感情の色

朝姫 夢

感情の色

 街の雑踏ざっとうが聞こえる。


 じっとりと肌に張り付くような暑さの中、自信ありげにハイヒールの音を響かせて歩く女性とすれ違ったのは、歩くたびに音が鳴る靴を履いた小さな子供と、その子の手を引いて歩くスニーカーを履いた母親。その先では買い物帰りなのかお茶の帰りなのか、楽しそうにおしゃべりに花を咲かせながら歩く二人のご婦人に、少々くたびれた様子で電話をしているサラリーマン。

 多種多様な人々が行き交うこの場所で、並んでその人の流れに目を向けるまだ十代の一組の男女がいた。


「あっついね~」

「夏だからな」


 とりとめのない会話をしながらソフトクリームを口に運ぶ二人を特に気にする風もなく、街を行き交う人々はその前を通り過ぎていく。

 今日は一日曇りのようで直射日光に肌を焼かれる痛みは感じないが、それでも湿度の高さは変わらないからか誰もが足早に建物の中へと避難するように吸い込まれて行って。その姿にどこかせわしなさを感じてしまう。


「なんかみんな、忙しそうだよね~」

「そりゃ社会人は忙しいだろ。俺たちと違って夏休みじゃないんだし」

「確かに~!」


 ケラケラと明るく笑う彼女に、彼は小さくため息をついた。


「お前、笑ってる場合か?」


 彼は決して隣には目を向けず、相変わらず目の前を通り過ぎる人々を眺めながら。


「転校、するんだろ?」


 何でもない風を装って、そう聞いた。


「まぁねー。でも引っ越すわけじゃないし、むしろ家の前までお迎えが来るようになるから、別に今のところ急ぐ理由もないんだよねー」

「そう、か」

「ちょっとー、急に暗くならないでくれるー?」


 そう言って彼女は頬を膨らませるが、それでも彼は一向に目を向ける気配はない。


「そこはさぁ、迎えが来るとか楽でいいなーとか、軽口を叩く場面じゃない?」

「できるか、そんなの」

「君はそういう所が真面目過ぎると思うよ?」


 またしてもケラケラと笑う彼女の声は、決して大きくはないけれど。なんとなく何も言えなくなって、彼は手に持っているソフトクリームに口をつけた。

 だいぶ食べ進めてしまっているが、口に含めばミルクの甘さと冷たさがスッと広がって。そのまま咀嚼そしゃくすることもないまま喉の奥へと冷気を運びながら消えていく。隣ではコーンの部分に到達したらしい彼女が、サクサクといい音を立てながらソフトクリームにかぶりついていた。


