7 弾夜 Hajiki-Ya

 ケンはすぐに目を覚ました。おそらく五分も経過していないはずだ。俺はここで死ぬかもしれない。パニックに陥る一歩手前で踏み止まりながら、少しずつ状況を理解しようとした。俺はブルーシートに包まれ、どこかへ引きずられている。ケンは頭の傷にブルーシートが擦れたり、背中に小石がぶつかったりするたび、痛みに顔を歪めた。身体を動かそうとしても、外側からきつく紐のようなもので縛られているらしく、びくともしない。だがまだ身体に力が入るとわかった。


 俺はこのまま海に沈められるのか、山に埋められるのか、どっちだ? 海に沈めるならブルーシートで包む必要はない。死体が発見されやすくなるだけだ。山に埋めたとき腐敗臭で動物や人間に勘づかれないためのブルーシートなのではないか。山ならまだ少し希望がある。こいつに力が残っているのを悟られてはいけない。案の定、荒っぽく車のトランクに放りこまれた。


 拉致られて車のトランクに押し込められる、フィクションや裏社会ではよく聞く話だが、まさか善良な市民であるこの俺がこんなに目に遭うとは夢にも思わなかった。いまから考えれば、サナが俺の問いに沈黙で答えるとき、傍らに禍々しい火の粉が散っていた。サナは火種を拡大して俺に放ったのだ。しかも膨張するイメージの力を使用して。


 車の振動で頭の傷がズキズキ痛む。発車して四十分ほど経った地点で車体が傾き、身体が進行方向と逆側に転がった。山道かもしれない。少なくとも海と逆方向なのは間違いない。


 頭が下がる形になり酒の影響か心臓の鼓動に合わせてさらに傷の痛みは強くなる。全身から汗が噴き出してきた。ブルーシートの内側に頭から流れた血と汗の匂いが充満する。必死に身体を捻るが紐はゆるまない。

 ケンは朦朧とする意識を縫うように思考をつないだ。ここまで聞こえた足音で判断するなら相手は単独、それも素人丸出しの杜撰なやり方。こいつは十中八九ナツメだ。サナがナツメの家に行ったあとにクスリをやめたのもどうせナツメの影響に決まってる。いまさら思い返しても遅かったが、ケンはサナの思惑通りに動いたことを後悔した。


 車が止まった。トランクが開いたかと思うと、またもや荒っぽく地面に放り出された。くそ、頭がクラクラする。あたりに響くのは虫と鳥の控え目な合唱だけ。ここが人気のない場所なのはわかる。埋められるまでが人生最後の舞台。もうイチかバチかだ。ケンは絞り出せる限り大きな声で、かつ相手の嗜虐的な欲望を刺激しないように声のトーンを抑制して、叫んだ。

「ナツメさん!」

 聴覚から侵入する相手の全情報を漏らさず捉えろ。ケンは一旦息を殺し、吐く息を液体に変えてゆるやかな斜面に流すように長い深呼吸をした。液体が相手の靴底に到達すると、その微細な動きもこちらへ伝えるようになるだろう。生への執着が土壇場で頭のネジが外れたとしか思えない醒めた境地を生んだ。

 相手は答えない。やや音程を低くして続けた。

「あの、ナツメさんですよね? じつは俺、こんなことになるかもしれないって、予感があったんです」

 車のドアを開ける音がした。嫌な予感がする。車の中からカランという固いもの同士がぶつかる音。ついでバタンとドアを閉める音。やばい、と思った。ナツメはトドメを刺すつもりだ。細かい砂利道を踏みしめる音が近づいてくる。乱れだした呼吸を即座に整えて、今度は少し小さな声で抑揚をつけながら話しかけた。

「ナツメさん、前の奥さんと暮らしてる娘さん、いますよね?」

 お子さんとは言わなかった。子どもがいるかも定かでなかった。だがどうしてもリアリティを確保する必要があった。ズブズブの三角関係に参入するような男に息子がいる確率は低いと考えたのだ。すると二分の一。子なしか、娘がいるかだ。子なしだった場合、少しでもその兆候を感知したら、以下のように述べる。いや、ちがいますね、娘さんじゃないです、もう一人は、お母さんだったかもしれないです、と。それでダメなら死に甘んじる。せめて楽に殺せ。


「俺は今日、ナツメさんに殺されるかもしれない、でも殺されるのは嫌です。なので、いざというときのために、交渉の手札を用意する必要がありました。もし今日中に俺から連絡がなければ、娘さんを誘拐するように、ある組織の、ある人物に依頼したんですね」

