねえねえ、真琴くんはさー」
進藤美穂が体を前に乗り出しつつ、僕に話しかける。進藤美穂の体に押されて、彼女の目の前のジョッキが倒れそうになる。それを隣の玲がジョッキを動かし防いだ。
進藤美穂はそのことに気づかないまま僕に話し続ける。僕は当たり障りなく返事をする。
「えー、マジい?」
会が始まって30分ほど経った頃、その甲高い声を聞き、僕は意識を渉やよっちの方へ向ける。
それまで僕は進藤美穂と、また進藤美穂から逃れるように目の前の玲と話続けていてテーブルの反対側に意識を向けられていなかった。
「そうそう、マジで酷いんだからこいつ」
渉がよっちを指し、そう言う。
よっちは俯き、ほとんど空になっているジョッキを握っている。
あ、まずい。僕は思う。
「違うって、あれは本当に勘違いをしただけで」
早口でよっちは弁明をする。
「勘違い? じゃあ高校の頃のあれは? あれも勘違いか?」
高橋は酔いが早くも回っているのか饒舌になり、よっちの肩に手を回す。
高橋の言葉によっちは顔面が蒼白になる。
「高校の頃って?」
ゆりが高橋にそう訊く。
「あー、俺とこいつ高校一緒だったんだけど、こいつ高校の頃さー」
「やめろよ!」
よっちは制止をするが高橋はにやけた顔のまま話し続ける。
「女子が水泳の授業の時、こいつ仮病使って授業休んでてさ。でもそれからしばらくこいつ授業出てなくて、どうしたんだろって思ってたら、こいつ女子更衣室に侵入してシコってたんだと。それがバレて停学処分。あれも勘違いだったんだよな? そうだろ?」
女性陣が悲鳴をあげる。
よっちの肩は小刻みに震えている。
僕はすぐさまその場から逃げ出したい欲に駆られるが、生憎、僕の席は一番奥で逃げ出すことは出来ない。
「性欲が人より強いお猿さんだからねー」
渉がそう言う。
その瞬間、どん、と強い音が響いた。
ジョッキを思い切り、テーブルに叩きつけた音だ。
よっちは財布から5000円を抜き出して、テーブルに投げ捨てると、荷物を持って飛び出していく。
「なんだ、あいつ。気分悪」
渉はそう吐き捨てる。
会の雰囲気は最悪になった。
よっちが出ていってから話は弾まず、想定よりも早く解散することになった。
「なんか、ごめんな。こんなふうになって」
渉のその言葉を最後に僕らは居酒屋からそれぞれ離れる。
僕は立ち去ろうとする玲に話しかける。
「もう一軒だけ飲みに行かない? ちょっと飲み足りなくて」
玲はつり目がちの目を僕に向ける。
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