「ん~!! やっぱここの濃厚ミルクソフトは最高だねー!」

「ホント、好きだよな」

「めっちゃ好き! 大好物!」

「前に落として泣いてたもんな」

「どんだけ前の話してんの!? まだ小学生になる前じゃない!?」


 懐かしさからか、二人して思い出し笑いをしてしまう。それは今日初めて彼が笑った瞬間でもあった。


「雨の予報だったけどさー、食べたいものは食べたいじゃん?」

「別に涼しいわけでもないしな」

「そうなんだよね!どうせなら涼しくなればいいのにー」


 不満そうに頬を膨らませた彼女は、けれど次の瞬間コーンの最後の部分を口の中に放り込む。途端に口元が緩むのは、お決まりのパターンだ。


「あー、美味しかったー。ホント、最後まで美味しいのって神じゃない?」

「お前の神、安上がりだな」

「いいじゃん! そのほうが人生楽しいよ?」


 そんな彼女の言葉を鼻で笑って、彼のソフトクリームも口の中に消えていった。

 二人の手元に残ったのは、コーンを巻いていた店のロゴが印刷された紙のみ。それを小さく折りたたんでポケットの中に入れながら、彼女がポツリと呟いた。


「私ね、人の感情が色で見えるの」


 その瞬間わずかに彼の指先が動いて、持っていた紙がかすかに音を立てる。そしてまるで信じられないとでもいうように、ゆっくりと横に立つ彼女に顔を向けて。


「人の感情が、見える……?」


 二人が並んで初めて、彼はその姿を視界に収めた。

 けれど反対に、彼女は今もまっすぐ前を向いたまま。


「うん、見えるの。色で」

「色、って……」

「例えばさっき通り過ぎたハイヒールの女の人は、赤。きっと何かに打ち込んでる最中なんだろうね。頑張ろうっていう、情熱の色」

「赤は、情熱……」

「音が鳴る靴をはいてた子は、オレンジ。きっと初めてその靴をはいてお出かけしたんだろうね。すごく感動してた」

「オレンジは、感動……」

「反対に電話をしてた人は、何かトラブルがあったんだろうね。紫色してた」

「紫は……」

「不安、かな。どうなるんだろうって、きっと色々考えてたんだろうね」


 当然のように語る彼女の視線は、街を行き交う人々を追っているようで追っていない。ただそこにある色だけを見ているようで。


「私、さ。もうほとんど、見えないんだよね」

「ッ!!」


 ぐしゃり、と。彼の手の中の紙が音を立てる。

 彼は知っていたはずだった。だから彼女は転校するのだと、聞いていたのに。


「本人から聞くと、結構ショック?」

「っ……当たり前だろ!」

「ま、そうだよね。お母さんとか、最初の頃は泣いてたもん」


 けれどなぜか、当の本人は何でもないことのように笑っていて。


「でもしょうがないじゃん? そういう病気なんだから」

「けどっ……!」

「あ、勝手に諦めたことにしないでね? 見えなくても出来ることはあるし、むしろ見えなくなっていくほど色は濃く見えるようになってるんだから」

「……特殊能力かよ」

「かもねー! 普通に見えなくなってる分、別の方法で補ってるのかも!」


 ケラケラと笑うその姿も声も、今までと何一つ変わっていないのに。

 変わってしまっていくのは、彼女が見ている世界。


「けどそれ以外も結構鋭くなったんだよ? 聴力とか嗅覚とか」


 それなのに変わってしまう恐怖を彼女は微塵みじんも感じさせずに、もうほとんど見えていないはずの目をキラキラと輝かせながら彼に語り続ける。


「そうだ! 君今日ちゃんと傘持ってきてる?」

「まぁ、折り畳みだけど」

「よかったよかった。もう雨の匂いがしてきてるから、きっともうすぐ降り出すよ」


 空を見上げた彼女に釣られて、彼もまた強い日差しを遮る雲を見上げた。そんなことをしたところで、彼には雨の匂いなど感じることはできないのだが。


「この力が何の役に立つのかまだ分からないけど、きっとどこか使える場所はあるはずだろうなって思ってるの」


 彼女の言葉に視線を戻せば、先ほどよりも足早に通り過ぎる街の人々の姿が目に入って。ふと彼が地面に目を向ければ、小さなシミがあちらこちらに出来始めていた。


「だから実は、あんまり悲観してないんだよね、私」


 彼女も降り始めたことに気がついたのだろう。首を傾けて、何かを聞き取ろうとしているようだった。それはもしかしたら、雨の音かもしれないし。足早に通り過ぎていく人々の足音なのかもしれないし。

 けれど、彼にはそれを知ることはできない。


「でも同じ夢はもう追いかけられないから、私の分までよろしくね?」

「っ……勝手に預けていくな」

「いいじゃーん。ほら、未来で子供たちが待ってるよ!」


 まるで勇気づけるかのように背中を叩かれて、彼は少しだけ前のめりになる。


「おまっ!」

「それでもしも私のこの力が必要になったらいつでも言って!」


 言うべき人間が逆だろう、とは彼には言えなかった。目の前で胸を張る彼女が、曇りのない笑顔を浮かべていたから。


「じゃ、私もう行くね。そろそろお母さんと約束してる時間だから」

「……介助は?」

「まだそこまでじゃないですぅー。ま、必要になったらその時お願いするかもね」

「……あぁ。その時はお前も遠慮なんてするなよ」

「君に遠慮なんてするつもりないかなー」

「そうだな。お前はそういうやつだ」

「でしょー?」


 そう言い合って、二人笑う。二人ともに、嘘偽りのない笑顔で。

 そこでふと、彼は思いついたように口にした。


「なぁ。俺は今、何色なんだ?」


 彼女が彼を向いている今ならば、きっと分かるだろうと思って。

 その質問に彼女は数回まばたきを繰り返した後、二カッと笑ってこう返す。


「緑! 希望の色だよ!」


 その表情から、彼は思う。先ほどまで彼女が一向にこちらを向こうとしなかったのは、違う色をしていたからなのではないか、と。

 だが彼は真相を知ろうとはしなかった。代わりに。


「当然だろ? 夢を追う人間だからな」


 そう、笑ってみせた。


「わぁ~お。くっさいセリフー」

「うっさい」

「あはは! じゃ、またね!」

「あぁ、またな」


 別れ際、二人はお互いにそう声をかけあって。気候とは裏腹に湿っぽさの一つもなく、晴れやかな笑顔で歩き出した。

 彼は傘を取り出して、すっかり濡れてしまった地面へと足を踏み出してすぐ、色とりどりの傘が行き交う街の人ごみの中へと消えてしまう。

 彼女はその反対側、建物の中へと消えていく。まるで鼻歌でも歌いだしそうな身軽さで。


 街の雑踏が聞こえる。

 誰もいなくなってしまったこの場所に、僅かな雨の音と匂いだけを残して。



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