BLANQ

御子柴 流歌

それでも、「異世界」にて彼らは虚ろな夢を追う



 気付いたときには、ほりしまあやの目の前には真っ白な世界だけが広がっていた。


 真っ直ぐには立てているので、どうやら自分の足下には地面はあるらしい。重力のようなモノも感じられるので、天と地の違いもハッキリとはしているらしい。ただ、東西南北や前後左右は、今のままではまったくわからなかった。


 とりあえず頬をつねってみる。


 痛くない。――いや、少し痛い。


 痛くないのならばこの世界は夢の中だろうし、痛いのであればこの世界は現実の物なのだろう。だけれど、痛いような痛くないようなそんな曖昧な感触が自分の頬に残ってしまったのだから、これは一体どういう世界なのだろう。


 よくよく目を凝らしてみると、どうやら煙とももやともつかないようなモノが一面に広がっているらしい。霧や靄なら感じられるような湿り気もないし、煙なら感じられるような焦臭さもないので、何とも言えない。ただ、ふんわりと白く見える何かが広がってはいるようだった。


 絢香は自分の恰好を確認する。最近新調した部屋着だ。肌触りが物凄くイイとインフルエンサーが言っていて、それのマネをしたのだ。いわゆる案件動画ではあったが、その発言に嘘偽りはなくて、絢香もとても気に入っていた。


 美容室に行ってからはしばらく経ってしまっている髪の毛が若干ぼさぼさになっていたのでそれを手櫛で整えるが、そんなことは今はどうでもいい。とりあえずこのよくわからない世界から脱出する術を探さないといけない――。


「あれ? お姉?」


「え? ……え、?」


 そんなことを思っていた絢香だったが、背後からとても聞き慣れた声がしたことで思考を一旦止める。振り向いたところには妹の香那美がいて、絢香は当然驚く。


「アンタ、なんでこんなところに……」


「それはアタシのセリフだってば」


 2つ年下の小学6年生の妹は、おやすみを言い合ったときに間違いなく着ていたパジャマを身につけて、絢香と同じように目を丸くしていた。ほんのり寝癖っぽくなっているが、とくに注意はしなかった。ピンピン跳ねている感じにも見えるショートヘアなので、そこそこ誤魔化せるだろうし、そもそもここには姉妹ふたりしかいないのだからどうでもいいだろうと絢香は思った。


「っていうかさ。ここどこ? お姉はわかる?」


「分かるわけないじゃん」


「だよねー」


 最初から期待していなかったと言いたいくらいだった妹の反応に、絢香は少し納得がいかなかったが、そこでムダに腹を立てても仕方ない。基本的に小生意気な妹だが、こんなところで喧嘩している暇もない。修羅場を作る必要も無いのだからと、絢香は年上の余裕を見せておいた。


「まぁ、ほら。朝になったら分かるんじゃない?」


「朝?」


「夢の中なんでしょ、たぶん」


「……あー。あぁ?」


「いや、そこは納得しておきなさいよ」


 香那美に若干喧嘩を売られたような声を出された絢香は、当然のように一瞬だけ心の余裕を無くした。


 そんな絢香の反応を見てか、敢えて見ない振りをしたのか。香那美はそのまま続けた。


「さっきさ、自分のほっぺたつねってみたんだけどさ」


「うん」


 さすが自分の妹、と絢香は思う。


「痛かったよ、ふつーに」


「……え」


「え?」


 絢香の間の抜けたような反応に、香那美も同じような反応をする。


「え。お姉、やらなかったの?」


「やったよ?」


「びっくりしたぁ。まずはそうするのが定番でしょ」


 香那美の中では、夢かどうか確かめるための手段は頬をつねることしか存在していないらしい。そして自分の姉がそれをしていないわけがないと思ってもいたらしい。


 しかし絢香は、その理由で驚いたわけではなかった。


「私、そんな痛くなかったんだけど」


「……マジ?」


「マジ」


「ホントにほっぺたつねったの?」


「うん」


「…………」「…………」


 ふたりで顔を見合わせて、黙る。


 先に口を開いたのは香那美だった。


「それは……、ほら。お姉、ツラの皮が厚いから」


「何だとぉ!?」


「きゃー! お姉がキレたぁ!」


「当たり前でしょっ!!」


 瞬間沸騰。真っ白な世界、脱兎の勢いで駆け出した香那美を猛然と追いかけ――あっさりと捕まえる。


「え?」「あれ? 何で?」


 あっさりと、捕まるわけがない。本来ならば。現実ならば。


 絢香は典型的な鈍足。対する香那美は都道府県代表として陸上競技大会に出られるほどの俊足の持ち主。運動能力を母から受け継いだ絢香と父から受け継いだ香那美の脚力の差は物凄い。そのはずだった。


「え? 何でお姉がアタシに追いつけるの?」


 首根っこをがっちりと掴まれながら香那美は訊く。


「ってことは、やっぱりここは夢の中なの……?」


「じゃあやっぱりお姉のツラのか痛い痛い痛いっ!?」


 がっちり捕まっていることを忘れて悪態を吐く香那美。それを当然許さない絢香。思いっきり腰辺りをぎゅっとつねった。鈍足ではあるが、絞めたりつねったりする力はしっかりと持ち合わせている。生憎足こそ速くないが、球技はそこそこ得意な絢香であった。運動全般が駄目とか、鈍臭いとか、そういうわけではない。


 だったら、やはりここは夢の中なのだろう。頬をつねっても痛くなかった。足の速い妹にあっさりと追いついた。当の妹はつねったら痛かったと言ったが、それは自分の夢に出てきた人間だからだろう。絢香はそう理解することにした。


 ――その時だった。


「……え?」


 思わず絢香は声に出す。つねっている手を止める。すぐさま離脱した香那美も、絢香と同じモノに気が付いたらしい。


「何か今、変な音しなかった?」


 香那美と目を見合わせて、絢香は訊いた。


「うん。聞こえた」


「何? 何だろ……」


 何かものすごく速いモノが風を切っていくような音にも聞こえた。ヒントになるようなモノがあれば良いかもしれないが、今居るのは真っ白な世界。そんなものに見当がつくはずがない。相も変わらず絢香の周囲に見えるモノといえば愚妹だけだ。


「『かまいたち』とか?」


「え? なんで芸人さん?」


「違うわっ」


 そういうことを言いたいわけではない。しかし、シリアスにさせてくれない妹の反応に対して、怒るべきなのかどうかはわからない。ある意味では助かっている気もしていた絢香は、とりあえず香那美を泳がせたままにしておくことにした。


「……何か、とりあえず速いのが通ってた感じがしたってことよ」


「なるほどー」


 絢香がそう教えてやると、香那美も納得したような表情を浮かべ――――





「それは、オレのことかな?」




 さらにもうひとりが、満足そうな表情を浮かべた。





「えっ!?」「うわっ!?」


 堀島姉妹が同時に叫ぶ。内容こそ違えど理由は全く同じだ。


 それもそうだろう。いきなり真っ白な世界から見知らぬ誰かが声をかけてきたら、さすがに驚く。この世界にひとりかと思いそうなタイミングで実妹が声をかけてきたときですら絢香は驚いていたのだから、面識のない人間からの声ならば驚くのは当然だった。


「そんな驚く?」


 声の主は男性だった。少し長い、赤色が強い髪を耳にかけながら、彼は苦笑いを浮かべた。


 歳は、少なくとも絢香から見れば年上に見えるが、かといって成人しているかと訊かれると微妙なところ。青年と言ってもかなり若い部類だ。高校生くらいというのが妥当だろうか。


 顔立ちは、とても整っている。俳優かアイドルかで考えれば、俳優系。しかも戦隊ものとかヒーローものに出演するようなタイプだ。ハッキリとした顔立ちは、きっと奥様人気もしっかりと獲得できそうな雰囲気である。自分の母親ならきっとヒイヒイ言うだろうな、と絢香は思った。


「そりゃあ、まぁ……ちょっとだけ」


 疑わしげな視線を送りながら絢香は言う。絢香の影に身を隠した|香那美は何度も首を縦に振った。


 たしかに香那美が影から伺うのも無理はないかもしれないと、絢香は思った。


 その恰好からして奇抜、少なくとも現代の日本で見るような服装ではなかった。


 胴回りや四肢に着けている紺色をした武具のようなモノは、少なくとも金属ではない何かで作られているようで、とても硬そうで軽そうだった。ところどころ動物の毛のようなモノがあしらわれているので、もしかするとその動物の皮で作られているのかもしれない。当然ながら、絢香にはそんな動物に心当たりなどない。


