6 血夜 Chi-Ya
ケンは手際よくイヤホンのペアリングを済ませると足早にマンションの外に出た。徒歩の時間を含めても四十分あれば着く。ケンは電車内で家路に就く疲れきった乗客たちを眺めながら、自分は凡人には想像もできない巨大な計画にたずさわっているのではないかと考え口元に笑みを浮かべた。魔術が成功したらこれからの人生どうなるんだろう? 酔いが回ってきて乗客が霞んで見える。
「いま電車降りた」
イヤホンの向こう側から音楽が流れている。そのせいかサナの応答がない。南口改札を出ると人はまばらだった。ケンの前を金髪マッシュの男と金髪ウルフの女が並んで歩いている。どちらもモノトーンのコーデで。カップルかと思ったが、追い抜きざまに二人が敬語で話しているのが聞こえた。女のすいませんという声。男は駅の方向へと引き返した。
「サナ、聞こえてる?」
「聞こえてるよ」
駅前の繁華街を離れ住宅街に入ると人っ子一人いなくなった。大股で歩きながらあと少しだと思ってGoogle MAPの位置情報を確認した。
「まだかなりある」
サナがなにか喋ったが、サーというホワイトノイズに掻き消された。
「サナ? なんかさっき、薄暗い道でナンパしてるの見てさ」
ラーメン屋を横切って交差点を左。あとはひたすら真っすぐ行くだけだ。
「電波悪いね。ラーメン屋あるよ、営業深夜二時まで。マジ神じゃね? 夕飯食べる時間もないとかやばい、帰り寄りたいんですけど」
「集中したいから黙ってて」
サナの声が戻ってきた。集中したところで殺せるわけなんてないのに。先刻までケンの抱いていた淡く甘い期待は薄れてしまった。眠気に襲われながら無言で歩くスピードを速める。ケンは口笛を吹きながら、通話口から流れるDoorsの“The End”に「奈落への疾走」という思いつきの邦題をつけた。
「ほんとにあった、雑木林。見えてきたよ」
出入口周辺は切り開かれてほとんど樹木がなく、地面は硬い土になっている。一台の制御盤が設置されていて、横に生産緑地地区と書いてある立て札。左手に広がる砂利道の途上には数台の車。正面奥には畑らしきもの。ここは現在進行形で管理されている土地だ。ケンは右手の樹木が密集している一帯へ進んだ。
「奥に進んで。ブルーシートが敷いてある場所ない?」
まばらな街灯に照らされて一辺が三メートルほどの比較的小さなブルーシートが見える。
「あった」と言った直後に通話口の向こうの音楽が膨張するように大きく鳴った。サナの部屋で耳にしたことがあるNine Inch Nailsの“La Mer”という曲だ。サナ、もう少し音楽小さくできない? フランス語のポエトリーリーディングが囁かれるのを息を切らしながら棒立ちで聴いている。ふいに音楽が後退しサナの声に転換された。
「いまあたしの声聞こえるよね? ブルーシートの前に太い木があるのわかる? ライトで照らしてみて」
サナの声はとぎれとぎれだが、かろうじて聞き取れる。iPhoneのライトで照らされた幹は街路樹のような管理の行き届いたものと違ってところどころモザイク模様に剥がれ落ち、枝わかれした部分はほとんど腐りかけている。ちょうど顔の高さにサナの部屋で見たペンタグラムと同じ図形が刻まれていた。
「ここだ、サナの部屋にあったのと同じ」
「うん、じゃあ木のほうを向いて立って」
「この図形をじっと見てろと?」
「そうだよ、あたしがいいって言うまでずっとね」
ふたたびサナの声と音楽が入れ替わった。ライン録音されたざらついたギターが唸っている。こんな夜中に人気のない場所で一人でも、イヤホン越しにサナと会話しているせいか不安や恐怖を感じなかった。むしろ酔いが醒めないままノイズまみれの音楽に中枢神経を浸されて、体内に川が流れているような不思議な恍惚感が迫ってくる。
「サナ、こういうのってさ、跳ね返ってきたりしないの?」
サナ? またかよ。ねえサナ、聞こえてる? サナの声は帰らない。ふいにノイズの微粒子と楽曲の重なりに無音の瞬間があると気づいたとき、ケンはナツメを殺せると確信した。俺は半信半疑で、いや本当は、少しも殺せるなんて思わずにここへ来た。だが殺せる。殺す。高等な黒魔術に失敗などないのだ。サナによれば黒魔術とは異なる技法らしいが、呼び名は忘れた。とにかく殺すという二文字に真心を捧げるのだ。
それは一瞬の出来事だった。
消え入りそうに薄く伸びていた街灯の光は、衝撃波のように閃いた。麗しのペンタグラム、昏睡の雑木林、眠れる落ち葉、右手のiPhoneから差し向けられた平べったい光。すべてがいっせいに震えたのだ。天から血しぶきがふりそそぐ。ケンは瞳孔を開いたまま、奇跡に立ち会えた感動に痺れた。閉塞していた世界は開かれ、悪魔と天使の大群がこの世に押し寄せるだろう。魔術の成就によって俺の人生、ひいては世界史に新たな局面が訪れた、そう人類にとって記念すべき日。きっとナツメはいまごろ床に倒れて……。そんなふうに考えたのは時間にして一秒にも満たなかったのかもしれない。鈍い死の感覚が爪先から頭までザワザワと這いあがってくる。あれ、もしかして、これ俺の血じゃね、アハハ。だって頭のてっぺんに硬いなにかが落ちてきたし、そこから噴水みたいにボトボト血が流れてくるし。なるほど、つまり人類の背負いし原罪はわが身によりて贖われんということか。ケンは気を失って棒のように倒れた。ケンの背後に立つ男は几帳面な仕草で金属バットを地面に置くと、横たわるケンをブルーシートで簀巻きにした。
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