第五章 林檎一齧りで生まれる、関係性も有り
「林檎は、要らないのか?」
「…。」
影の住人に囲まれる。ダイダラボッチが飲み込んだ夜を、恐れた絵の具箱に人々が詰めかける。冷たい朝の風に吹かれ、白いワンピースの裾を握れば、皺だらけで草臥れた影が笑い声を催した。
「ほら、林檎だよ。人類の英知だ。お嬢さんも一つ、ただ瞳の色に喜色を混ぜる為、食べるといいさ。美味しいことは間違いないのだから。」
水晶玉が煌めく視界。ふいっと首を捻って辺りを見渡すが、遠巻きに眺める黒影は蜂窩。耳障りな音が聞こえてきそうな気がして、眉を顰めた。
「お金持ってないから。」
端的に、言葉を発して立ち去ろうとするが、手を掴まれてしまう。あばら骨の浮き出た影は、震える身体を抑えるように林檎を私に押し付けてきた。
「持ってないのに…。」
どうしたらいいものか分からないが、恐らく差し出す林檎を手にとってはいけないだろう。ノアが見当たらない為、ふらりとスラムの街に来たのだが、失策であったらしい。
「ごめんなさい。もう行かないと…。」
そう言って手を引きはがそうと、腕に力を籠めるが、上手く離れてくれない。紫の瘴気と、癇に障るエールの匂いに思わず身震いする。砂煙が立ち込める中で、他の露店の人々が様子を伺い出した、その時だった。
「これだから頭の悪い人間は嫌いなんだ。ほら、代金支払えばいいだろ?」
体が誰かの手によって持ち上がり、硬貨の触れ合う音がする。それと共に冷たかった影の手が私から離れ、代わりに林檎を手渡してきた。
「アーキペラゴの果実。科学者とは相いれない存在だろうな。」
「は?」
私を抱える青年…、昨日始めて出会い、互いの思考をリンクさせた不思議な人間。セト。
黒いコートもタートルネックも昨日のまま。よく見ればアクセサリだけが少し変わっている。シルバーに触れてみれば、青年はちらりと私を横目で見つめた。
「哲学者ではない。お前に何ができると言う。」
「いや、そんな事どうでもいいわ。金は払ったし、林檎は貰ってくぞ。あと爺さん、あんまり小さい子怖がらすなよ?」
「…そうか。」
難しそうな話が好きな割に、自分と相容れないと分かった存在とは話す気が無いらしい。彼は適当な返事と共に片手を振って、その場を後にしたのだった。
「あの人は何を言ってたの?」
「さあ?」
青年が袖口で拭いてくれた林檎を口に運ぶ。齧りついていると、思ったより新鮮で美味しい普通の林檎だったので、彼にも食べるよう促した。
「おお、ありがとう。」
一口齧ると普通の果物だなと、感慨もない感想を述べる。気泡が時折、ふつりと消える美しい瞳に、私自身を重ねてみれば、微妙な顔で此方を見上げた青年に林檎を返された。
「そう言えば、何でスラムの街に居たんだ?確実にカモにされる事ぐらい、分かるだろ。」
「影の人に会いたくない時に行くの。」
「ほう…。」
ステンレスが月光にすら、錆びた音を立てる鉄骨のバイオリン。地べたに転がり、商売人と偽っては法外な値段を縮れた紙束に書き連ねている。白く美しい床も、窓辺に塗られた緑のペンキ。人工的に作られたガーベラだって存在しない。保有されるのは、薄汚れているブリキ缶だけ。
「酸性よりだったら、アルカリ性がいい。それだけ。」
円盤の記憶より簡単だと促せば、青年は納得がいったように頷いた。
「まあ、気持ちは分かるな。俺も、それが嫌で辺鄙な場所に住んでる訳だし。」
「そうなんだ。」
唐突に、彼の家を見てみたい。そんな気持ちが沸き上がったのだった。
夕焼けにチャイムが鳴り響く。昔は、そう表現していたらしい。今はサイレンに近く、聞くだけで嫌な気持ちになる音を立てるが。それも、私の住む街だけでの話。ノアと出会う土壁の街やスラムの街とは、関係の無い事だった。
「ここ辺りが住宅街だったな。気を付けて帰ってくれよ。」
「ありがとう。」
結局、林檎を食べた後。帰宅する私を、途中まで送ってくれた彼に礼を言う。地面に下ろされると、コンクリートの道が普段よりも近い感じがして、頭を振った。
「じゃあ。」
「ああ、またな。」
返事を聞いて、家の方角へと歩いていこうとするが、ふと疑問を憶えて振り返る。
「どうして、あの場所に?」
「振り返ってまで聞く事か?」
青年が苦笑するが、癖のある黒髪を目元から払い、数回瞬きをした後に答えてくれた。
「雨の憂鬱は伝染するらしいぜ。カレッジの歴史で習ったよ。」
「そっか。」
改めて別れを告げると、今度は背を向けて歩き出す。オレンジに瞳の色さえ、染めてしまいたいと沈みゆく太陽を見つめた。美しい夕焼けと残された芯。
セト。その名前を口にしてみると、不思議と口角が上がるのが、自分でも分かってしまったのだった。
Abelの森 Mei.(神楽鳴) @Meikagura
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