泡の国のアリス

飛鳥休暇

泡の国のアリス

 今日、童貞を捨てる。

 高校を卒業して以降コンビニバイトで生活しているおれが三ヶ月間、日々の飯代をケチってまで貯めた四万円を握りしめて。

 いや、正確には四万円は財布のなかにしまってあるから、握りしめているわけではないのだけれど、まぁ、心情的には握りしめているのと同じことだ。

 この四万円で童貞を捨てる。捨てなければならないのだ。メロスは激怒した、おれは奮起した、というわけだ。


 いいことなんて何もなかった人生だった。


 工業系だった高校時代は言わずもがな、中学校や小学校だって、女子とまともに会話した記憶はほとんどない。

 そもそもコミュニケーション力というものが欠けているらしい。地域の掲示板では「あそこのコンビニの店員は愛想が悪い」と書き込みがされるほどだ。――それをチェックしている自分もどうかとは思うが。

 そんな感じであるから、これまで女性と交際した経験もなく、もちろん一夜を共にしたことなどあるはずもない。

 それでいいんだと思っていた。お揃いの金髪にした高校生くらいのカップルがコンドームだけをレジに置いたときも、別にうらやましくはなかった。彼らはきっとおれとは別の次元の、妖怪別次元人間なのだから。


 そんなおれがなぜいまさら童貞を捨てようと決意したのか。それはとあるネットの書き込みからだった。


【風俗行ったら人生変わった】


 そんなスレッドタイトルで始まった一連の書き込みは、おれの心を揺さぶるのに充分な熱量があった。

 そのスレッドの書き込み主はおれとおんなじような境遇で、彼女いない歴=年齢のさえない男だった。

 そんな主が「どうせなら死ぬ前に一回でもセックスがしたい」と風俗に行くことからその書き込みは続いていく。

 ヒロインとなる風俗嬢との出会いから、会話を通して少しずつ繋がっていく心と心。歪なかたちの二人が交流を深め、やがて主はヒロインを夜の世界から救い出すことになるまでが描かれていた。

 その書き込みを追っていくうちに、おれはなぜか泣いていた。顔をくしゃくしゃにしながら一気にそれを読み切った。

 なにがそんなにも自分の心を揺さぶったのかは分からない。その物語がフィクションかどうかも分からない。

 でも、その時確かに自分の心の中にある、目を背けていた柔らかい部分を握りしめられたような気がしたのだ。

 そのスレッドには様々な人からの書き込みもあった。


「うじうじしてるくらいなら風俗でもなんでも行って童貞なんか捨てればいい」

「人生変わるかどうかは分からないが、一回やったことがあるという経験は自分を変えるぞ」


 そんな言葉が並んでいた。自分に向けられた言葉だと感じてしまった。

 だからおれは決意したのだ。劣等感を持ってこのさき生きていくくらいなら、お金を使ってもいい、一度くらい経験してやろうと。


 時刻はまもなく午後七時。あたりはすでに暗くなっている。しかし最寄り駅から電車で十五分ほどの繁華街はそこかしこで光る照明や看板、ネオンに照らされて昼間よりも明るいのではないかと感じてしまう。間違えてエレクトリカルパレードの行列に紛れ込んだのかと思うほどだった。