 男の動きがピタリと止んだ。呼吸のリズムの微弱な変化も感知できた。動揺している可能性が高い。

「本当です、なぜこんなことを言うのかわかりますか? サナです、サナが、ナツメさんが俺の命を狙ってるって、仄めかしたんです。それを聞いたとき、ああ、サナはナツメさんに責任を被せて俺を殺そうとしてるなと、なんとなくですけどね、襲撃に備えなきゃなと。おそらくですね、ナツメさんは俺を殺すための儀式に参加するように言われたはずです。俺は俺で、ナツメさんを殺すための儀式に派遣されたわけです」

 娘の誘拐を依頼したという嘘を補強するために、嘘に少しの真実とありそうな邪推をつぎはぎして、縫い目を隠しつつたたみかけた。

「最後に、じゃあなぜ俺が、殺されるかもしれない儀式にわざわざ出向いてきたのか。誘拐の依頼なんていうリスクの高い保険をかけてですよ、サナに頼まれても断ればいい話じゃないですか? 正直、自分でもよくわからないです、でもですね、こうしてナツメさんが危ない橋を渡って俺を殺そうとしてるのが、答えだと思います、すべての」

 殺されるなんて塵ほども考えなかった。つい先刻まで口笛を吹いていたのが悪い冗談のようだ。早く終わらせて終電前に特製とんこつラーメンを食べる予定が崩れてしまった。喉がカラカラの状態で大声を出したため、ケンの声は少し掠れている。


「ナツメさん、お互い、なにかに憑かれていたんでしょうね。それに万が一俺を殺して隠し通せたとしても、すでに俺の周囲の人間に今回のことは示唆されてるわけです、絶対足がつきます、バレて悲しむのはもちろん娘さんです。俺は、警察に駆け込んだりなんて、神に誓ってしません、なので、ここで手打ちにしていただけたら幸いです。ダメですか?」

 男はあっさりロープをほどいた。付け焼刃のハッタリが効いた。相手が相手なら通用しなかっただろう。歪つなオムライスの皮を剥がすようにブルーシートは開かれ、疲れ果てて血塗れのケンが姿を現した。


 無慈悲な圧迫から解放された身体は予想していたより軽かった。地面に手をついて立ち上がる瞬間、殴られたように頭の傷がズキンと痛む。ケンは早く傷の手当てをしたいと思ったが、まだ男への警戒心を少しも解いていなかった。

 ケンは肩で息をしている。車の前に男の影。真っ暗闇の一帯で唯一の光源が車のヘッドライトだった。なめらかな逆光に男の体躯がぼんやり浮かぶ。紫がかった和柄のアロハシャツを着た小柄で筋肉質の男だ。片手に金属バットを握り、頭には目出し帽をかぶっていた。半袖から出ている浅黒い腕は血管が浮き出るほど隆起していて、ケンは胡散臭い覆面レスラーのようだと思った。一秒でも早くこいつから離れたい、俺を殺そうとした人間、だが動き出すタイミングに細心の注意を払わねば……。


 百メートルほど離れたところに道路沿いの街灯が見える。地形から判断するとここは山の麓付近らしい。地面は均されている。俺を生き埋めにする場所まで引きずっていくつもりだったのか。

 男は金属バットを地面に置くと、動こうとしながら動けずにいるケンに背を向けて、ブルーシートを几帳面に折りたたみ始めた。ケンは街の灯りのほうへ急ごうと後ずさりながら半身になった瞬間、爆発的な衝動に襲われた。身を翻し音もなく迅速に金属バットを拾い上げる。グリップを強く握り背負うような構えから脳天を叩き割るつもりで男の頭に振り下ろした。鈍い手応えが右手に伝わる。薄暗いのと疲労も手伝って芯を外した。それでも男は一瞬アアと唸り声を上げて倒れこんだ。

「おい、てめえ」

 ケンは空に向かってひび割れた声で叫び男の顔や背中に数発蹴りを入れた。そのまましゃがみこみ、目出し帽を鷲掴みにして引き剥がした。メガネはかけていなかったが、その顔はやはりナツメだった。先日オフィスで言葉を交わしたのと同じ、お人好しの顔で気を失っていた。ケンは激しく息を切らしながら、しばらく途方に暮れるしかなかった。「どうする?」とケンは囁くような小声で自分に問いかけた。俺も病院にいかなくちゃだし、救急車を呼んだほうがいいのか。誰になにをどう説明したらいい?

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