〈後編〉

「私が小学生になったばかりの頃……。あなたと同じくらいの頃かしら」

老婦人は男の子の方を向いて言った。

「山に住んでいて、山の小学校に通っていたの。生まれた家ではないのよ。疎開って言って、戦時中、空襲を逃れるため田舎に行ける子はそこで生活する時代があったの。集団で疎開したり。田舎に親戚がある人はそこへ行ったりしてね。私には山に住んでいる親戚がいたからそこへ行かされたのよ。


 ウサギ狩りは真冬に行われるの。山の冬は本当に寒くて、両親の住む暖かな家が恋しかった。今でも冬は大嫌い。その代わり、今みたいに冬も、もうじき終わるという時期が好きなの。寒くても我慢できるじゃない? あれからもう長い年月が経っているというのにね。

 ウサギ狩りの日は特に早起きしないといけなかった」


「冬はお水が冷たいよね?」とあーやが言う。


「ええ。指にしもやけっていう、ちっちゃな火傷ができるのよ。でもね、川の水は冷たいけど。井戸の水は温かくて、それが子どもの頃、とても不思議だったわ。深い所にあるものって気温に影響されないのね」


「ウサギ狩りって、ウサギを探しに行って鉄砲で打って殺すの?」


兄の方が脱線しかけた話をレールに戻す。


「探しに行くというより『追う』のよ。山の麓で、小学生達か横一列に並ぶの」


「何か楽しそうだね」


「楽しくはなかったわ。早く起こされて憂鬱だった。先生方も都会より厳しいし。田舎の大人達はみんな愛想がなくて、話し方もキツくて。特に山の朝は、いっぱい朝のお仕事があるから、みんな、険しい顔をしてるの。そうするとまた、両親の住む家が恋しくなるの」


 美雪は、隣に住む優雅な感じの老婦人が子どもの頃にそんな苦労をしていた事が信じられなかった。 


「ウサギ狩りの朝、男の子達は、張り切っていたわ。六年生なんか先生より積極的にみんなを引っ張っていた位よ。

 なぜかって言うとね、あの頃はみんな毎日、お腹を空かせていたからなの。ウサギの肉を食べられるって事で、張り切っていたのよ」


「ウサギ、食べられちゃうんだ」


「かわいそー」


 美雪は、そんな話を聞いて気味が悪くなってきた。隣の老婦人が猟奇殺人の犯人のように思われてきた。ウサギ狩りの話を懐かしそうにできるなんて。それでもウサギがどうなったかまで聞かずにはいられなかった。


「でも、みんなで横に並んで、どうやってウサギを捕まえたの?」とタクヤ。


「掛け声をあげながら、一列に並んだ生徒達は野山を登っていくの。上には野ウサギ達がいて、その声に驚いて、山頂めがけてどんどん駆け上るのよ。そしてみんなで横一列で取り囲んで追い詰めて、先生が生け捕りにして縛るの」



 子ども達さえ少し気が引けているのを感じた。


「なんのために? 食べちゃうため?」


「それに毛皮を取られたのよ。戦時中はね」


 美雪がもう少しこの子ども達と親しかったら、この子達の耳を塞いだだろう。いや、自分の耳を塞ぎたかった。


 ママはよく言った。『立派な会社に入ったから安心してるの。大変でもずっと頑張ってね。みゆはよその子みたいに甘えてないから大丈夫よね』


 会社に入る時、上司となる人から言われた。『もう社会人なんだから、一人の大人として励んでくれよ。すぐ辞めたりする大人げないのが多いから。君は大丈夫だね』


ミナトは言った。『働き始めたからってそんなに会えないもの? 変しくない?』


 野ウサギの運命は自分と同じだ。




「で、食べたんですか? 野ウサギを!」

美雪は思わず声が大きくなっていた。


老婦人は言った。「それが食べてないの。野ウサギを捕まえたはずなのに逃げられていたから」



子ども達と美雪から同時にふぅっと安堵の溜息が漏れた。


「ウサちゃん、逃げて助かったんだ」とあーや。


「縛ったのがゆるかったのかな」とタクヤ。


「きっとゆるかったのね。本物の猟師じゃないから」と美雪。


「それなんだけどね。私、実は誰にも打ち明けてない事があるのよ。ずーっと秘密にしようと思ってたんだけど、もういいわよね。実は見てしまったの。校長先生が野ウサギを逃がすのを」


