その瞬間を切りとって

志々尾美里

2023年 全豪オープン第2回戦 マレーVSコキナキス

※この短編は、下記の動画を元に文章化し、脚色したものです。


https://youtu.be/0mnkGoIyxKE?t=62(動画時間1:00~1:42 まで)

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 勝敗における分水嶺があるとすれば、それは一体、どのようなものか。


              ★


 オーストラリア、メルボルンにあるテニススタジアム『マーガレット・コート・アリーナ』は、現地時間深夜0時を回ってなお、期待と興奮の熱気に包まれていた。地元オーストラリアの選手アサナシオス・タナシ・コキナキスが、イギリスのアンディ・マレーを相手に見事な試合ぶりを見せていたからだ。


 観客たちの声援と期待に応え、彼はセットカウント2-0と先行し、更に3rdセット最初のサービスゲームを先にブレイクしてみせる。これによりコキナキスは勝利への歩みを大きく進め、圧倒的に形勢有利となった。


 だが、死力を尽くし向かってくる対戦相手のマレーが驚異的な粘りをみせ、コキナキスは自分のサービスゲームで先にブレイクポイントを握られてしまう。通常であれば油断ならない展開だが、コキナキスは既に大きくリードしており、決して焦る場面ではない。コキナキスも、自らの勝利を確信している。しかしそれでも、彼は今よりもさらに集中を深め、ありったけの戦意を漲らせた。


(ここで守りには入らねェ。攻め切る)


 2セットのリードも、先にブレイクしている優位も、関係無かった。相手はあのアンディ・マレーなのだ。イギリス77年の悲願であったウインブルドン奪還を成就し、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノヴァク・ジョコビッチという偉大な選手たちと肩を並べたBIG4の一角。数々の功績を認められ、現代テニス選手において唯一、英国エリザベス女王よりSirサーの称号を賜ったイギリス最高のスポーツ選手。


 輝かしい栄光を手にしたマレーは、しかし重大な故障を抱える。人工関節を埋め込む大手術を行い、文字通り血反吐を撒き散らすようなリハビリを乗り越え、再びグランドスラムの舞台へと戻ってきた。テニス選手にとって、それがどれほどのことなのか、同郷のキリオスと並んで悪童呼ばわりされているコキナキスも充分に承知している。この相手を侮ってはならない。絶対に、油断してはならない。コキナキスは強く自分に言い聞かせた。


(3球目だ。3球目で仕留める)


 そう心に決め、コキナキスはトスを放り上げ、渾身のサーブを放つ。


(良しッ!)


 フォアハンドでのリターンを狙っていたマレーだったが、コキナキスはその狙いを読み切り、マレーに非利き手側バックハンドでのリターンを打たせることに成功。相手のリターンはチャンスボールと呼べるものではなかったが、攻撃するには充分だった。


(喰らえッ!)


 ボールを充分に引き付け、回り込んで逆クロスを狙うかに見せかけたコキナキスは、マレーの予測を裏切るような痛烈なストレートを叩き込む。ボールを追うマレーが声を上げ、コキナキスの攻撃を寸での所で凌ぐ。が、返球は短い。体勢充分なコキナキスがコート内側へと入り込み、トドメの一撃とばかりにフォアの逆クロスをお見舞いした。


(どうだ!)


 そのままウィナーで決まるかに見えた一撃は、しかしマレーの粘りによって防がれる。声を上げながら必死に走り、体勢を崩しながらどうにか追いついたマレーは、悪あがきのような高いロビングで急場を逃れる。だが返球はまたも浅く、誰の目から見ても良いショットとは言えなかった。


(終わりだ、これで)


 マレーのディフェンスを侮らないコキナキスは、しっかりとボールを追って落下点に入る。大口を開けて獲物に食らい付く川辺の鰐のように、コキナキスはボールを捉え狙い澄ます。それを察したマレーは、ガラ空きになったオープンコートを守るべく、既に走り出している。その動きを視界の端で捉え、今度こそ本当のトドメを刺さんとマレーの逆を突くコースへ、コキナキスはスマッシュを叩き込んだ。


 だが――


(反応した!?)


 マレーは咄嗟に動きを止め、倒れ込むようにしながら逆方向へとラケットを伸ばす。2バウンド目ギリギリのところでどうにかボールをすくい上げ、三度みたびピンチを切り抜ける。


(しつけェんだよ、クソ野郎ッ!!)


 辛くも凌いだように見えたが、マレーの窮地はまだ終わっていない。返球自体は成功したものの、コキナキスの攻撃の手を緩めるには至らない。獰猛さと狂暴さを併せ持つコキナキスの絶え間ない攻撃は、逃げる獲物を猟銃で狙い続ける猟師ハンターのように、確実にマレーを追い詰めていく。


 新たにコートへと叩き込まれたスマッシュは、しかしまたしてもマレーの手によって返された。撃てども撃てども、獲物は紙一重でその凶弾を躱し、致命的な一撃から逃れ続ける。


(なんなんだこのォッ!)


 渾身の力を込めた、三度目のスマッシュ。コートに叩きつけ、ボールを返球不能な高さへと運ぶ一撃。そのはずだった。あまりにも勝負手が決まらない焦りのためか、僅かにボールが浅くなり、コート最後方にいたマレーを仕留め損なう。またしても、またしてもボールが返ってくる。それだけではない。今度の返球は、これまでのような浅いチャンスボールではなく、高く、深い。弧を描いて打ち上ったボールは、コキナキスのコート奥へと吸い込まれるように落ちていく。


(クソッ!!)


 有利なネット前から引き剥がされるように、ボールを追うコキナキス。攻めているはずの彼が、逆に追い詰められていく。ベースラインからでは、ウィナーを獲れるようなスマッシュを放つのは難しい。ただでさえ、決まってもおかしくない連撃を次から次へと防がれているのだ。コキナキスはマレーが攻め切れないであろう球威を保たせながら、相手コートのセンターへグラウンドスマッシュを放つ。だが、ボールを一度落としたことでマレーは体勢を整え、完全に窮地から脱してみせた。


 コキナキスのグラウンドスマッシュを、マレーはセンターに打ち返す。効果的な攻撃をしづらい絶妙な角度のショットは、コキナキスの連続王手を遂に押し留めた。それに対し、どうにかしてもう一度優勢を取り戻そうと、コキナキスはリスクを負う。だが、センターから敢えて逆クロスを突こうとした彼のフォアハンドはネットにかかり、狂瀾怒濤きょうらんどとうのポイントは、ついにその幕を閉じた。


 ポイントが決まった瞬間、ラケットを投げ飛ばし、怒りを爆発させるコキナキス。一方、幾度も襲いかかった窮地を見事に凌ぎきったマレーは、雄叫びを上げて歓喜を爆発させた。


              ★


 勝敗における分水嶺があるとすれば、それは一体、どのようなものか。


 それは、もはや勝利はほど遠く、一矢報いたところで大勢は揺るがないと分かっていて尚、それでも尚、足掻く者だけが見つけられる、真剣勝負という山麓に隠された、一筋の分かれ道を指すのかもしれない。


 この試合、イギリスのアンディ・マレーは2セットダウン、そして1ブレイクダウンという圧倒的劣勢を跳ね除け、試合時間5時間45分という史上稀に見る大熱戦を制した。試合はまだ二回戦。2023年1月19日現在、彼の戦いは、まだ序章に過ぎない。


                                  了

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