暴力的なあれこれ

ちくわノート

第1話

 その時、僕はサメだった。

 どこまでも続く青い世界を優雅に泳ぎ回る。僕はその自由さに、そして海の冷たさに快感を覚え、うち震える。

 ライオンでもコンドルでもなく、サメというのは妙に僕に合っていた。たてがみを揺らしながら獲物を追いかけ、唸り声を上げるというのは悪くないし、空を縦横無尽に飛び回るというのもなかなか魅力的だけれど、僕は海の中の生活に強い憧れを抱いていた。海を見る度に僕は海の中の世界を想像し、その圧倒的神秘性に惹かれていた。でもほとんど動くことが無い貝だと退屈だし、小魚だとそれこそサメなんかを常に恐れていなきゃならない。だから強くて自由なサメは僕の理想だった。

 僕は自分がサメだということは分かっているけど、自分がホオジロザメなのか、アオザメなのか、はたまたハンマーヘッドシャークなのかは分からない。海の中には鏡なんてないから、自分が一体どのような姿をしているのかさっぱり分からない。でもたぶん、ハンマーヘッドシャークではないと僕は思う。あの特徴的な頭は僕にはついていない。

 遠くの方で、魚の群れを見つける。あれはなんだろう。イワシだろうか。

 悪戯心が芽生え、僕は慎重に彼らに近づいてゆく。しかし直ぐに気づかれてしまい、彼らは蜂の子を散らすように逃げ始める。僕は泳ぐ速度を上げ、口を大きく開きながら、彼らに襲いかかるふりをする。食べる気なんてない。一目散に逃げていく魚の群れを見て僕は笑う。

 僕は海の王者で、ここでは誰にも指図されないし、文句だって言われない。でも、誰にも話しかけられないし、話せないのは少し寂しいと思う。

 最初は気持ちいいと感じていた海の冷たさも、段々僕を拒絶しているように感じて、益々僕は孤独なんだと思い知らされる。

 僕はそんな気分になるのは海の中が暗いからだと考える。明るさは人間の気分に直結する。朝起きて、太陽が地上を存分に照らしているとなんだか心が洗濯され、随分すっきりするし、なんだかなんでも出来るような気がしてくる。逆に雨が降って太陽を雨雲が覆い隠しているとなんだかメランコリックな気分になって、僕のやる気はその雨雲に吸い取られてしまう。

 僕は今、人間じゃないけれど、きっと人間からサメになったばかりだからまだ慣れていないんだと思う。これからサメとして生活をしていれば海の中の暗さなんて気にならず、いつもいい気分のまま泳ぎ回れるだろう。

 僕は明るさを求めて海面に向かって泳ぎ出す。海面が近づくにつれ、海の青はどんどん薄く、透明になっていく。白い光の鱗が散りばめられたきらきらとした海面を見つけて僕はほっとする。もう少しで太陽が見える。僕は光を突き破る。


 *


 目の前で倒れている若い男を観察する。

 少し長めの前髪、黒縁のメガネ、アイロンがかけられたカットシャツ、橙色のチノパン、パンパンに膨れた黒のリュックサック。多分、高校生くらい。

 多分、親に愛されて育ったんだろうな。僕はそう考える。

 今になって右手に殴った感触が戻ってきた。

 アドレナリンが出てるせいか、人を殴ったり、殴られたりした時にはその感触も痛みも他人事のように感じる。頭が冷静になってくると、徐々にその生々しい体験が僕の体を通して脳に伝わってくる。

「ごめんごめん、俺、気短くてさぁ」

 僕は一歩、彼に近寄る。

「でもさ、お前も悪いよね。俺はお金無くて困ってるから少し助けて欲しいってお願いしただけだよね。そうやって困ってる俺を助けるどころか警察を呼ぶぞ、なんて悪者扱いされたら誰だって不快だよな」

 もう一歩、僕は近寄る。彼の背中は小刻みに震えている。

「まあ、俺も殴っちゃったし、これでチャラにしよう。な? それで、お前は俺を助けてくれる?」

 三秒待つ。彼は俯いたまま動かない。

 僕は彼のお腹を思い切り蹴り上げる。「うげ」みたいな変な声を上げて彼は後ろに転がる。

「困った時はお互い様だろ? 貸してくれよ、金。絶対返すからさぁ」

「い、いくらですか」

 弱々しい声でようやく彼は口を開く。

「1000万」

 僕がそう言うと、彼は目を見開く。

「あっはっは。冗談だよ。本気にすんな。今、いくら持ってんの」

 ここで少し間がある。嘘をつくべきか、正直に言ってしまうか、彼はこの短い時間で悩んでいる。この時間は今持っているお金が多ければ多いほど長くなる。だから、僕はこの時間を数えてアタリをつける。