 こんな場所に来るのも初めてだ。いまだかつて女の子とお酒が飲めるようなお店に入ったこともないし、なんというかずっと怖い印象があったからだ。

 そしてその印象は間違いでなかったことを実感した。


 一歩あるくごとにチャラそうな男から「お兄さん、おっぱいどうですか?」などと声をかけられ、そのたびにこわばった顔で首を横に振り足早に逃げる。

 そもそも「おっぱいどうですか?」というのは正しい日本語なのだろうか。

 クローンかと思えるほど似たような髪型(だいたいはツーブロックの短髪だ)をしたサラリーマン風の男たちが上機嫌におれの横を過ぎ去っていく。

 おれは極力だれにも目を合わせないように俯いたまま喧噪のなかを歩いて行く。


 地図アプリを確認しながら、ようやく目的の場所へと辿り着いた。

 が、店名を確認してから一度そこを通り過ぎる。

 ここはそういう街だと理解はしているものの、どうしてもまわりの目が気になってしまう。

「アイツ、風俗店へ入っていったぞ」

 そんな嘲笑の声が頭の中に響いてくる。

 しばらく店の前を往復してから、一瞬の隙をみて逃げ込むようになんとか店へと入っていった。


 なかに入ると、すぐに受付カウンターのような場所が現れた。そのなかには黒いスーツを着た若い男が満面の笑みを浮かべている。


「いらっしゃいませ。今日はどんな感じでご希望ですか?」

 男の言葉に、じわっと手汗がにじみ出てくるのを感じた。


「あ、あの」

「はい」

 言葉の出てこないおれに、男は笑顔をキープしている。


「よ、予約していた田添です」

 そんな言い方で良かったのかどうかも分からないが、なんとか声に出すことはできた。

「ご予約のお客様ですね。……田添様。はい、十九時からありすちゃんご指名で承っております」

 男の言葉におれは安堵した。


 ネットで申し込みをしたのだが、うまく予約できていたようだ。そして予約をしていて良かったと心底思った。勝手も分からないこんな店で、口頭でなにかをお願いできるとは思えなかったからだ。


「えーっと、オプションなどはいかがなさいますか?」

 そう言って男がメニューのような板を目の前に持ってきた。


 ――オプション?


 メニューには大人のおもちゃの名前や「パンティ」や「おしっこ」などといった文字と共に金額が記載されている。

 おれは目を見開いて大げさに首を横に振った。


「オプションは不要ですね。それでは九十分コースでご予約頂いておりますので指名料込みで三万九千円になります」

 良かった、調べてきた通りの金額だ。と心の中でほっとしながら財布から四万円を取り出して男に渡す。


「それではこちらおつりです。ご用意ができましたらお呼び致しますのであちらでお待ちください」


 男が手で案内したほうを見ると、ソファーがいくつか並んだ部屋があった。あれが待合室か。

 恐る恐るその部屋へ向かうと、そこには四十代くらいの先客が一人いて、こちらをちらりと見たあと手に持ったスマホに視線を戻した。

 待合室には中心に大きなテーブルが置かれており、テーブルの上にはカゴに入った飴や灰皿が置いてあった。

 おれは先客とできるだけ離れた場所に座り一息つく。ここまでは順調にいけたと感じていた。


 今回、風俗を利用すると決めたとき、おれはまず情報収集を入念に行った。

 風俗情報サイトにアクセスし、最寄りのエリアを検索する。ジャンルというものが出てきたがどれがどんな店なのかも分からなかったおれはその都度ネットで用語を検索し、本番――ようは最後まで出来るのは「ソープ」と表記されたお店ということが理解できた。

 そして数多あるソープのなかから評価などをチェックしていくと、女の子のランキングなるものがあることが分かった。

 そこには女の子のスリーサイズや得意なことなどが記載されており、客からのくちコミなども読むことができた。


 おれが参考にしたのはこのくちコミだ。


 情報サイトに載っているものだから否定的な意見はほとんどなかったが、その中で特にくちコミのいい女の子がいた。

 それが「ありす」だった。


「ありすちゃん今日もサイコーでした☆いつも優しいありすちゃんに癒やされています」

「ありすちゃんに出会って人生変わりました。ありがとう!」

 などといった書き込みが並んでいる。


 おれの心を動かしたのはこの「人生変わりました」というコメントだ。奇しくも、おれが童貞を捨てる決意をしたあの物語と同じ言葉だったからだ。

 勝手も分からないおれにとって、このコメントは運命のように感じられた。

 そこから予約の方法や料金などを入念に確認し、ついに今日その日がやってきたというわけだ。


 気持ちを落ち着かせようとポケットからタバコを取り出し火をつける寸前で、タバコ臭いのは嫌われるかもしれないと思いそれを箱に戻した。喉はからからになっている。緊張からか、足元もどこかふわふわ浮いているような感覚がした。

 どのくらい時間が経ったのだろうか。先客はすでに呼び出され、待合室には自分一人しかいない。

 心臓がハードロックのリズムを刻んでいる。心なしかお腹も痛くなってきた。


「お待たせしました」


 スーツの男の声に顔を上げると、男の後ろに女の子の姿があった。サイトでは顔にモザイクのかかっていたその素顔は、びっくりするほど可愛かった。肩にかかるほどの髪は綺麗な栗色に染まっていて、艶やかに照明を反射している。黒っぽい華やかなドレスから伸びる手足は細く、まだ距離があるにもかかわらずいい匂いが漂ってきた。


