第20話・卒業
健は朝一番で現場にいた。三か月ぶりに訪れる工事現場。その緊張感は初めて日雇いで仕事をしたときのものと似ていた。こんなに静かな、誰もいない現場に入ったのは、本当に久しぶりのことであった。
昨夜レイと話していた「しなければならないこと。」、それはなんてことのない、子供にもできる簡単なこと。それは「謝ること」
誰でも失敗はある。失敗は繰り返さなければいい。しかし、その前にちゃんと謝る。たったそれだけのことを大人になればなるほど忘れてしまう。健はその一人だった。
確かに今回の一件の原因は青柳にあった。しかし健も青柳だけに責任を押し付けた。責任を押し付け、すべてから逃げ出した。逃げ切れるはずもないのに。健自身もわかっていたのに。
逃げて、逃げて、逃げ続けて、逃げ切れなくなって、今この場にいる。どうすればいいかはわかっている。受け入れてもらえるかどうか、わからないことも。
その時かつての同僚が出勤してくる。みんな健を見つけては口々に健の名前をこぼす。
そこには赤城と青柳の姿もあった。青柳は顔をひきつらせ健を見る。赤城はあえて健を見ない。健はふたりに向かい、まっすぐ歩いていく。青柳は逃げ出そうとするが、赤城が肩を押さえて放さない。
二人の目の前に立った健は、いきなり土下座をした。
「すみませんでした。」
その一言だけで、頭を下げ続ける健。その行動に、青柳だけでなく、作業員、全員が驚き、固唾をのんで見守る。
その中で最初に動いたのは赤城だった。にやりと笑い、青柳を仰ぎ見る。
「青柳、この一件は、きみの判断に任せる。」
それだけ言うと赤城は現場を立ち去る。結果は見るまでもないだろう。そして赤城はタクシーを捕まえる。
「『そば処 棒』まで。」
タクシーは緩やかに走り出す。おおよそ二十分で店には到着するだろう。その時までに決めておかないと後悔する。赤城は目を閉じると、車の振動に身を委ねていた。
予想より道路が混んでいて店までは三十分ほどかかった。そのことで赤城の緊張は否応なしに高まっていく。
「そば処 棒」の外観はいつもと変わりないように見えた。しかし一か所だけ、明らかに違う場所があった。
「のれんが下がっていない…。」
店の営業を示すのれんが、入口に下がっていなかった。引き戸に触れてみると、カギはかかっていない。赤城は扉を開けると店内に入る。中では清が客席の掃除をしていた。清は入ってきた客が赤城だと横目で確認すると構わず掃除を続けた。
「こんにちは。」
「おう。『学生さん』かい。」
先日あんなに激しく、包丁まで持ちだして赤城を追いたてた清の姿はまるでなく、ただ黙々と掃除を続けていた。その姿は、この店に入り浸っていたころと変わらなかった。
「追い返さないんですね。」
「あぁ、もう共犯じゃねぇからな。」
赤城は苦笑いをする。言うことがいちいち芝居じみている清の言葉がこんなに久しぶりに聞こえるなんて。赤城は二十年ほど前に自分がいつも座っていた場所に腰を落ち着ける。
「共犯…、ね。スケープゴートの間違いでは?」
「英語はわからなくてな。」
「よく言いますよ。…清さんなんでしょ、ネットに書き込んだ張本人は。」
「何のことだかな。」
この店に客足が途絶えた本当の理由、それは清本人により行われた自作自演だったのだ。
もちろん、健の素行の悪さもある。赤城の流した噂のせいかもしれない。しかし、それだけでここまで客足が途絶えることはありえない。この場所に三十年近く店を構え、協力者が徹郎しか現れないわけがない。それは清自身が、この店に客が来ないようにしていたからに他ならない。
「まぁ、なんでもいいですけど。…そば、もらえますか?」
「生憎と店はもう閉めたんでね。」
「店を閉めた。」という清の言葉に、顔を赤くし、目にはみるみる涙をためる赤城。
「…知っていたら、協力なんてしなかったのに…。」
赤城の拳には血がにじんでいる。清に泣いている顔も握りしめている拳も、見せないように半身に座っている。
「だろうな。」
「弓子さんの名前、私たちが殺したんですよ。」
赤城はもう涙を隠そうとしない。今にも涙がこぼれそうな瞳で、清の正面に立ち、まっすぐに清を見据える。
「こんなことになるなら協力なんてしなかった。あなたの店と、あなたが愛している弓子さんを殺すことになるんだったら…。私は…。」
もう赤城は社長という仮面を脱ぎ捨てていた。こぼれる涙をぬぐおうともしない。
「本当ですね…。好きな時にそばが食べられないなんて、全然ちょうどよくない…。こんなんだったらあのころのまま、この店でそばを食べてた頃の方がよかったんですよ。」
清を責める言葉を吐き出しながら、自分を責めることしかできないのだった。もうまっすぐ清を見ていられない。唇を噛み、俯くことしか、赤城にはできなかった。
そんな赤城に清はやさしい声をかける。
「学生さん。顔も知らねぇ、出所もはっきりしねぇ、誰が言ったかわからねぇ。そんなものに踊らされる世の中になっちまってるんだよ、今の時代は。」
赤城は顔を上げる。清は店全体に声を放つ。
「見てみろ、誰もいやしねぇ。三十年なんて生まれたばかりの子供が、所帯を持つか持たないか、その程度の時間でしかねぇ。」
店内に空しく響く清の声に、赤城は言葉がなかった。清は赤城のすぐ隣に歩いていく。
「…立派になったなぁ、学生さん。」
子供を撫でるように、清は赤城の頭を撫でた。乱暴で、遠慮がなくて、それでいて、やさしい清の手のひら。よく撫でてもらった。この手のひらが固く閉じ、殴られたこともあったが、それよりもこんなふうに撫でてもらったことを覚えている。
「あんたが立派になって、弓が喜んでいる。それがちょうどいいってことさ。」
赤城は漸く、清の言葉の意味を理解する。清が言う「ちょうどいい」。それが自分の環境に向き合う言葉なのだと。
どんな状況でも足りないと思えば、いくら満たされていても求め続けるだろう。清にとって口癖のように言っていた、「そばが食べられていれば」。これも清自身が毎日そばを食べられる環境に居ただけなのだ。赤城は笑うしかなかった。清はいつでも「ちょうどいい」と言っていたことを思い出す。
「敵わないなぁ、清さんには。」
再び清と目を合わせる赤城。その目に悲しみはなく、しっかりと清の目を見ていた。清は赤城の頭から手をおろすと、掃除を始めた。その様子をしばらく眺めていた赤城だったが、店の出口に向かい歩き出す。清は歩き始めた赤城に声をかける。赤城は振り返らなかった。
「行くのか。」
「えぇ。」
「もう来るなよ。」
「えぇ。」
「気に病むなよ。」
赤城はその言葉に歩みを止めた。ほほえみながら、軽くため息をつく。そんなことを言うなら、初めから「共犯者」にしなければいいのに。
赤城はスーツのポケットから、封も切れていない、真新しいタバコを取り出す。ぎこちない手つきでタバコの包装を破ると、口にくわえ、清に見えるように振り向き火をつける。一息吸うと、赤城は咳込んでいた。
清は何も言わなかった。赤城の意志を見届けるように。
「…そういえば彼、現場に来ましたよ。」
清の眉毛がほんの少し吊り上り、すぐに戻る。赤城は向き直ると清に向かって言う。
「何のことだ。」
「謝りに。地面に頭擦り付けて…。変わるんですね。いや、変わらないというべきなのか…。」
「誰のことを言ってるのか、さっぱりわからねぇな。」
清はとぼけると決めているようだ。それもいいと、赤城は思った。
「本当に変わらないですよ、あなたたちは。では、失礼します。ちゃんと向き合ってあげてくださいね。」
踵を返し、店を出ようとする。しかし後ろから清の声が飛んでくる。
「学生さん。あんた、もう少し化粧をしたらどうだ。そんなんじゃいつまでたっても嫁に行けねぇぞ。」
「余計なお世話ですよ。…舐められるわけにはいきませんので。」
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