最終話・母の暖簾

 厨房から客席に戻ってきた清は、一升瓶と欠けた酒飲み椀を持っていた。

 手酌で酒を注ぐ清。ゆっくりと酒を飲み干す。その時後ろから声をかけられる。

「わるかったね、もう終わってて。」

 振り向くまでもない。表情までわかる。どうせいつもの笑顔だ。

 清の後ろには、弓子がからりとした笑顔で立っている。

「なんだ、弓いたのか。」

 清はそっけない態度をとる。そんな清に弓子はわざとらしいため息で答える。

「白々しいよ。あたしがいれる場所なんてここしかないだろう。」

「違ぇねぇ。」

「それに、あたしのこと、二度も殺すんじゃないよ。」

 出す言葉と違い弓子の表情は相変わらず笑顔のまま、清をほめるように語る。しかし清は暗い顔をしていた。また手酌で酒を注ぐ。

「…すまねぇとは思ってる。ただ…」

 言葉の途中で弓子は清の手から椀を奪うと、一息に飲み干す。

「あたしをがっかりさせる気かい。」

 椀をテーブルに叩きつけながら清を見やる弓子。その目は真剣に怒っているようでもあり、何かを期待するようでもあった。弓子の心に気付いた清は、先ほどの言葉を覆す。

「もう死んじまったものを、生きてるやつのために使って何が悪い。」

 清がうそぶくと、弓子はいつものからりとした笑顔に戻る。

「それでいいんだよ。」

 そのあと二人は今までのことを語り合った。健のこと、吉子のこと。徹郎のこと、そして学生さん…赤城のこと。どれだけ語っても時間が足りない。どれだけ話しても時間が惜しい。

 それは二人とも気づいているからだ。今回が、おそらく最後であることを。もう二度とこうして近くに感じられることは来ないことを。店を通じて過ごした日々、その日々を終わらせたのは清だが、十年前、弓子が亡くなった時に終わっていなければならないことだったことを。

 二人で一本の酒、一つの椀で酒を飲み続ける清と弓子。一升瓶の重さがどんどん軽くなっていく。おそらく次が最後の一杯だ。

 弓子に酒を注ごうと清が瓶に手をかけた瞬間、弓子は立ち上がり歩き出す。

 清は、無言で送りたかった。しかし、どうしても、どうしてもこのまま逝かせたくなかった。

「逝くのか。」

 愛想も何もない、普段通りの言葉。

「あぁ。」

 弓子も、買い物に行くかのように答える。

弓子はまっすぐすりガラスの向こう側を見て。

清もまっすぐに弓子の背中を見ていた。

弓子がゆっくりと清に振り向き目の前に歩いてくる。そして一升瓶を清の手から奪うと、最後の一滴まで椀に注いだ。

「あんたも来るかい?」

 弓子は椀を清に向かって両手で差し出す。

「あんたが望めば、いっしょに行けるよ。」

 弓子にいつもの笑顔はなかった。ただまっすぐに清を見つめ、椀を手に取るのを待っている。この酒をあおれば、望みがかなうと。弓子と、ずっと一緒に居られると。

 椀に向かって、清はゆっくり、震えながら手を伸ばす。弓子は何も言わない。黙って清の様子を見守っている。

 清は。

「すまない。」

 寸前で手を止めると、自分の膝に持って行った。そして頭を下げる。

 それ以外の言葉も、行動もない。

「あんた、あれだけ『死にたい』って言ってたのにね。」

 弓子はあきれ顔だ。その声を聞いても清は動かない。ただ頭を下げ、弓子に向き合っている。弓子は手に持っている椀の酒を自分で空けると逆さにテーブルの上に置いた。

「残念。もう逝けないよ。」

 その顔は笑っていた。清は顔を上げると弓子を見つめた。

「もっと見ていてぇんだ、あいつらを。」

「わかってるよ。」

「俺が必要ないのもわかってるがね。」

「まぁね。」

「本当に逝くのか。」

「面倒な人だね。…全部わかってるんだろ?」

「何のことだ。」

 はぐらかす清に弓子は正面から目を見続ける。

「あたしはあんたの弱さだろ。」

 清は目の前にいる弓子の目を見て笑う。否定も肯定もしない。目の前の弓子に手を伸ばす。そして頭に触れようとするも、素通りしてしまう。

「な?あんたの中であたしが必要じゃなくなってるんだ。」

 今までそばにいて感じていた弓子は、清が逃げた結果でしかなかった。正確に言えば、逃げ切れなかった結果になるのだが。

 三か月前に健のことを赤城から聞き、健を更生させるために「棒」を追い込んだ。そのことで、自分自身だけでなく、健、赤城を傷つける結果になることを承知の上で。

 清の思惑通り、店から客は減っていった。一人、また一人と客が減る店を見るたびに心を痛めていった。

 店のことは、自分で決めたこと。にもかかわらず、自分で自分を追い込んでいた。

 そんな時、目の前に弓子が現れたのだった。清にはすぐにわかった。目の前の弓子は、十年前に亡くなった弓子ではないと。自分の弱い心を補うために弓子の姿を借りているのだと。