「ありすです。よろしくお願いします」

 おれの目の前まできてにこりと笑いかけてくる。

「あ、ああ、はいよろしくお願いします」

 こういうときに客側は挨拶しないものなのか、それすらも分からないおれはぎこちなく頭を下げる。


 そんなおれを見てありすはふふふと口元をおさえて笑った。世が世なら世界三大美女の一人に数えられたのではないだろうか。


「それじゃあ、行きましょうか」

 そういうとありすはおれの手を取り歩き出した。

 一瞬のことで驚いたが、確かにいま、おれは女の子と手を握っている。しかもいわゆる恋人つなぎというものだ。初めて触れる異性の手はとても柔らかく、すべすべで、柔らかくて、柔らかかった。


 じわっと手汗がにじんでくるのが分かった。彼女が不快に思わないだろうかと気になり手をもぞもぞと動かしてしまう。

「ん? どうしたんですか?」

 手の動きに気付いたありすがおれの顔をのぞき込むように聞いてくる。こんなに長い睫毛をこんなに近くで見るのも初めての経験だ。

「あ、いや、手汗が」

 おれは言い訳をするように頭をかく。

「あぁ。ふふふ、大丈夫ですよ。このあとどうせお風呂に入るんですから」

 そう言ってありすはさらに強くおれの手を握ってきた。


「それとも、お兄さんお風呂入らないのが好きですか?」


 大きな瞳でいたずらっぽく聞いてくるありすに対して、おれは大げさに首を横に振った。ありすはそれを見て楽しそうに笑う。


 ――だめだ。好きになってしまいそうだ。


 初めて触れる女の子の感触と、脳みそに直撃するような香水の香り。そこにきて大きな瞳でいたずらっぽく笑いかけられたら、好きにならないわけがない。

 くらくらとめまいがするような感覚のまま、ありすに手を引かれて歩く。


「こちらです」

 ありすが扉を開いてなかに入るように促してくる。

「あ、ああ」

 促されるまま部屋に入ると、そこには大きなベッドと、ガラス張りになったような大きめの浴室があるのが見えた。

 ありすはおれをベッドに座らせると、自らも隣に腰掛けた。


「それじゃあ、どうしますか?」

「ど、どう?」

 どうするのが正解なのだろう。通っていた公文でもその答えは教えてもらっていない。


「あの、実は、こういうお店初めてで、何をすればいいのか」

 年下(プロフィールを信じるのであれば、だが)の女の子に対して言うには恥ずかしすぎるセリフだった。

 でもありすは微笑んで「それじゃあ先にお風呂入りましょうか」と言ってきた。

「……お風呂」

 戸惑うおれをよそ目にありすは自身のドレスに手をかけていともたやすくそれを脱いだ。


 ドレスの下からレースのついた真っ赤な下着が現れると、おれの目はそれに釘付けになってしまった。

「ほら、お兄さんも脱いでくださいね」

 ありすが笑いながら言ってくる。

「あ、あぁ」

 立ち上がり、もそもそと服を脱ぎはじめ、そしてパンツ一枚の状態になった。


「これもですよ」


 すでに全裸になっていたありすがおれのパンツを引き下げる。その瞬間「ひゃっ」という声を上げてしまった。これじゃあ自分のほうが女の子みたいだと恥ずかしくなる。


「はい、できましたね」

