第21話・独り立ち
清との会話はそこまでだった。店を出るとそこには一人の青年が立っていた。髪の毛を金色に染め、日焼けして浅黒く、ニッカポッカを着た、あの青年が。赤城は青年の肩を叩き、「頑張ってこい。」と声をかけるとそのまま振り返らずに歩き続けた。
赤城は足元がふらついていた。生まれて初めてタバコを吸ったせいだ。頭がくらくらする。清との決別のつもりで口にしたタバコ。赤城は、もう二度と吸うものかと固く心に誓う。
そのまま駅に向かって歩いていると携帯電話が振動する。画面には「鈴木」の文字が表示されている。
「もしもし、赤城です。社長、お久しぶりです。」
『社長はやめてくれ。もうお前を雇っているわけじゃないんだから。』
たった半年ぶりだというのに鈴木の声は十年ぶりにも聞こえた。
「周りに誰もいませんので、安心してください。しかし社長からお電話いただけるなんて、珍しいですね。」
『青柳の件で礼を言いたくてな。「赤城社長のもとに送っていただき、ありがとうございます。」だとさ。お前らもしかして…』
「下品なことは日が落ちてからお願いいたします。」
『全く、冗談の通じないやつだよ。』
赤城はふと頭によぎった疑問を、鈴木に投げかけた。
「社長、私が初めて担当したお客様…。あれ、サクラですよね。」
『やっと気づいたか。気づくまで時間がかかったな。』
赤城に初めて訪れた客、それは鈴木が用意した試験のようなものだった。
「あんな凡ミス、ありえないとは思っていたのですが、社長の采配と考えれば、あの時誰とも連絡がつかなかったことも納得できますからね。」
『大学を出ていなくて、しかも女のお前を無理矢理にでも土俵に上げるにはこれしかないと思ってな。物事なんて一歩目を歩き出しちまえば、結果なんて後からついてくるもんさ。』
それはつまり、鈴木の哲学にも生きていた。コンサルタントは裸でいるべきだ。しかし現実には裸の人間ほど怪しまれる。なので鈴木は赤城にあえて鎧を着せた。鎧を着ている人間が、相手のために分厚い鎧を脱いだ時、そのことだけで人は感激し、心を許してしまう。女だということや、経験が乏しいことが障害になってしまう世界で、鈴木がプレゼントした、最大の武器だったのだ。
「おかげでここまで来れましたよ。がむしゃらに一人であがいているつもりになっていた自分が、恥ずかしく感じます。」
『俺から言わせればまだまだ子猫みたいなものだがな。』
「そうですか。猫の牙もなかなかいたいものですよ?」
楽しそうに笑いあう二人。その時鈴木が突然話題を変えた。
『あぁ、そうだ。電話した要件もう一個あった。義弟に聞いておいてくれ。妹の十回忌はいつやるのかって。』
赤城には誰のことを言っているのか、皆目見当がつかなかった。
「社長、『おとうと』って誰のことですか?」
赤城が答えると電話口からさも愉快そうな大笑いが聞こえてくる。
『お前、まだ気づいてなかったのか。こりゃたまげた。』
「すみませんね、鈍くて。伝言を伝えるために、きちんと教えてくれませんか。」
『清に伝えてくれ。弓子の十三回忌はいつにやるのか、とね。』
赤城は自分の耳を疑った。なぜ鈴木の口から清の名前が出てくるのだ。
「社長…、清さんとお知り合い、だったのですか?」
『じゃなきゃ、いきなり尋ねてきた人間、雇わねぇだろ。まぁ、いいや。とにかくちゃんと聞いとくように。それと、今のことの礼も忘れないようにな。』
鈴木はそれだけ言うと電話を切る。赤城は思わず笑っていた。
「…敵わないよ、清さんには。」
はたして、どの面を下げて聞きに行くべきか、赤城は、それだけを考えていた。
店から赤城が去った後、清は掃除を続けていた。入口のすりガラスの向こうには、人影が見える。清が掃除の手を止め、赤城の言葉に対して「大きな独り言」をしだす。
「『向き合ってください』…ねぇ。誰のことを言ってるのやら…。」
青年が意を決し引き戸に手をかける。その時。
「でも、よくやったじゃねぇか…。」
その声を聞き、引き戸に手をかけたまま、動きが止まる。
「守るもののために頭下げることじゃ誇りは傷つかねぇ。それでも謝れねぇのは、己の分も知らねぇ傲慢さがあるからだ。」
青年は引き戸にかける手を下げ、黙って「独り言」を聞いている。