 そして、目に付くのは背中の大剣。いかにもフィクションの世界の持ち物で、絢香の視線はそちらに向く。


「ま、そりゃそうだわな」


 絢香の様子を見た若者はため息を吐きながら言った。


「あ、いや、その、……ええっと、あの、……すみません」


「ああ、いや。慣れっこだから気にしなくてイイよ。お嬢さんたち」


 キラリと並びのいい歯を光らせながら、少年は言った。


「カッコイイ……」


 そんな彼の笑みを見て、香那美が目をキラキラと輝かせていた。男性の顔の好みは母親とよく似ている香那美は、それ相応に色めき立ったが、カッコイイとは思うもののそこまで絢香は香那美ほどの反応は見せなかった。もちろん妹がいる手前、派手な反応を見せたくなかった見栄のようなモノはあったが。


「しかし……今回は『大気型』か」


「え?」


 気になることを言う若者。思わず絢香の口を疑問の音が突いて出て行った。


「ああ、ごめん。こっちの話……って言っても、これ見よがしに言われたら気になる?」


 そう訊かれた絢香は当然のように頷く。最近は誰だっては気に入らないのだ。


「というか、なんですけどー。アタシとしては、お兄さんのお名前とか知りたいなー、とか思ってたりしてー」


「香那美、アンタねえ……」


 姉の影からこっそり顔を出し、そんなことを訊いて再び隠れ、そのままきゃーきゃー言って楽しそうな香那美。そのついでにぐいぐいと絢香のルームウェアを引っ張るのだが、生地が容赦なく伸ばされそうな感覚になった絢香は、今すぐ妹を引き剥がしたい心境になっていた。


「そう言われりゃそうだった。まずは名乗るべきだな」


 話は若干絢香を置いてけぼりにして進んでいく。


「オレの名前は、マリノ」


「マリノ……さん?」


「ああ、いい。別にそういう『さん付け』とかは必要ない」


「アタシは『マリノさん』って呼ぶ!」


「まぁ、別にそう呼びたいなら全然構わないよ、お嬢さん? ……いや、カナミ?」


「……! はいっ!」


 名前を呼ばれて、さらにきゃーきゃーと騒ぐ香那美。優しい声色で、しかも呼び捨てであれば、そうなるのも無理からぬところかもしれなかった。ただ、とても嬉しそうなのはいいのだが、だったらいい加減自分の影に隠れるのは止めてほしいと絢香は思っていた。


 少しばかり絢香の不満そうな顔を見たマリノは、そんな彼女を見て苦笑いを浮かべそうになりながらも、それをどうにか抑えて微笑を見せる。


「で、……君はアヤカだね?」


「……え?」


 そして青年は、とてつもなく自然な流れで姉の名前を呼んだ。


 当然、絢香の身体は凍り付く。瞬きだけが止まらない。


「あれ? ……え? 待って? 今、私、名前言った?」


 数秒の無音時間を経て、絢香がどうにか絞り出した言葉がこれだった。一応は訊きたいことを訊けているので及第点は与えてもらえるだろう。


「大丈夫、名乗らなくてもオレには分かるだから」


「いや、あの」


 事も無げ言われて、困惑する絢香。


「全然意味が分からないんですけど」


「気にしなくてイイの」


「いや……」


 そういう問題じゃぁないんだわ、と絢香は思った。が、同時に、さらなる質問は受け付けてくれなさそうな雰囲気も察していた。一応、自分は少なくとも香那美いもうとよりはオトナだという矜持がそうさせたのかもしれない。


「まぁ、とりあえず、だ」


 マリノは話を続けた。


「時間的にも雑談みたいな話は長々とできないから、ささっと本題だけ話すね」


 姉の困惑具合など全く気にすることなく彼の話に集中している様子の香那美をのことを、絢香は少しだけだか、その脳天にちょっとくらいのダメージを与えてやりたいと思った。


「今、オレたちが居るのは、君たちふたりの『夢になり損なったセカイ』

通称 "BLANQブランク"だ」


 聞き慣れないワード。


 どこか浮き足立っていた香那美も、ふたりの雰囲気に納得がいかなかった絢香も、これにはさすがに意識を向ける他は無かった。



「え……っと? それはどういう……?」


「……?」


 辛うじて声を絞り出した絢香。完全に理解が追いついていない香那美。


「まぁ、ふつうはそういう反応になるよねえ」


 一撃で理解してくれるとは到底思っていなかったような反応を見せるマリノ。どこか慣れたような素振りなのももちろん気にはなっていた絢香だったが、今は彼に対してそれ以上に気になっていることをぶつけるべきだと思った。


「夢ではないんですか?」


「そうだね。『夢』とは言えない」


 あいまいな表現が返ってきた。


 夢ではない何かなのは分かったが、質問から得られるモノもまた何もなかった。だからといってさらに投げられる質問も咄嗟とっさには思い付かない。


「その口ぶりだと、ココが夢っぽい何かだとは思ってたわけだ?」


「……ええ、まぁ」


 どうしようかと思っていたタイミングで、マリノが話を絢香に振ってきた。あまりよい反応は返せなかったが、マリノは何かを察したように何度か頷く。


「大方、自分のほっぺたでもつねってみたんだろう?」


「な……っ!」


 ――何故バレた!?


 思わず絶句する絢香。彼女の反応の真意はマリノに充分伝わったようで、彼は朗らかに笑った。


「全然恥ずかしいことじゃないだろ? このセカイの住人は大抵そうするみたいだし、多数派の行動は取り立てて非難されることもない。……そうだろ?」


「そうでしょ、お姉?」


「うるっさいわね」


「痛っ!? ちょっとお姉! 暴力反対っ!」


 たしかにそうかもしれないが、アンタに言われる筋合いはない。絢香は後ろ手にしたままで香那美の脇腹辺りと思われる部分を握った。イイ感じの場所に入ったらしく、香那美は悲鳴と非難の声を上げる。もちろん香那美もただやられるだけではなくどうにか反撃をしようとするのだが、その動きは基本的に絢香に封じられた。


「何でー! 今日のお姉の動きヘンだよ! いつもなら当たりもしないじゃん!」


「それは私も知らんし!」


 そんな姉妹の小競り合いを見て、マリノはさらに笑うが――不意に顔から色を消した。同時に楽しそうな笑い声もスッと消えて、絢香と香那美も動きを止める。


 マリノは周囲を見回すような動きをしていた。彼には一体何が見えているのだろう。周囲はさっきから何も変わらず真っ白なまま。雪景色よりも無垢なセカイが延々と広がっているような状況で、たった3人だけが居るような状態のままなのだが。


 絢香は黙ってマリノの動きを観察する。不意にウエストポーチみたいな装備から単眼鏡のようなモノを取り出して、それを使って辺りを見回し始めた。アレを使えばこの白いセカイ――夢ではない何かであるこのセカイも見渡せるのだろうか。


「あ、お姉もやっぱり好きなタイプなの?」


「うっさい黙って」


「……はぁい」


 半笑いを混ぜ込んだような返答には構わず、絢香はそのまま凝視し続ける。


 少し怪訝な表情を浮かべたマリノは、ある一方向にその視線を固定すると、単眼鏡らしきモノについているダイヤルのようなモノを操作した。改めてその方向を見ると、何かを理解したらしく、うんうんと何度か頷いた。


 アイテムをポーチにしまい直して、再び姉妹の方へ向き直ったマリノの顔には、先ほどと同じような笑みが貼り付けられていた。


「実は君たちが生み出した夢のなり損ないは、僕らの世界に悪影響を及ぼすことがわかっていてね。それをどうにかするために、今君たちの世界にやってきているというわけなんだ」


 笑顔のままに、少し不穏な言葉を吐くマリノ。怪訝けげんな表情は絢香の顔へと移っていったし、香那美もさすがに少しは嫌な予感がしたらしい。


「ただ、お話ができるのもここまでだね。申し訳ないけど、君たちにはそろそろね」


「……な!?」「え」


 絢香のルームウェアを握りしめている香那美の手にはさらにもう一段力が入り、絢香の叫びにも似た声は、やたらとこのセカイに響いた。


 マリノはゆっくりとふたりに近寄る。


「な、何をする気ですかっ」


「大丈夫だよ、優しくするから」


「そういう問題じゃないですっ」


 マリノはわざとらしい表現を狙ってしたつもりだったが、絢香にはそれがうまく伝わっていないらしい。


 しかし。眠ってもらう――とは。一体どういうことなのだろうか。


 逃げるべきなのだろうか。でも、どこに逃げれば良いのだろう。というか、そもそも逃げられるのだろうか。全く分からない。

 こんな得体の知れない場所で野垂れ死ぬのだけは勘弁だが、ここで危害を加えられるのも勘弁してほしい。健脚の妹にも勝てるくらいの走力を今の自分は得ている――ならば、妹の手を引いて宛てが無くとも走り出した方がいいのだろうか――――。


 そんなことをぐるぐると考えている間にも、マリノは堀島姉妹のすぐ側まで来ていた。逃げようにももう手遅れだろうという距離感に、思わず絢香は目を強く閉じた。


「少しの間だけど、ここで待ってて。そうすれば、きっと朝はやってくるからね」


「……え?」


 何度か、頭を撫でられる。


 ふわりと爽やかな香りがした気がする。香水でもつけていたのだろうか。


 だけれど、絢香が覚えているのはここまで。


 ゆるやかに身体が後ろに引き倒されるような感覚とともに、意識が遠のいていった。





        〇





 

「……ふう」


 キレイに眠ってくれて何よりだ、とマリノはため息に込めた。

 たまにいるやたらと『夢見人』だとこうは行かない。このふたりは恐らく根が素直な子たちなのだろう。若干ヒネていたりするとなかなか巧くいかない上に、この後の『処理』も面倒になりやすい。

 そうすると今回は簡単に終わってくれるのではないか。


「さて、と」


 こうなれば幾分かやることはラクになる。眠っているふたりを念のため安全な場所――と言っても、特殊素材で出来た折りたたみ式の檻のようなモノ――に寝かせる。


 その作業を終えたのとほぼ同時だった。


「ん、来たな」


 小さく小さく、足音のようなモノがマリノには聞こえた。今は眠りに落ちてくれているあの姉妹には届いていないが、もし起きていたとしても聞こえるはずがない。その音はだんだんとはっきり聞こえるようになってきて、その息づかいのようなモノも聞こえる。が、音量自体に然程の変化はない。


 マリノはひとつ深呼吸をして、一度目を閉じる。

 集中力を高めているようにも見えるし、居眠りのように見えなくもない。


 が、間違いなく、今、彼の神経は研ぎ澄まされているところだった。


「……っと」


 その目を再び開けた瞬間、マリノは後ろへと飛ぶ。ふわりと浮き上がった彼の身体はそのまま数メートルほど上昇し、最高到達点あたりで体勢を整えるようにバックフリップ。静かな着地は、まるで足下には雲が広がっているようだった。


「予想通り、かな?」


「ゎふ」


 マリノは直前まで自分が立っていた場所に戻り、そしてに視線を合わせるようにひざまずいた。手を下から差し出せばその生き物は、しばらく訝しげにマリノの匂いを嗅いでいたが、安心したのかその手に擦り寄ってきた。


 くぅんくぅんと高い声で鳴く『犬』は、このセカイの背景に溶け込みそうなくらいに白かった。



「親犬がいるような様子はない……と」


 マリノは改めて周囲を確認する。先ほどの単眼鏡をポーチから取り出し、ダイヤルを少しばかりイジってから見回す。この真っ白い霧のようなモノをある程度無効化して見渡すことのできる機能を持っているのだが、今はこの犬の他に動く白いモノは見えなかった。


「ってことは……?」


 次に何かをしてもらうのを待つようにおすわりをしていた犬の首元を確認すれば、マリノの思った通りそこには首輪があった。名札もついているようで、目を凝らせば名前も見える。『SORA』と書いてあるらしい。


 マリノはソラのご機嫌取りも兼ねて、顎の下あたりをわしゃわしゃとマッサージしてやりつつ、その名札の裏面も見てみる。そこにはファミリーネームからの記載があり、『堀島ソラ』とあった。


 手を止めて、少しばかりソラ自体を眺めてみる。


 小型犬と思われるその身体。毛並みはキレイなことからもとても大切に愛されていた家族だったこともわかったが、それでもやってくる年端には敵わない部分も見受けられた。ただ、そこまで老犬ということでもなさそうではあった。


「やっぱり、か」


 ――今回の『BLANQブランク』の元は、亡くなってしまった彼女たちの家族。


 マリノはそう確信して微笑んだが、その笑みには少しだけ憂いが込められた。


 生前からとても人なつっこく優しい仔だったのだろう。その体格的にも性格的にも番犬には向かなさそうだ。今もこうしてマリノが次はどこを撫でてくれるのかと期待しているのか、キラキラとした目を彼に向けている。耳の後ろをかしかしとかいてやればすっかり心を許したらしく、あっさりとへそ天――おなかをマリノに向けて寝た。


「ああ……」


 マリノは小さく呻く。視線の先はマリノのおなか――そこに遺されていた手術痕。


 恐らくは病気だったのだろう。それがじわじわとソラを蝕んだのか、あるいは一気に連れて行ったのか、そのあたりはマリノにはわからなかった。


 ただ少なくとも、堀島さんの一家――とくにこの姉妹は深く悲しんだ。それは間違いないことだったのだろう。


「よし」


 もうこのセカイに危険なモノは存在しない。堀島姉妹を包んでいた檻を取り払って、今度は雲にもよく似たベッドを取り出した。これも檻と同じく折りたたみ式だ。小さくさえなってしまえば、腰のポーチに入れられる。準備をしながらも、マリノはその便利さに少しだけ感謝をした。


 姉妹ふたりを横並びで寝かせると、ソラはすぐさまベッドに上がってきた。まずは絢香の、次に香那美の匂いを嗅いで、まるでいつものそうしていたようにその間に割って入り、くるりと身体を丸くした。長さはアンバランスだけれど、『川の字』がしっかりと出来上がった。


 そんな光景を眺めている内に、ある一角の方が明るくなってきた。朝の訪れだ。


 つまり、そろそろ離脱をするべき時間ということだった。


 次の出逢いは、彼女たちにとって楽しい夢の中での出逢いでありますように。


 マリノはそう願いながら軽く跳躍した。


 軽く弾みを付けただけだったはずの彼の身体は、そのまま上方へ向かって加速をし続けて――、そのままセカイから消え去った。






        〇







「……」


 気が付いたら、涙が流れていた。哀しいという気持ちはないはずだ。それなのに、絢香の目から涙が溢れて流れ落ちていた。


 理由はきっと、夢にソラが出てきたことだろう。


 楽しかった。妹の香那美といっしょに遊んで、遊んで、たくさん遊んで、最後には一緒に眠りに落ちて――そうして目が覚めたのが今だった。


 そのおかげかどこかスッキリとしたような心地もある。不思議な感覚だった。


「あ」「あ」


 涙の痕跡をどうにかごまかして自室を出たところで、タイミングが良いのか悪いのか、妹の部屋のドアも開いた。


「おはよ」


「おはよ。……ねえ、お姉?」


「ん?」


 挨拶だけでは済まなかった。顔を見合わせる。人のことは言えないが、どことなく香那美の目元が腫れぼったい気がした。


「今日さ、珍しく夢見たの」


「夢?」


 少しだけ絢香の心臓が跳ねた。訊き返すことで香那美に続きを促す。


「……ソラとお姉が、出てきてさ」


「え? 香那美も?」


「え? お姉も? アタシとソラが出てきたの?」


「うん」


「……マジで?」「……マジで?」


 同時に疑問をぶつけ合い、結果的にそれが『マジ』であることが判ってしまった。


「一緒に遊んだ?」


「遊んだ」


「一緒に寝た?」


「寝た」


 どうやら内容も同じらしい。


「あと、お姉がめっちゃ脚が速かった」


「うん。アンタを捕まえた記憶はある」


 細かいところも同じらしい。


「……マジかー」「……マジかぁ」


 驚嘆。不思議な事もある――なんていう言い方で済まして良いのか、絢香は分からなくなった。


「あー……、そういえばなんだけど」


 香那美が続けた。


「夢の中に、ソラとお姉とアタシ以外にも、誰か出てきたような気がしたんだけど……忘れちゃったんだよね」


「……あー、言われてみれば居たような気が……」


 ――しなくもない。物凄くおぼろげに覚えているような、覚えていないような。


 とはいえ、自分の夢の記憶なんてそんなもんだろう。深く考えたって仕方がない。


「ほら、遅刻するから早く行こ」


「はーい」


 絢香はまだがんばって記憶を辿ろうとしている香那美の背中を優しく押した。

 

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