5 空夜 Ku-Ya

 サナになにかをやめさせるのは簡単だ。サナは俺が黒とアドバイスすれば白を選ぶし、その逆もまた然りだった。つまりサナが魔術なんかにのめりこむのをやめさせたければ、その選択を褒め殺しすればいいだけだ。でも俺の意図を察知してサナはますます魔術にのめりこむかな? そのときはその選択を褒め殺しすれば……いや、深入りしたらもう手遅れだ。ケンはアラームの鳴る一時間前に目覚めた。このまま永遠に眠らせてほしい。出かける寸前まで冴えた頭で身体を丸めていた。


 ナツメはいつも通り人の好さそうな笑顔を浮かべてマメに働いていた。まさか今夜自分を殺すための儀式が行われるなんて夢にも思わないだろう。

 サナは欠勤だった。午前中に体調不良だと連絡があり、儀式は延期にするかと訊いたが、夜には回復すると思うから絶対に来てほしいと返信があった。


 ケンとサナは去年の夏に職場の同僚として知り合った。社内恋愛はないかな、別れたら面倒だもん、居酒屋でそう話した帰りにケンの家でセックスをして付き合うことになった。あの日から今日でちょうど一年。記念日にナツメ殺害の儀式は決行される。


 ケンは昼休みに公園の木陰にあるオブジェに腰かけて加熱式タバコを吸った。ベビーカーを押している母親の傍で女の子が大声で泣いている。その泣き声を気にしないようにと思っても気にしてしまう。「依存」とケンは小声でつぶやいた。依存先さえ確保すれば荒涼とした世界もただの風景だ。それ以外はどうでもよかった。女の子は泣き止まない。それどころか泣き声はいっそう大きく公園内に響いた。


「はい」

 オートロックのインターフォン越しにサナが応じた。エントランスのドアが開く。エレベーターに乗っている時間がやけに長く感じる。輪廻のように繰り返し繰り返し一階から五階へ昇り続けているのか。喉の奥に焼けるような苛立ちが兆す。ケンはいつまでも同じ階で点滅しているランプを見つめながら、ナツメにすべての責任を転嫁しようと考えた。ナツメが死ねば俺たちの破局を回避できるかもしれない。このままでは永遠にエレベーターに閉じ込められたままだ。


 ケンはチャイムを鳴らさずに部屋のドアを開けた。少なからず予想していたが、想像を超える光景に感動すらおぼえた。壁と天井は隅々まで深紅に塗られ、部屋の隅に配置された四点のスタンドライトが放つ赤い光を反射していた。もともと淡いグリーンだったカーテンは光沢のあるワインレッドに交換されている。黒く染めた髪に黒いワンピースを着たサナはベッドに座ったまま首をこちらへ向けた。部屋に散乱する赤い光源とは対照的にサナの瞳は暗かった。

「あのさあ、ここ、どこ?」

「太陽の王国」


 私は忘れられないの。太陽に住んでた十五年間、すべてを自分の力で手に入れて、地獄みたいな炎で焼かれながら、私は太陽系に君臨してたの。サナの声は後頭部が喋っているように背後から響いた。どういう仕組みになっているのか不思議だった。ケンはサナの話をある種の現実として捉えた。

「すごくね? これぜんぶ自分で描いたの?」

「うん」

「天井は手届かなくない?」

 サナは静かに立ち上がり、クローゼットを開いて小さな脚立を取り出した。

「ああ、理解。これさ、退去するときに原状回復っていって」

 言いかけてケンは止めた。いまさらそんなわかりきったことを言っても誰も得をしない。

 サナは笑顔を浮かべてこちらを見た。サナが笑っているというより、サナに憑いているなにかが笑っているようだ。机の左右に据えられた燭台しょくだいにはすでに蝋燭が刺さっている。サナは少し仰々しく二本の蝋燭それぞれに火を灯した。部屋の雰囲気が息を吹き込まれたように一変する。

「もう始めるの?」

「タイムリミットがあるからね、もたもたしてると力は逃げちゃうの」

 サナは台所から茶色く濁った液体の入った瓶を持ってきた。蓋を外された瓶を傾け聖杯に注ぐ。きついアルコールの匂いがする。ケンは緊張して聖杯をじっと見つめた。サナは聖杯に満たされた液体を一口飲むと、残りをケンに飲み干すよう促した。

「アルコールと血の匂いがする」

 ケンは聖杯を自分の鼻先に近づけて味わうように匂いを嗅いだ。サナの手首にはまだ大きな絆創膏が貼られている。サナは含み笑いをして、ゆっくりと頷いてから、小さな声でフフと笑った。サナが腕を切って流した血と酒以外になにか入っているかもしれない。だが喉が渇いていたのと、異界に迷い込んだ緊張をほぐしたくて、躊躇わずに一息に飲み干した。胸にアルコールが染みて、思ったより鉄の味が濃く口に残る。赤茶色の血を通して体内と部屋の赤い光が混ざり合う気がした。


「あのね、これから地図送るから、その場所に行ってほしいの」

 サナはLINEでGoogle MAPのリンクを送信した。ケンはiPhoneを手に深呼吸して通知を待ち構える。バイブ音が鳴ると追われるように画面をスワイプしパスコードを入力した。LINEを開くとトーク一覧のサナのアイコンが真っ黒になっている、先刻までは実家で飼っている三毛猫のあんこだったのに。


「なにもないというか、灰色」

 地図上の赤いピンアイコンが立っている場所は住宅街だ。しかも周辺の駅からかなり離れている陸の孤島。目的地の最寄りは二駅しか離れていなかった。

「地図には書いてないけど、そこに雑木林がある」

「マジで?」

 サナはケンにワイヤレスイヤホンを渡した。これつけて私の指示通りにしてほしい。サナによれば蝋燭の火が消えるまで約一時間半。そのあいだに儀式を完遂する必要があった。

「わかった、急ぐ」

 サナはまたベッドに腰かけ、壁のペンタグラムを凝視し始めた。

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