「い、ご、5000円です」

「じゃあ、ちょっと財布の中見せてもらえる?」

「は、はい」

 慌てた様子で彼はリュックサックを下ろし、中から黒の革財布を取り出す。

 僕はそれをひったくるように取ると、中を確認する。

 コンビニのレシート、うどん屋のポイント券、Tポイントカード、5000円札1枚、小銭合計253円。

 僕は彼の顔を見る。彼は俯き、口を真一文字に閉じている。頬が少し薄汚れている。

「まだあるよね?」

「それで全部です」

「ほんと? 嘘ついてない?」

「本当です。それで勘弁してください」

 服従したといった表情。諦めて、やけくそになっているように見せている。

「じゃあ、僕は正直者ですって言ってみて」

「え」

「ほら、早く」

「僕は正直者です……?」

「声が小さいよ。もっと大きな声で」

「ぼ、僕は正直者です!」

 僕は彼の鳩尾に右の拳をめり込ませる。彼は倒れ込む。息が上手くできないのか、彼の口からかひゅーかひゅーと空気の音がする。わざとゆっくり、彼が見えるように地面に落ちた黒いリュックサックを手に取った。

 彼の顔はその瞬間、恐怖に歪む。

「ま、待ってください」

 掠れた声で彼は僕を制止する。その声を無視してリュックサックのチャックを開け、中のものを取り出していく。

 数学の教科書、物理の教科書、数学の問題集、物理の問題集、世界史の問題集、筆箱、ノート、文庫本。

 それらを彼に向かって投げ捨てる。そして僕はお目当てのものを見つける。透明なクリアファイルの中に入った茶色い封筒。その封筒には黒のマジックで『参考書代』と書かれている。

「へぇー、勉強熱心だなあ。ほら、参考書代に1万円も入ってる」

 彼の顔に色は無くなっている。

「きっと君は俺よりも遥かに頭がいい。今高校生なんだろ。じゃあこれからいい大学に入って、将来、俺なんかよりも社会の役に立つ仕事をして幸せに暮らすんだろうな」

 僕は封筒から1万円を抜き取って、空の封筒を彼に向かって投げつける。封筒は彼の所まで届かず、ひらひらと地面に落ちた。

「でも嘘ついたよね」

 彼は小さな悲鳴をあげ、身を強ばらせた。彼がそうやって防御の姿勢をとったのとほぼ同時に僕は彼に暴力を振るった。例えば彼の頭をスニーカーで思い切り踏みつける。例えば彼の尻に何度も蹴りあげる。せっかくなので尻の割れ目を目掛けてつま先を繰り出していると「や、やめ、やめてくださぃ」と情けない声を出した。

 反応が小さくなったところで、僕は暴力を止める。彼はうつ伏せの姿勢で足を折り曲げ、頭を抱えて泣いている。

 僕は彼を横目にリュックサックを漁り、生徒手帳を見つける。

「Y高校の眞野慎也くんね。覚えた」

 生徒手帳に書いてあった電話番号にかけると、彼のポケットから呼び出し音がなった。それを確認すると、直ぐに電話を切り、泣いている彼の肩に手を回す。

「おいおい、泣くなよ。慎也。俺だってこんなことしたくなかった。お前が嘘をつくから仕方がなかったんだ。な? 元気出せよ。俺たちきっと良い友達になれると思うんだ。仲直りしようぜ」

 そう言って、彼の手を掴んで無理やり握手をする。

「はい、仲直り」

 彼はまだ泣いたままだ。

「じゃあ、これ借りてくな」

 僕は1万5000円をズボンのポケットに突っ込み、眞野慎也を置いたままその場を立ち去った。

 その足で駅前のハンバーガー屋に入り、セットメニューを頼んだ。もちろん借りた1万5000円から支払った。

 僕はオレンジジュースを飲み、照り焼きバーガーを食べ、ポテトを半分ほど残した。店内のpaperと書いてあるゴミ箱に氷が入ったオレンジジュースのカップと照り焼きバーガーの包み紙と半分残ったポテト、余った1万4230円を捨てた。

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