第8話
スマホを見るとメッセージが何通か来ていて、ひとつは渉から合コンをまた開くから参加しないかというものだった。
僕はそのメッセージには返信せず、画面をスクロールして他のメッセージを確認する。研究室のグループチャット、公式アカウントからのクーポンのお知らせ、玲からも来ていた。ただ、いずれも今の僕にとってはどうでもよく、返信をしないまま既読のマークだけをつけていく。
そのメッセージの山の中に早苗先輩から来ているものがあって、僕の指は止まる。
[瑠香のことで少し話したいんだけど、空いてる日ある?]
その文を2回ほど読み直して、頭の中で反芻する。
一応、瑠香の誕生日や記念日を確認するが、まだ日は遠かった。誕生日や記念日の祝いでないとすると思いあたる節はひとつしかなく、僕はそれを少々面倒に感じた。
[いつでも大丈夫です。今日でも]
そのメッセージを送って2分後に簡素なメッセージが届く。
[じゃあ、今日の15時にR駅のスタバ集合で]
時計を見る。
簡単に身支度をし、バッグを手に取る。
家を出る前に、部屋の隅に佇んでいる男を、アエーシェマを一瞥する。
彼は僕に何も求めず、話すこともしない。
僕は家から出て、鍵をかける。
早苗先輩は会って開口一番に「どうしたの、その顔」と言った。
その言葉で、僕は顔を怪我していることを思い出す。
「転びました」
明らかに嘘だとわかる返事だったが、彼女はそれ以上は追求せず、ふぅんと頷いて僕の向かいの席に座る。
大学時代、茶色に染めていた髪は黒くなっており、メイクも薄くなっているように見えた。
「お仕事、どうですか」
「覚えなきゃいけないこと多すぎ。下っ端だからしょうもない雑用やらされるし、その雑用やらされてる間にやらなきゃいけない仕事は溜まっていくし。まあ怒鳴られたりはしないからまだマシかもしれないけど。あー、大学生に戻りたーい」
「俺も4月からですからね。社会人。就職した先輩方の話聞いてると嫌になりますね」
「あれ、院に行かないの? 成績良かったんじゃなかった?」
「ああ、まあ。早く自立したくて」
「自立、ねえ」
早苗先輩は苺フラペチーノを一口飲む。
その様子を見て、僕はああ、早苗先輩だ、と思う。僕が早苗先輩を見る時、彼女には必ずどこかに赤色があった。赤いトレーナーや赤いバッグのように大きなものではなく、靴に細く赤のラインが入っていたり、小さな赤いイヤリングだったり、必ずワンポイントだけで、その赤色が主張をすることはなかったけれど、それはお守りのようにひっそりといつも早苗先輩とともにあった。その赤い苺のフラペチーノが彼女を完成させていた。
「それより、瑠香の話。あんた、最近瑠香と会った?」
ストローから口を離し、早苗先輩は言う。
「最近」
「そう、最近」
「えーと、水曜日に会いましたね。なにかあったんですか?」
「こっちの台詞。なにかあった? 瑠香の様子変じゃなかった? そう、水曜日の昼くらいに瑠香から電話あってさ。電話越しで泣いてるんだよ。あの子。なにかあったの、って訊いても大丈夫、ごめんね、としか言わないし。あんたなら何か知ってるかなと思って」
「泣いてた」
僕は復唱する。
瑠香は水曜日の昼、泣きながら早苗先輩に電話をかけた。その後、僕の家に来て、次の日一緒に水族館に行った。
「なにか知らない? 瑠香の様子変じゃなかった?」
チンアナゴがゆらゆらと揺れていて、ペンギンはぺたぺたと岩場を歩いていた。クラゲは水の中を幻想的に漂い、サメは自身の周りを泳ぎ回る小魚など意に介さずにゆっくりと水槽の中を泳ぐ。
僕はやはり、その日の瑠香の表情を思い出すことが出来ない。
「あー、そうですね。俺も変だなとは思ったんですけど、瑠香から何も話さないので。でも少し話したらいつも通り元気になっていたのでもしかしたら仕事でなにか失敗したのかと思ってました」
嘘をつく。僕は何も気づいていない。
「まあ、また近いうちに会う約束があるのでまた訊いてみます。わかったら早苗先輩にも連絡いれるので」
早苗先輩はそう、と言う。彼女の目に全てを見抜かれているように感じて僕は居心地が悪くなる。
「訊いてみます」
もう一度、自分に言い聞かせるように言う。僕は瑠香から来ていたメッセージにまだ返信をしていないことを思い出す。スマホの中に眠るメッセージの質量を感じ、ポケットが重くなる。
そのスマホが振動し、取り出して画面の表示を確認する。
それは内定先の人事からの電話で、僕は今日電話で面談の予定があったことを思い出す。
早苗先輩に断って、僕は電話に出る。
「お世話になっております。佐藤です」
僕は店内の喧騒から、早苗先輩の視線から逃れるように外に出る。
面談は数分で終わった。
内容としては就職の意思は変わっていないか、単位は大丈夫か、体調は崩していないかという確認で、僕はいずれも元気に聞こえるように受け答えをした。
通話を切って、僕は店内に戻る気になれず、そのままそこを離れた。
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