第4話

「あ、真琴くん」

 玲は僕の姿を認めると控えめに手を振った。

 僕は彼女が座る席の真向かいに腰をかける。先程買ったソイラテをテーブルの上に置いた。

「ごめんね。急に呼んじゃって。迷惑じゃなかった?」

「全然大丈夫。むしろ暇してたし、誘ってくれてすごい嬉しい」

「ほんと? よかった」

 そこはお洒落な雰囲気のカフェだった。控えめにスローテンポのジャズが店内に流れ、テーブルや椅子はダークブラウンで統一されていた。上に顔を向けると小さな本棚があり、インテリアとしての洋書が陳列されていた。

「すごいいい雰囲気のお店だね。こんな大学の近くにあったなんて知らなかった」

 玲はすこし得意そうに笑う。

「そうでしょ。ここ、入口分かりづらいから、秘密基地みたいになってるの。私も最近知って―――」

「だーかーらー。何度言ったら分かんの。俺はここのクーポンが使えるって聞いて来たわけ。今更使えないとかそれって詐欺だよね」

 後ろを振り返るとレジの方で若い男が店員と揉めていた。その若い男はピアスを付けていて、肌にはぷつぷつと赤いにきびが出来ていた。眉毛は薄く、髪の毛を汚らしい金色に染めている。

 店員はぺこぺことひたすらに頭を下げていた。

 顔を戻すと玲は少し気まずそうにドリンクを一口飲んだ。

「それなに?」

「え?」

「その、今飲んでるやつ」

「えっとバレルエイジドコーヒー、だったかな」

「なにそれ」

「いや、私もよく分かってないけど。飲んでみる?」

 彼女からカップを受け取り、一口含む。

「フルーティーだ」

「うん」

「おい、店長呼べよ。お前じゃ話になんねぇ。おら、早くしろよ」

 少しして中年くらいの男性が出てくる。彼も少し話しては謝り、話しては謝りを繰り返している。

 他の空間はお洒落な雰囲気の店内と、そのお洒落なお店にいるお洒落な私、と酔っているのに対して、そのレジ周りだけは酔いからさめた空間だった。

 結局のところ、あれが現実で、コーヒーを飲みながら海外留学の話に華を咲かせたり、これみよがしにノートパソコンのキーボードをカタカタ叩いたり、彼女と愛の言葉を囁き合うのは全てが虚構で、ごっこ遊びだった。

「外出ようか」

 僕は玲の手を優しく取り、出入口に向かう。

 レジ前の若い男の後ろを通った時、若い男からはコロンの匂いがした。


 そのまま僕らはラブホテルに入り、互いの体を求めあった。玲は先程見た嫌な光景をセックスで忘れようとしているように見えた。

「そういえば、あの合コンで一緒に来てた人達って友達なの?」

 燃え上がるような熱がようやく落ち着いた時に、玲が訊ねた。

 その時、僕はちょうど彼女に背を向けて煙草に火をつけたところだった。

「いや」

 僕は首を振る。

「たまに会った時に軽く話をする程度」

「ふーん、そっか」

「なんで?」

「いや、合コンの時、あの人たちすごい感じ悪かったから。あの人たちと真琴くんが友達だったらやだなーって思っただけ」

「俺もあの合コンで驚いたよ。あんな奴らだったとは思わなかった」

 玲は僕の横に座り、僕の左手に手を回す。彼女の柔らかい乳房が腕にあたる。

「そうだよね。真琴くんは違うもんね」

 左手が不自由になり、僕はなんだか煙草がどうにも吸いづらく感じ、火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付ける。煙がゆらゆらとたゆたい、溶けていく。


 僕が自身のアパートに帰ったとき、日付は既に変わっていた。

 鍵を差し込もうとした時、予感がしてそのままドアノブを捻った。扉はなんの抵抗もなく開く。

 玄関の靴を確認する。

「おかえりー」

 部屋の奥から声がする。

「あれ、来てたんだ。言ってくれれば早く帰ってきたのに」

 僕はこの時、言葉の裏に嬉しさを隠しているように話す。意識的に。

 瑠香は観ていた韓流ドラマから目を離し、少し不機嫌そうに僕を見る。

「今日、なんでこんなに遅いの。いつも水曜は早いじゃん」

「あー、渉たちに飲み会誘われてさ。最近断ってばっかりだったから、今日は断れなくて。でも瑠香が来てくれるって知ってたならすぐに帰ってきてたよ」

 荷物を部屋の隅に置いて、僕は瑠香の横に座る。瑠香が本当は機嫌が悪くないことを僕は知っている。

 彼女の肩を抱き寄せ、軽く唇を合わせる。微かにアルコールの味がする。彼女が酔っているとそのとき気がつく。

「今日はどうしたの。平日じゃん」

 瑠香の歳は僕のひとつ上で、今は商社で働いている。仕事がある平日に僕の部屋にくることは珍しかった。

「真琴にどうしても会いたくて。迷惑だった?」

 その言葉を聞いて、僕は思わずおかしくなる。今日の昼間も訊かれた。「迷惑だった?」

 その言葉はあまりにも自己中心的で僕は好きだった。女性に好き勝手振り回されるのが好きという意味ではなく、単純に、この言葉を使う自己中心的な彼女たちは、自分が自己中心的な生物であるとは微塵も思っていないところが気に入っていた。僕が好む女性はやはり似ているらしかった。

「ううん。嬉しい」

 僕は微笑み、再び彼女と口づけを交わす。

 玲の唇の柔らかさを思い出す。

「明日は、っていうか、もう今日か。今日は仕事?」

「ううん。年休取っちゃった」

「じゃあ、あそこ行こう。ほら、前に瑠香が行きたがってた水族館。平日だから空いてるだろうし」

「いいの? 真琴、講義あるんじゃないの?」

「いいよ。どうせ卒業に必要な単位は全部取り終えてるし。今取ってるのは全部暇つぶし」

 僕はテレビのリモコンを手に取ってたれ流されている韓流ドラマを消す。

「あー、見てたのにぃ」

「ほら、明日に備えて早く寝よ。水族館行きたいでしょ」

 彼女はぶつぶつ言いながらもベッドに潜る。

 電気を消すと静かな闇が優しく僕らを包み込む。

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