 全裸になったありすがおれと対面するように立った。細めの身体の中心にある大きいとまではいえないが確かな二つの膨らみから目を離せなくなる。

「もう、そんなに見ないでくださいよー」

 ありすはからかうような口調で自身の胸を腕で隠して笑った。

「あ、いや、ごめん」

「嘘ですよ。ふふふ」

 そう言っておれの手を引き浴室のほうまで案内してくる。


 浴室に入ると、ありすはシャワーを出し、しばらく手を当ててその温度を確かめている。

 その間、おれは所在なさげに突っ立っていた。手の位置も、足の位置も、どこに置くのが正解なのか分からなかった。

「はい、じゃあ洗っていきますね」

 そう言うと備え付けのボディソープを泡立て、そしておれの身体に塗りたくってきた。

 その後はされるがままにありすの指示に従う。


 はい、手を上げて。今度は逆。はい、イスに座って。はい、顔上げて。

 端から見るとまるで動物園の動物と飼育員さんのようだ。


 そのうち、ありすの手がおれの股間に滑り込んできた。

「あっ」

「ここもちゃんときれいにしましょうね」

 赤ちゃんに言うようにして、ありすの手がおれの股間を上下する。必死に目をつぶって、嵐が過ぎ去るのを待っていた。


「はい、できました」

 ありすが満足そうに言い、シャワーで泡を洗い流してくれる。

「それじゃあ、わたしもきれいにしますんで、お兄さんは先に上がっていてくださいね」

 外においてあるバスタオルを指さしてくるので、言われるがまま外に出て身体を拭く。  


浴室からはシャワーの音が続いている。腰にバスタオルを巻いてとぼとぼとベッドへと向かい、座った。

 しばらくするとありすも浴室から出てきた。シャワーで温まったのか、肌がほのかに赤みがかっている。

 そうしてふたたび、ありすがおれの隣に座ってきた。


「さてと」

 ありすの声に、心臓が大きく跳ねる。


「お兄さん、かなり緊張されてますよね」

 おれの顔をのぞき込み、まっすぐ目を見つめてくる。最近の若い子はみんなこんなにも瞳が大きいものなのだろうか。


「う、うん。かなり」

「ですよねぇ。実はこういうお店が初めてのお客さんに共通するジンクスがあって」

「ジンクス?」

「そう。緊張しすぎて、失敗する人が多いんです」

「……あぁ」

「お兄さんも、ちょっと元気がないみたいだし」

 そう言っておれの股間を指さしてくる。


 ――図星だった。


 さっき浴室であれだけ股間を触られたにもかかわらず、おれの息子はなんの反応もせずしなびたままだ。

「なので、緊張をほぐすために、少しお話しませんか?」

 ありすがふわりと笑うので、黙ってうなずいた。

「えーっと、お兄さんなにか好きなものとかありますか? 休みの日なにしてるとか」

「いや、あんまり。休みの日もほとんどアニメを観て過ごしてるくらいで」

「アニメ! わたしも好きですよ! 最近のオススメとかありますか?」


 正直、ありすのその言葉に心の中で鼻を鳴らした。


 たいていこういう時にアニメ好きだという女子は「ワンピース」だとか「鬼滅の刃」だとかそういうメジャーな作品を挙げるのが目に見えているからだ。どうしてか自分のなかの変なプライドがむくむくと沸き上がってきて、どうせならマニアックな作品の名前を出してやろうという気持ちになった。