「俺にとっちゃ、終わったものより先のあるものの方が大事だった。それだけのことさ。それでも、自分の足元も落ち着かねぇやつには会うつもりはねぇけどな。…でも、まぁ、守るやつ見せるためだってんなら、考えてやるか。…独り言だけどな。」
清は「独り言」終えると、厨房に入っていった。その、父親の言葉を聞き終えた扉の前にいた青年、健は袖で涙をふくと、店には入らずに歩いていく。
「偉そうにダラダラと…。話長ぇんだよ…。てめぇがそんなんだから…、そんなんだから、追い越してぇんじゃねぇかよ。」
健は振り返り、「そば処 棒」に向かって叫ぶ。
「てめぇは一生勝手してろよ。絶対老いぼれんじゃねぇぞ。」
健は、そこで言葉を落とす。
「それで…、死ぬまで追わせてくれよ。…いつまでも俺の大好きな父さんでいてくれよな。」
健はそこまで店に言いきると、振り返り歩き始めた。
そしてそのまま健は会社に向かう。働いていない間に振り込まれていた三か月分の給料を返しに行くためだ。
十五分も歩けば、会社に着く。会社で鵜飼は新聞を読んでいた。机の上には明太子が置かれている
「お、佐竹、久しぶりだな。」
「社長すんませんでした。休んでた分の給料、返します。」
健は鵜飼に向かって頭を下げる。しかし鵜飼は新聞から目を離さずに答える。
「あげちゃったからなぁ…。佐竹、自由に使いな。」
今後の生活を考えながら毎日食パン一枚で生活しようと考えていた健は、肩透かしを食らう。
「いいんすか?」
「明日から、休みなしだからな。」
笑いながら健に命令する鵜飼。帰ってきた、その実感が全身を駆け巡る。
「はい、よろしくお願いします。」
「ぃよし。あ、これ食っていいぞ、向井のとこのだから。」
鵜飼は明太子の箱を健に渡す。その箱には、「むかいの明太子」と書かれ、二頭身のキャラクターが描かれている。十年前にはなかったものだった。鵜飼がぽつりとつぶやく。
「それ、嫁さんがモデルなんだと。そんなことばっかりしてるから、あいつはいつまでも尻に敷かれてんだ。」
「向井さん、結婚してるんすか?だって、片思いの人いたでしょ。」
健は初めて聞く話に驚きを隠せなかった。向井は、好きな人がいて、一緒になれる日を待ちわびていると勝手に想像していたからだ。
「だから、それがその箱に描かれた嫁さんだ。」
「はい?」
健は鵜飼の言葉の意味が理解できなかった。鵜飼はめんどくさそうに告げる。
「もう時効だから良いか。あいつがうちを辞めた理由、その嫁さん追っかけて福岡に帰ったんだよ。」
健は目が点になる。そしてきっちり三秒後、口を開いた。
「えぇ?てことは、俺のことを考えてとかは…。」
「一切ねぇ。あぁ、でも向井のやつ『俺の代わりに健入れといて』とか言ってたから、気にしちゃいたみたいだが…。」
鵜飼の言葉の後半は、健の耳にあまり届いていなかった。健は足の力が抜け、その場に座り込む。思わず笑いがこみあげてくる。
「あー…。向井さんの人生にまで責任感じて、バカみてぇ…。」
うなだれる健に鵜飼が声をかける。
「そんなもんだ。自分が思ってる以上に他人は迷惑かかってないんだよ。悪いと思ってるのは自分だけ。」
鵜飼はまた新聞を読み始める。どうでもよさそうに、しかし、しっかりと話しかけるように声をかける。
「ほら、さっさと出てけ。それとも、また休むか?」
唸っている健を追いたてる鵜飼。観念したのか、それとも、今に対する責任か、自分で自分の足を支えながら立ち上がる健。
「行きますよ。向井さんのためじゃなく、自分のためにね。」
健は勢いよく社長室を出て行く。鵜飼は健には気づかれないように微笑んでいた。
健は走りながら現場に向かう。何も考えず、考える必要もなく。ただ目の前のことをやりきるために。清に追いつくために。追い越すために。
「わぁぁぁぁ!」
健は叫びながら現場に向かう。自分の声が気持ちいい。初めてこんな気持ちになったのかもしれない。
今することは、迷惑をかけた人への「恩返し」。そして、向井の言葉を倣うこと。
レイとの結婚まで、今は走り続ける。
健は年相応の、まっすぐな目で走り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます