虚無へのカウンターパンチ

第1話

「準備はいいか?マンディンゴ」

「はい、旦那様」

マイクの主人である白人は、マイクがマンディンゴ族でないにも関わらず「マンディンゴ」と呼ぶ。恐らく「形と質の良質なアフリカ人」程度の意味なのだろう。それでいて「マイク・アパッチ」と名付けたのもこの白人だ。アパッチというのは、アメリカ先住民の中でも特に勇猛で抵抗の激しい部族の名だ。拉致してきた者と、追いやった者との区別もないのか、こいつらは。そう忌々しく思う。

―――俺はマンディンゴじゃない

―――いや、お前はマンディンゴだ

頭を巡るのはその繰返しだ。筋肉を運動させる時だけその頭の枷から自由になれる。ボクシングは好きだった。…相手が死なず、深刻な怪我もしなかった場合はだ。未だその経験はした事がないが、持てる力を尽くして尚自分が負ける側だったとしたら、その時はもっと気持ちいいだろう。もっとボクシングが好きになるだろう。

しかしボクサーである自分の運動は全て白人の命令によるものだ。命じられなければ練習する自由もない。自分の物ではなく、法的には他人に権利が保証された財産である肉体である事。それが、マイク・アパッチという、適当に付けられた自分の名前の中に含まれている約款だった。


殴り合いをする相手もまた黒人だ。相手も自分も、本当に殴りたい相手を殴る事はない。白人達にあてがわれた相手と殴り合う。そして場合によってはその相手は、死んでしまう。或いは、自分は。

それは自分の殺人だ。マイクはそう理解している。殺人であるだけでなく、略奪でもある。その屍で口に糊し、家族を養うのだから。マイクはそう思っている。

だが死ぬかも知れない殴り合いを仕組むのも、どの位の時間継続させるかも、決めているのは白人達だ。血が飛沫になって飛ぶ。その飛んだ先、一段高い席では特に裕福な白人たちが食事をしていたりする。ソーセージ、ステーキ、パン、ワイン…どれも血だの肉だので出来ている。あまつさえ後者の二つは、彼らの神の肉と血である事を、彼ら自身の口が詐称する。

人生は牢獄である。マイク・アパッチは、拳闘を通してその事を強く自覚する。俺はその事だけは、白人達よりはっきり認識しているぞ。頭が弱いと言われるニガーが、頭が弱いと罵る白人達より、明晰にだ。マイクはそう思い、同じ黒人と向き合う。場合によっては、どちらかが死ぬ。

だがその向き合った相手は、年端も行かない若者なのだった。肩の筋肉も、胸の筋肉も、今から育つ部分が殆どの、少年と言ってもいい若者。

あの当時の暮らしなら…昔の大地の暮しなら、俺と彼とは、教師と生徒の関係で然るべき筈だった。マイクは考える。頭の中で、彼とすべき本当の触れ合いを考える。

――ねえ、あの獣は何処で眠るの?

――その武器格好いいね、どうやって作ったの?

マイクの頭の中で、マイクでなかった頃の自分が、マイクでないまま暮らしていたら在ったであろう、別の現在で少年の問いに答えている。

だがもう半分の頭でマイクはこうも考える。あの少年の一歩目はどう来るか。人間のもっとも弱い部分に拳を叩き込む、最短にして最安全の経路はどこか。目の前の少年を犠牲にすれば、家族にどんなものを食わせて、着せてやれるか。それは正に「マイク・アパッチ」の考えた事だった。現実の自分。一から十まで、他人に盗まれ、デザインされたが故にある、今の自分。


そして、賭け試合の始めを意味する鞭が打たれた。



――一番粗暴なのはお前達白人なのに。殺した数が多いのは俺じゃなくてお前なのに。

確かにマイク・アパッチの考えている事がより真実であった。しかし、万人がその真実を共有する事は永遠に叶わないだろう。俺達黒人と、お前達白人との間で同じ前提の上で議論する夢は永遠に叶わないだろう。奴隷と主人との間での共有は。貧しい者と富める者の間で、下に踏まれる者と上で見下す者の間で。

或いは自分の頭の中で分裂し、対立する、二者の間で。かつての在り得た筈の自然の自分と、それは幻だと徹底的に否定する現実の自分。

そして、真実の共有が叶わない両者間に議論が成り立たないとすれば、一体何によって両者の間の関係は決まるのだろう?

それは力だ。過去に起こった力比べの結果が、この俺の目の前に、周囲に横たわっている。


マイク・アパッチが得意のスカイフックで相手の頭を打ち抜くと、相手はもう立ち上がらなかった。大抵は死に、そうでなければ不具になる。

「偉いぞマンディンゴ。お前のパンチは必殺だ」と主人は言う。肌の白い誘拐犯達。

マイクは倒れている方の男を見る。俺と同じ黒い肌。誘拐されたまま、何にも分からないで死んだ。そしてそれは少年だった。競争相手になる筈もない、少年。教え導くべき子供を競う相手とする事は、かつて俺が在した部族では、何よりも謗られるべき罪悪であった筈だ。


「俺が殺した」とマイクは呟いた。「そうさ、お前が殺した。お前が殺せない奴なんて何処にもいないぞ」と主人は勝った金を机で数えながら笑う。

「俺は負けた」「何を言ってんだ、お前は負けなしだよ。最強さ」ここは弱いが、と頭を指す仕草を隣席の婦人にして、主人はまた笑う。


マイク・アパッチは振り返ってスカイフックを放った。自分の胸より低い位置にある頭に。白人に。天を引き裂く様な軌道の拳で。すると主人の頭は机を割ってめり込み、口や耳から血を吐いた。赤くなった机と一体化した人間の割れた頭は、堺目が分からなかった。隣の婦人は、その事態を認識して叫び出すより早く殴り殺した。もっと乱暴なやり方でだ。そして三人…四人…。「ニガーがとち狂った!」五人目を殺す途中で、マイクは穴だらけになって倒れた。


ああ、血が流れる、とマイクは思う。この事のせいで、また黒人の血が、間違いなく自分の家族の血が流れるだろう。奴らは報復に四か五の十倍、いや百倍殺すだろう。そうしてから労働力が足りないと気付き、白人達はまた船で攫いに行く。俺の頭が弱いからこうなったんだ。頭が弱いから、生きていても、死のうとしても仲間を殺してしまうんだ…マイクが考えられたのはそこまでだった。

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虚無へのカウンターパンチ @jintonictone

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