「え? そうだったの? 校長先生が?」


「私は樹木が好きな子どもだったので、山の木を見ながらフラフラ歩いてたら、向こうの木陰で校長先生が野ウサギの縄を解いて逃してた。野ウサギは縛られてたと思えないくらい素早く雪の中を駆けて逃げて行ったの。子ウサギとちょっと大きなウサギと三匹いたんだけどね。私、ビックリして。でもその後、普段は厳しい校長先生が、意気消沈した様子でウサギに逃げられたってみんなに仰っしゃられたので何も言わなかったの」


「どうして逃したんだろ?」


「本当はウサギ狩り、したくなかったんだと思う。でもやらないといけなかったからやったのよ」


「だから黙ってたんですね。先生のために」美雪は呟くように言った。


「私もウサギ狩りしたくなかったから」


――だよね――

美雪は今度は心の中で言った。


「それに真っ白な山を逃げて行くウサギ見てて、すごく幸せな気持ちになったの。私も一緒に雪の中を逃げて行ってる気分になって」老婦人は窓の外をぼんやり見ながら言った。


「そっか。おばあちゃんも子どもの頃、逃げたかったんだね。ウサギみたいに逃げようとは思わなかったの?」タクヤは訊いた。


「なんかその日から不思議と周りの大人達が怖く感じられなくなってね。親しみを持てるようになってきたの。山の暮らしにも慣れてきたしね。それに、逃げようと思えば、あの野ウサギのように、どこまででも行けるって思えたからかもしれない」



「でもそのウサギさん達はおうちの穴に帰れたのかな」あーやが心配そうな顔をした。


「嗅覚が優れているので――鼻が利くって事なんだけど――帰れたと思うわ。でも、もし帰れなくても、また自分で掘って新しい居場所を作ったんじゃないかしら」


「そう……新しい居場所を」美雪がつぶやく。


「でも巣には仲間がいたんだよ、きっと」今度はタクヤが心配そうな顔をした。


「そうね、でもきっとまた仲間や家族ができたのよ」老婦人は遠い目をして、思い出すように言った。

 窓の外では小雪が止み、眩い光が一瞬差した。美雪は新しい快適な穴の中で眠りにつく野ウサギの姿を思い浮かべた。なぜか今日は自分もぐっすり眠れそうだと思った。


 突然、美雪のスマートフォンからピコンという音がした。ミナトからのラインメッセージが届いている。


「大丈夫?」と一言だけ。たぶん迷いながら送った精いっぱいのメッセージ。


 その時、兄妹達の保護者と思われる男性が向こうの方からやって来た。さっきも訪れていて、美雪が兄妹の父親だと思った人物だ。


「さあ、タクヤ、あーや。次の駅で降りるぞ。住んでた家は、昔の場所にはなかったろ? わかばホームがタクヤとあーやの今の家なんだよ」


 よく見ると、男性の着ているジャンパーの腕には『児童養護施設わかばホーム』という刺繍がされてある。保護者のいない子達が入る施設の名前だった。二人はそこで生活している子ども達だったんだ、と美雪は座席を立つ準備を始めた子ども達をぼう然と見つめた。


「先生、春になったら、みんなで動物見に行くんだよね?」タクヤが訊いた。


「ああ。桜動植物園にホームのみんなで遠足へ行くんだよ」




 列車は緊急停止の原因となっていた障害が解消されたようだ。「運転を再開します」というアナウンスが眩しい午後の車内に流れている。列車は再びレールの上をゆっくりと、そして徐々に速度を増して走り始めた。





〈Fin〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

野ウサギはどこへ逃げる? 秋色 @autumn-hue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