8 青夜 Ao-Ya

 ケンはポケットに手を入れてiPhoneがないことに気づいた。ワイヤレスイヤホンは拉致されてからずっと右側だけが外れずに残っている。ナツメのポケットやブルーシートを調べるが見つからない。探しあぐねていると周辺視野で微かな動きを捉えた。ケンは横を向いて息を呑む。ナツメが仰向けに横たわったまま少し首をもたげてこちらを凝視していた。異様に大きな双の眼。俺は一度もナツメの顔を見たことがなかったのか。薄闇にギラツク人外のごとき眼球を認めるや、吐き気にも似た戦慄を抑えるだけで精一杯だった。


 ケンは目を細め静かに呼吸しながら視線の圧をやりすごそうとした。淡々とバットを拾いナツメの車に乗り込む。金属バットを後部座席へ放り投げると、積んであった木刀と鉄パイプにぶつかり、硬い音が車内に響いた。ナツメは準備した武器三択から金属バットを選んだというわけか。バックミラーをずらして自分の顔を確認する。乾いた血が顔の中心部にべっとりとついている。頬骨や顎、首筋にも飛び散り流れた血の跡が残っている。もちろんベージュのシャツにも。この顔をまずなんとかしないやばい、そう思ってエンジンをかけた直後、ナツメが鬼の形相で車の前方から駆け寄ってきた。ケンは不随意にアクセルを踏む。ナツメの身体は吹っ飛び、またブルーシートの前に倒れて動かなくなった。ケンはナツメの状態など確認する暇もなく、逃げるように街の方角へ発車させた。


 曲がりくねったゆるやかな山道を下り始めると、前方に奇妙な人影が現れた。

 紛うことなき異装のシルエットをヘッドライトが浮き彫りにする。腰まで伸びた金髪にスケキヨの面を被った百九十センチを超える男。左手に懐中電灯、右手にはゴルフクラブ。ケンは緊張しながら見て見ぬふりをした。男の行き先はたったいま俺が後にした場所しかありえない。すれ違いざま、男は運転席を凝視した。怪しい男が俺を怪しんでいる。見るな、目を合わすな、そう自分と男に念じた。


 信じられない。サナが儀式に呼び寄せた人間はほかにもいたのだ。もし三人が鉢合わせたらどうなっていた? 殺し合いになっていたかもしれないし、穏便に話し合いで解決したかもしれな……いや、それはさすがにない。ナツメがあいつに殺される可能性は極めて高い、すでに死んでいなければ。


 ナツメの怪我の程度はわからないが、少なくとも流血はしていなかった。俺がナツメに怪我を負わせて、あるいは万が一殺してしまったとして、正当防衛になるのだろうか。ナツメをブッ叩いてもなにも解決しないのは自明だったが、とにかく大人しく帰ったら後悔すると思ったのだ。今日という日は絶望という名の宝くじの一等前後賞を当てたとしか思えない日だった。これから俺はどこへ帰ればいいのだろう。


 ケンは半ば無意識にサナのマンションへ向かっていた。到着するまで忙しく思考が回っていたのと疲労がピークに達していたせいで運転していたときの記憶があまりない。マンション手前で車を乗り捨てた。もう思考を駆動するガソリンも尽きた。ただ放心状態でオートロックの扉の前に立った。

 外に人の姿が現れる。住人らしきピンクのスエットにビニール袋を提げた女が入ってきた。血まみれのケンを見て身体をビクッとさせる。すいません、僕は住人です、事故に遭って持ち物も失くしてしまって、部屋に戻れなくて困ってたんです。あながち嘘ではないと思った。共連れのようにオートロックの扉をくぐり一緒にエレベーターに乗り込んだ。女に緊張した表情で救急車呼びましょうか、と尋ねられたので、部屋に友人がいるので大丈夫です、と答えた。昨夜とは反対に、エレベーターに乗っている時間がやけに短いと感じた。ケンは五階で降りて、静かにサナの部屋へ向かう。


 カギはかかっていなかった。まるで妻の不貞行為を突き止めた夫のような、不思議な安堵と悲しみが胸に迫る。

「サナ」

 真っ赤な壁。真っ赤な観葉植物。部屋の奥のベッド。数時間前に見た光景が懐かしかった。おそるおそる視線を這わせた。ベッドに眠る黒い服が見える。そこにサナはいた。そう、こういうときは気配でわかるものだ。気配が、ちがうと、すぐに。祭壇の蝋燭は燃え尽き、スタンドライトも消えている。調子の悪いエアコンの唸り声。お香の残り香。最後に真っ白なサナの頬。ケンは動かず、立ち尽くしていた。サナの額は夏の花が咲いたように球形にえぐれていた。サナは目を開けて死んでいる。自らの魔術に殺されて。その傷は燃え狂う太陽のようにも見えた。ケンはそっと膝をつき、涙が出ないのは悲しすぎるからなのか、悲しくないからなのか、少しもわからないまま、額の傷の傍で眠り続けた。夜明けまで。



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机上の殺戮で報いる 彼苑兎 @current_usagi

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