 それからというもの、清は眠るたびに弓子の夢を見た。そのたびに弱さを弓子の幻にぶつけた。そのことで何も変わらないことを理解しながら。

「あんた、あんたがこの店にあたしの名前つけてくれたとき、嬉しかったよ。」

 弓子は、清から距離を取る。背中を向け、顔を合わせないようにする。

「この店もなくなって、あんたを縛るものもなくなったんだ。…あんたの好きに生きたらいいんだよ。」

 弓子の瞳には涙が光っている。清は立ち上がり弓子に近づいていく。

「じゃあ、そうするわ。」

 背中を向けている弓子を振り向かせ、清はそのままキスをした。すり抜けるはずのキスは、しっかりと清と弓子を結び付けていた。弓子は驚きで目を見開いたが、ゆっくりと目を閉じていく。

 どれほどの時間が二人で共有できたのだろう。ただ一か所のつながり。十年ぶり、そして最後のキスは、ほんの十秒ほどだった。

「下らねぇこと言ってねぇで、さっさと逝っちまえ。あっちで待っててくれるやつがいねぇと、こっちで『浮気』しても楽しめねぇだろうが。」

 清の物言いに弓子は何か言いかけたが、首を折り、笑いをかみ殺していたが、次第に大きくなっていく。その目にはもう涙はない。そしてからりと、いつもの笑顔になる。

「あんた、最低の男だよ。」

「お前は、××××だよ。」

 清は表情も変えずに弓子に言った。弓子は当然と言った表情で清を見つめる。それ以上の言葉は必要なかった。弓子が出口の引き戸に手をかける。その時に外から引き戸が外から開かれる。そこには恥ずかしそうな顔をした吉子が立っていた。

「キャリーケース、忘れちゃって…。」

「なんであんなでかいもん忘れるんだよ。」

 吉子に対して呆れた顔を向ける清。吉子は客席を横切り、住居の階段へ向かう。

「そういえば、話し声が聞こえてけど、誰と話してたの?」

「母さんだよ。」

「また、嘘ばっかり。」

 吉子は相手にもせずに二階へ上ってしまう。清は首を傾げ、一つため息をつく。確かに弓子本人というわけでもない。そんなことを考えていると、あの声が聞こえてくる。

(あんた、愛してるよ。)

 突然の声に上を見る。懐かしい声。顔なんか見せなくても誰のものか、すぐにわかる。どちらの声かはわからないが、心では本人だと信じていた。清は首の骨を鳴らし、天井よりもはるか上、弓子がいるであろう場所に向かってつぶやいた。

「うるせぇよ。」

「誰がうるさいって?」

 目の前にはキャリーケースを引いた吉子がいた。

「嘘を言うお父さんが悪いんでしょ。」

 言葉こそとげとげしいが、以前のように刺すような鋭さはなかった。

「あー、うるせぇうるせぇ。仕込みの邪魔だ。」

「え?お父さん、店閉めるんじゃ…」

 そうだった。清は、どうにか言い分に聞こえる言葉を探し、閃いた。

「あー…『今日は閉める』っていったんだ。明日は営業するに決まってるだろ。」

「もう、散々周りを振り回してそれ?」

 清は苦しいことをわかっているが押し通すしかなかった。今もはるか高いところにいる、弓子のために。

「俺がこの店を手放すわけないだろ。」

「そうだよね。お父さん、お母さんのこと、大好きだものね。」

 清はほんの少し、顔を赤らめている。

「忘れ物取ったならもう帰れ。」

「はいはい、わかりました。」

 吉子はキャリーケースを引き、出口へ向かう。しかし、すぐに出て行くことはしなかった。そして意地の悪い笑みを浮かべながら振り返る。

「昔お母さんが教えてくれたんだけどね…。『棒』って名前、『弓』を英語にして…」

「吉子。」

 清は相変わらず仏頂面だが、顔色は明らかに赤くなっていた。

「はいはい。お父さん、お母さんを大切にね。」

 弓子は、ようやく出て行った。清は窓を眺め、一つため息をつく。そして厨房に戻り、膝を折り大きなコンロに、久しぶりの火を入れる。

 およそひと月ぶりに入れた火は、最初こそ赤く燃えていたが、次第に青い、高温の炎に変わっていく。炎の変わる様子を眺めていた清はふと背後に気配を感じる。しゃがんだまま顔だけを後ろに向ける清。そこには見慣れた厨房がある。弓子の名前を背負った店の厨房が。

 清は立ち上がり、深呼吸する。

(まだまだこっちには来るんじゃないよ。)

 そんな声が聞こえた気がする。

 清は、からりと笑った。それは弓子がいつもしていた笑顔だった。

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母の暖簾 長峰永地 @nagamine-eichi

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