「そうだなぁ、最近ではないんだけど好きな作品は【双銃騎兵ダンヴォルト】とか」

「あー! ダンヴォルト面白いですよね!」

 返ってきた言葉に思わず「えっ」と声を漏らす。

「わたしジャスティスⅦのサンダーボルトフォームが好きでぇ」

 出てきた用語にさらに驚く。それは作中でたった一度しか出てこない変形フォームの名前だったからだ。

「めちゃくちゃ詳しいじゃん」

「だからアニメ好きって言ったじゃないですか」

「じゃあさ、あれはどう思う?」


 マニアックな話題に着いてこれる女の子に嬉しくなり、そこからしばらく作品の感想を熱く語り合った。


「いやー、すごい。ここまでアニメに詳しい女の子には初めて会ったよ」

「良かった。お兄さんも笑顔になってくれて」

 その時、ありすが何かに気付いたようにおれの頭部を凝視してきた。

「え、なに?」

「お兄さん、ちょっと髪の毛伸びてますよね」

 言われてみれば、前に床屋に行ってから三ヶ月ほど経っていた。前髪は目にかかるほどだ。

「わたし、切ってもいいですか?」

「え?」

「わたし、美容師免許もってるんですよ。ハサミもいつも持ち歩いていて」

 ありすが部屋の隅に置いてある自分のバッグを指さした。

「ね。ちょっと気になるんで切っちゃいましょう」

 返事も聞かずにおれの手を取り、ふたたび浴室へと向かい、そのままイスに座らせた。

「ちょ、ちょっと」

 戸惑うおれをよそ目にありすがハサミを手に持って帰ってきた。確かにそれは、プロが使うような専用のハサミのように見えた。

「それじゃあ、いきますよぉ」

 どこか悪魔のような楽しげな笑みを浮かべたかと思うと、ありすはあっさりとおれの髪にハサミを入れた。


 ハサミの交差する音が浴室に響く。おれは状況も分からないまま鏡を見つめている。

 ありすは真剣な表情で髪を切り続け、たまに鏡越しに目が合うと、そのたびににこりと笑いかけてくる。


「本業は美容師なの?」

「うーん。いまはこっちが本業ですかねー」

 なにか事情があるのか、それ以上深く突っ込むのはやめておいた。


 はらはらと落ちていく髪の毛と、ふるふると動くありすの乳房に目線を動かしながら、されるがままに彼女を見守っていた。


「うん。できた」

 ありすがそう言う頃には、おれの髪の毛はすっかり短くなっていた。

 シャワーで髪の毛を洗い流し、ありすはそのままシャンプーをしてくれた。

「かゆいところはないですかぁ?」

 ありすがふざけた口調で聞いてくるので「大丈夫です」と笑って返した。


「髪の毛、大丈夫なの?」

 排水溝に流れていく髪を指さして聞くと「あ、わたしたまにやっちゃうんでちゃんと対策してるので大丈夫ですよ」と言ってきた。

 たまに客の髪を切る風俗嬢なんて他にいないんじゃないかと思ったが、そもそも他の風俗嬢を知らないのでなんとも言えなかった。

 浴室を出てバスタオルで身体を拭くと、ありすがドライヤーを持っておれの髪を乾かしてくれた。

「髪型つくるにはブローも大事なんですよ。お兄さんの場合はつむじがここにあるから、ドライヤーをこっちから当てて」

 浴室の外に備え付けられている鏡の前で、ふむふむとありすの話に耳を傾ける。

「普段ワックスとか使ってます?」

「いや」

 そもそもオシャレには興味が無く、コンビニバイトでも寝癖のままいくこともあるほどのおれは整髪料をつけた記憶なんてほとんどなかった。

「せっかくかっこよく切ったんで、ぜひ使ってくださいよ」

 ありすはバッグから持ってきたワックスをおれに見えるように指先で取った。


「これくらいの量で、初めはしっかり手のひらになじませてください。それから、こうやって……」

 ありすが髪の毛を触るたびに、毛先がまとまっていくのが見て取れた。

「で、手を熊手みたいな形にして、こう」

 手ぐしを細かく動かしながら通していくと、ばらばらだった毛束の方向が揃ってくる。

「はい、できました」


 鏡を見ると見違えるほど爽やかになった自分がいた。


「……これが、おれ?」

「おれじゃなかったら誰なんですか」

 ありすが笑う。

「髪型って大事なんですよぉ。清潔感というか。ほら、お兄さんもイケメンになったでしょ」

 ありすの言うとおり、爽やかになった自分は少しではあるがかっこよく見えた。

 その時、なにかのアラーム音が聞こえてきた。


「あ、ヤバ。時間だ」

「時間?」

「あと十分で、終わっちゃう」

 時計を確認すると、確かに入ってからすでに一時間以上が経っていた。

「どうする? 延長する?」

 申し訳なさそうな顔でありすが聞いてくるが、すでに財布には帰りの電車賃ほどしか残ってはいなかった。

「いや、今日は帰るよ」

 その言葉にありすは両手を合わせてごめんなさいのポーズをとっていた。


 髪型を崩さないように服を着ると、ありすもすでに着替え終わっていて、入り口付近でおれを待っていてくれた。

「じゃあ、いこっか」

 おれがそう言うとありすがゆっくり近づいてきて、そしておれの首に手を回し、そのままキスをしてきた。

 たった一瞬のことではあったが、それは脳みそが溶けるほどの快感だった。

「また遊びにきてくださいね」

 ありすがおちゃめにウィンクをしてきた。心臓にきゅうっと痛みを感じた。

「うん、きっとまた」


 店を出て繁華街を歩く。

 いよいよ本領を発揮しだした時間帯である繁華街は人通りも多く、ぶつからないように気をつけながら駅へと向かう。

 途中、閉店した服屋さんのショーウィンドウに映った自分の姿が目に入り立ち止まる。

 爽やかな髪型になった自分がそこにいた。映り込んだ自分の姿が不快でないことなんて、今までは一度もなかったことだ。

 心なしか普段より背筋も伸びているような気がする。

 ふと思い立ちスマホを取り出す。

 風俗情報サイトへアクセスし、目的のページを開き、文字を打ち込んだ。

「ありすちゃん、とても良い子でした。人生が変わったような気がします」


 くちコミを投稿した後、スマホをポケットに入れてから、途中のドラッグストアでワックスを買って帰ろうと思いながら一歩足を踏み出した。



【泡の国のアリス――完】

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