第3話
僕は目を覚ます。
ベッドのそばに置いてあったスマホを手に取って時間を確かめる。
23時14分。
隣には生まれたままの姿で玲が寝ている。
僕は彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出すとパンツとズボンを履き、Tシャツを着た。
音を立てないように注意をしていたはずだが、玲は目を覚ましてしまったようで、シーツで胸元を隠しつつ体を起こした。
「どうしたの?」
「ちょっと煙草を買いに行ってくる」
そう言うと、彼女は納得したように再び横になった。少しして小さな寝息が聞こえてくる。
パーカーを羽織って、僕は部屋を出る。
ラブホテルを出て、駅の方へ向かう。途中、コンビニに寄ってマスクを買った。
23時32分。
駅に繋がる狭い道にたどり着く。そこは街灯もなく、辺りは真っ暗だった。
マスクをつけ、パーカーのフードを被り、道端に座り込む。
今日の昼間、講義をしていたあの教授は講義以外は自身の研究室に籠りきりになっている。彼の研究室に所属している同回生の言うことにはいわゆるブラック研究室らしく、泊まり込みで研究することなどざらにあるそうだ。
そこの教授はいつも終電に乗る。
僕はその場で待つ。
しばらく、道行く人をやり過ごし、そしてとうとう目的の人物が現れる。
ビジネスバッグを持ち、よろよろと僕の方へ向かってくる。
教授は僕の存在にまだ気がついていない。
僕は立ち上がり、教授に近寄る。
教授はふと顔を上げ、僕を一瞥したが、すぐにまた地面を見て僕の横を通り過ぎようとする。
その瞬間、僕は教授の顔面を右手の拳で殴った。
教授は後ろにひっくり返る。
教授は顔面を手で覆い、自分に起きたことを確かめようとする。
その教授の頭を右足で思い切り蹴り飛ばす。教授は僕から見て左に倒れる。
そのまま馬乗りになって何度か顔面を殴り、腕が疲れてくると、立ち上がり、腹部を蹴り飛ばした。
この教授は今、何が起きているのか理解出来ていない。自分がなぜ暴力を振るわれているのか。金が目的だとしたら、ここまで執拗にいたぶる必要はなく、バッグをひったくるだけで済む。じゃあ誰かに恨みを持たれ、今こんな目にあっているのか。しかし恨みを買った覚えなどない。
たぶん、こんなことを考えている。
自分が助かる方法を考える前に納得する理由を探している。自分がこんなふうに損なわれる理由を。
その教授の為に理由を立てるなら、例えばつまらない講義をした、だとか学生を研究室で奴隷のように扱っている、だとかになるだろうが、いずれもそれは教授が納得するための理由にはなれど、僕が暴力を振るう理由にはなり得ないと思った。
教授が動かなくなると、僕はその場から離れ、玲がいるラブホテルに戻った。
玲は僕が出ていった時と同じ格好のまま「遅かったね」と言った。
「ちょっと散歩してた」
「煙草は?」
「え?」
「煙草。買いに行ったんじゃないの」
「ああ、忘れてた」
ベッドに潜り込み、玲の体に手を回す。温かい。
彼女の温もりに触れつつ僕は微睡む。
※
「こういうの好きじゃない」
確か、映画の『ジョーズ』を観た後だったと思う。レンタルビデオ屋で借りたそのDVDを狭い、4畳半程の部屋で観た後に僕はそう言った。
この映画は大ヒットしたそうだし、人喰いサメの恐怖を十分に表現されていていい映画だとは思った。ただ好きではなかった。
「やっぱりこういうグロテスクなのはまだお前には早かったか」
僕は首を振る。
「そうじゃなくて、なんか、サメの……、なんていうか暴力的なのが好きじゃない」
「暴力的?」
「うん」
その時から既に僕の周りには常に暴力が溢れていて、嫌気が差していたんだと思う。僕は世界が醜く、歪なかたちをしていることに気がついていた。
僕は腕に出来た痣をさする。
その様子を彼は横目で見て、すぐに目を逸らし、デッキから『ジョーズ』のDVDを取り出す。
「真琴は優しいからなあ」
今思えばあのときあれだけ大人に見えていた彼も結局のところ、一介の学生に過ぎず、僕の扱いを彼なりに悩んでいたと思う。
彼が死んだ時、ふとその時観た『ジョーズ』を思い出した。
※
大学の食堂に行くと、渉と高橋が並んで座っているのが見えて、彼らの前に僕はカツ丼の乗ったトレイを置いた。
「あいつまじ最悪じゃね」
椅子を引いて座ろうとすると、挨拶もなしに渉はそう話しかけてきた。
分かりきっていたが、敢えて「あいつって?」と訊いてみる。
「よっちだよ。よっち。あそこでへそ曲げて帰るとかガキかよ。確かに俺らも弄りすぎた所はあったかもしれないけど、あのくらい我慢しろよな」
「まあそうだな」
僕はほとんど反射的にそう返す。
もちろん心の底から同意したわけではない。そう言った方が渉が喜ぶと思った。
「今日よっちは?」
「知らねぇ。高橋が見てないって言うから来てないんじゃない」
ふーん、と頷きつつ、カツ丼を食べた。
あまり美味しくない。カツの油が胃にもたれて、カツ丼にしたのは失敗だったと悟る。
「お前、そういえば昨日玲ちゃんだっけ。あのショートカットの子。あの子と一緒に帰ってたよな。ヤったの?」
「うん」
「はあー、あの空気の中、よく誘えるよな。俺はもうあの後からゆりとちょっとぎくしゃくしてさあ。あー、ほんとにあんなやつ呼ばなきゃ良かった」
「笑いがわかってねえんだよな、あいつは。いつもちょっとズレてる」
高橋が渉に加勢する。
「それより、お前彼女いんだろ。ほかの女に手出してバレないの」
「うーん、あまり考えてなかった」
僕がそう言うと、高橋と渉はぎょっとしたような表情になる。
慌てて僕は付け足す。
「あいつ鈍感だし、俺にベタ惚れだから気づかないよ」
「うっわ、自信家。いつか見つかってぼこぼこにされるぞ」
「もしそうなったら返り討ちにするよ」
そう言って、僕は1口だけ食べたカツ丼を渉と高橋の方に少し押し出す。
「もうお腹いっぱい。食う?」
「は? マジか。1口しか食ってねぇじゃん。胃袋ハムスターかよ」
「俺食うわ」
高橋がトレイを自分の方へ引き寄せ、大きな口を開けて黙々と食べ始める。
スマホが振動して画面を確認する。
「だれ?」
渉が訊く。
よっちからかと思ったのかもしれない。その声には少しだけ棘を含んでいるように感じられた。
「昨日の女。横山玲。今から会えないかって」
「うわ、その女重そー。地雷じゃね。行くの」
僕は少し悩む。でも、結局のところ、その時間は1秒にも満たないほどだった。
「行くわ」
午後から講義が一コマ入っていたが、それもやはりどうでもいい講義だった。
僕は彼らに別れを告げ、立ち上がる。
昨夜の玲の裸を想像する。
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