野ウサギはどこへ逃げる?

秋色

〈前編〉

 列車が安全点検のため、一時停止した。もう五分近く経つ。場所は桜動植物園の前。美雪は窓の外に広がる水色の冬の空を見ながら、苛々いらいらしていた。

 真冬の日曜日に休日出勤した帰り。列車はいつまた走り出すか分からない。そして桜動植物園は、美雪が最近喧嘩別れしたばかりの恋人、ミナトと初めて出かけた場所だった。外は、ぱぁっと陽が差したかと思えば、小雪がちらつく気紛れな天気だ。

 そんな美雪とは対照的に周りの座席の乗客達はのんびりして見える事がなおさら苛立ちをつのらせる。隣の窓際に座っている白髪の上品そうな老婦人は編み物を続けていた。まるで麗らかな昼下がりのひと時に暇を持て余しているといった優雅さで、柔らかな虹色の毛糸を編み棒にかけていく。同じボックス席の正面には幼い兄妹が二人並んで座っている。兄の方は八才くらい。妹の方はもしかしたらまだ小学校にも行かない年齢かもしれない。親は車両の別な場所にいるのだろう。さっき父親らしい男性が訪れ、何か話していたし。それでも子ども二人を座席に残すなんて、美雪には無責任に感じられた。わけを話せば席を替わるのに。妹の方はウサギのような耳の付いたフード付きのオーバーコートを着ている。いかにも甘やかされた女の子っぽいファッションは、美雪をウンザリさせた。


 前の席の男の子が妹に説明する。あの桜動植物園の事を。


「春になったらみんなで行くんだよ」


「お弁当を持って行くんだよね、タクヤ兄ちゃん」


「そーだよ、あーや」


 はずむ声。本当はそんな幸せな家族というものを持てる未来を夢みていた。でも恋人とは喧嘩別れしたから、それはもう叶わないかもしれない夢。


 もしミナトと今も別れてなかったら、この兄妹を微笑ましく見る事が出来たんだろうな、とつい考えてしまう。


 タクヤと呼ばれていた兄は妹の好きなウサギの話ばかりしている。


「あーや、ウサギの好きなのは、香りの強い葉っぱのお野菜や果物なんだよ。ニンジンが好きだって言われてるけど、ニンジンだけが好きなわけじゃないんだよ」


「そっかー。いつかウサギを飼う時のために覚えておかなきゃ」とあーや。


 そんなに簡単に生き物を飼おうなんて口にするのが子どもってものなんだと美雪は思った。それでも自分もそんな風にこれから飼うペットの話をしていた時がある。ミナトと。

いつかの会話を思い出す。


『ねえねえ、いつか犬か猫を飼ってみたいって思う?』


『それって僕達の子どもが生まれた後の話?』


『えー? 単なる仮定の話なんだけど』


『僕は犬がいいな。美雪みたいに可愛い犬』


 そんな言葉で喜んでいたこの間までの自分の方がはるかに幼い。



 美雪は母一人子一人の家庭で育った。両親は物心付いた時には離婚していた。そんな家庭の事情に引け目を感じていた美雪だったけど、ミナトは、『だから他のコみたいにチャラチャラしてなくて、しっかりしてるんだね』と肯定的だった。それが心のどこかで救いになっていた。

 でも社会人となり、働き始めた会社は忙しくて、ミナトと会えない日々が続いた。着信履歴に気がついてもかけ直す暇もなく、ミナトを怒らせるばかり。

『仕事とオレとどっちが大事なんだよ。大きな会社に就職したって上から見てない?』


そんな事ないよと反論したかった。

――だって母一人子一人の家庭で育ったんだもん。いつか私がママを養えるくらい頑張らなきゃ。ミナトみたいにパティシエになるとか、夢みたいな事、言ってられないの――

分かってもらえない事の方が寂しい。



 その上、初めて社会人として経験する仕事は、美雪の予想する厳しさの範囲を超えていた。時間内に終わる事のない膨大な量の仕事とそれを精一杯やっても嫌味しか帰ってこない日々。そして寝に帰るのは寒々としたアパートの部屋。布団に入っても、色々な考えが巡り、ほとんど眠れない。


「でもね、ウサギを飼うのはとても難しい事なのよ」と老婦人が兄妹の会話に優しく割り込んだ。ウサギをペットとして飼うのは、貴方達にはまだ早いんじゃないかしら」


「知ってる。ウサギは寂しいと死ぬんでしょ?」と妹の方が言った。美雪も心の中で頷いた。


「その言い伝えは、間違いよ。飼い主が見ていないうちに死んでる事があるから、そういう風に言う人がいるだけ」


「そうなの?」と兄妹が口を揃えて言う。

「そうなの?」思わず美雪まで会話に参加した。

 

「そうなのよ。デリケートな動物には違いないけれど」老婦人は美雪の方を見て言った。


「すごく詳しいんだー。ウサギ、飼った事、あるの?」幼い兄の方が老婦人に訊いた。


老婦人は微笑みながら言った。


「いいえ、飼った事はないわ。でもウサギ狩りをした事はあるの」


 美雪は心臓が止まりそうになった。思わず耳を疑い、隣の席を見ると、老婦人の編み棒にかかった毛糸の中のラメがキラッと光り、窓の外の小雪が束の間激しく舞った気がした。

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