夏日。陰と陽。
他人と関わるのは総じて面倒だった。
他人の思考は理解できないから。他人の言葉の真意は知れないから。他人の感情を読み取れないから。他人の優しさに共感できないから。
だから他人と関わるのは私にとっては面倒この上ないことであって、友人や恋人なんてものは私の人生には生涯を経ても一人として存在しない縁遠いものだと確信を持てていた。
そう、持てていたのだ。つい五秒前までは。
「──私と付き合ってくださいよ。先輩」
二十八年四ヶ月と三日目にして、私はこの世に生を受けて初めて言葉を失うという体験をさせられている。
午後零時四十分。僅かに傾きはじめようとする太陽の下。会社からは徒歩十分ほど離れた公園のベンチ。
その正面。昼時となって日光浴に集まっていた猫たちを背景に立つ女が言い放った一言が、私の思考を凍らせていた。
「君、今なんと」
「私と付き合ってくださいって言ったんですよ」
「理由は」
「先輩に興味があるからです」
返ってきた言葉で思考の氷は溶けて無くなり、今度は疑問符が激流となって脳天から声帯まで流れ込む。
理解が追いつかなかった。付き合う。付き合う……それはつまり恋人になるということ。……恋人、恋人?それは親交の深い男女がなるものであって、決して出会って一週間足らずの会社の先輩と後輩が成し得る関係では無いはずだ。そもそも友人ですらないのに恋人とは……?
「興味……?私に?」
「だって先輩会社でもずっと本読んでて、人と話さないですよね。だから気になって、どんな人なのかなーって」
続けて言う彼女曰く、同僚や上司、他部署の人間にまで聞いて回ったが望んだ返答がなかったらしい。友人関係、恋人の有無、趣味嗜好といった情報ひとつ引き出せなかったのが悔しかったのだとか。ある者は私の事を、鋼の要塞とまで呼称していたらしい。
とはいえそれが理由で付き合いたい、と告白を結論付けるのには些か無理があり過ぎる。
彼女の思考を理解出来ず、知らず怪訝な表情をしていたのだろう。不意に彼女は──二つ下の後輩は、悔しそうに苦笑していた。
「やっぱり無理ですよね。……全然話したこともないですし」
「それはそうだろう。君は街ですれ違った人間にいきなり告白されて付き合えるのか?」
「それは無理です!私そんな軽い女だって思われてます!?えっちなんて誰ともした事ないのに!」
「誰が君の経験人数の話をした。……まあ理解できただろう。私の心理状態を」
「よく理解出来ました」
言うと、後輩はぱたぱた忙しなく日向に歩いて行って日光浴に勤しんでいた野良猫の贅肉を撫でる。猫に人間の言葉が理解できるはずは無いのに何か呟いているようだった。彼女の言葉に興味は無いが、概ね同情でもして欲しかったのだろう。そう訴えかけているのが、横顔だけの表情でも察せられる。
しかし、つくづく私という人間はどこまで行っても他人というものに関心が無いらしい。
気づけば傍らの鞄から本を取り出して並べられた文字列を目で追いはじめていた。
本は良い。独りになれるから。
無駄話の過ぎる人間とは違い、本は取得する情報を読み手に選ばせてくれる。
求める情報を求めるだけ手に入れることが出来る。何の興味もかき立てられない人間の受け売りだけの会話より数倍は有意義に時間を過ごせる。
その本が実用書だろうと伝記だろうと、フィクションだろうとノンフィクションだろうと。そこにある情報は私に知識と知恵を分け与えてくれた。
「それ、なんの本ですか?」
視界の奥から声が向けられる。野良猫と戯れながら、後輩がこちらに視線を向けていた。
ぴたり、と頁を捲る手が止まる。意識も彼女に引き寄せられて、本を読むという行為を私は中断せざるを得なくなる。……ほんの僅かにだが、内心で苛立った自分がいたのが分かった。恐らく私個人に注がれた興味からくるものだったのだろう。そう警戒するものでも、憤りを覚えるようなものでもないはずだ。しかしこの時ばかりは何故かそうはいかなかった。
彼女の先程までの言動もあってか、反射的に浮かんできた言葉には長く鋭利な棘が含まれている。それを私は良しとした。
「私がいつ何時どんな本を読もうが君には関係ないだろう。頼むから少し静かにしていてくれ」
「……」
言い放つと彼女は口を噤んでしまう。傍らの猫に伸ばしていた手は躊躇われ、幼い少女のように地面に屈んでいた膝に添えられる。
見ていると明らかな落胆を示した彼女には、流石に同情の念を禁じ得なかった。それもこれも私の放った一言のせいなのだけれど。
本のタイトルを伝えても無意味な気がして、大まかな内容だけを独り呟いた。
「主人公の友人が突然誘拐されてしまい、真相を探るうちに主人公はバイオテクノロジーの一端に触れてしまう。科学技術を取り込んだ主人公は宇宙人に誘拐され地球に帰還するため宇宙を旅する。……おおよそそんな内容だ」
「それ推理小説なのかSF小説なのか分からないですね。面白いですか。その本」
「いや全く」
微塵の希望すら残さぬ勢いで切って捨てると、何故そんな本をと彼女は矢継ぎ早に問いかけてくる。
「作者の文体が好きで読んでいる。内容は酷いものだが、文字はバカ正直に主人公の心情を描いている。この本の魅力なんてせいぜいそんな物だ」
「へぇ」
本の感想を伝えきると、視界の端に何故だかニヤけた後輩の姿があった。普段から隣のデスクで仕事をしており、彼女の挙動は視界に入ることが多い。いつの間にかわずかに視界に入るだけで、表情の変化には気づけるようになってしまっていた。
そのニヤけ面はすこし不快だった。けれど先程のような棘を含んだ言葉は口にはしない。
「なんだその顔は」
「別にぃ何もぉ?ありませんけどぉ?」
無駄に間の長い気色悪い口調で終始ニヤけている後輩は、肩下まで伸ばした髪を揺らしながら私の腰掛けるベンチまで歩み寄ってくる。
日陰に入り照りつける夏の日差しから逃れると、彼女は言う。
「先輩、結構話せるじゃないですか。どうして会社の人たちとあんなに距離置いてるんですか?勿体ないですよ」
「……」
勿体ない。向けられたその言葉を反芻した。
けれども上手く飲み込めない。理解できないというべきか、あるいは共感できないというべきか。
他人と関わる事が人生において最も面倒な事象だと位置付ける私にとって、それはやはり理解の及ばない思考なのだろう。
「……勿体ないか」
知らず、反芻していたはずの二文字は言霊となって唇から漏れ出ていた。
後輩がそれを見逃してくれるはずがなく、
「そう。勿体ないですよ。せっかく皆いい人なのに。きっと先輩のことを知ったら皆もっと好きになってくれますよ」
善意で頷きながら続けて言う彼女の言葉には、この上ない説得力があった。社内全ての人間と顔見知りと言っても過言では無いほどに彼女は日頃から周囲と接し、そして慕われているからだ。故に彼女の言葉には説得力がある。彼女が確信を得て紡いだ言葉に、嘘偽りの類いを疑うことは躊躇われた。
だからと言って私のような生まれてから一度も交友関係を築いた事の無い人間が、一朝一夕で他人との距離を縮められるとは到底思えなかった。
彼女の言葉を聞きはするが、言葉にして返答することはない。手に握ったままだった本を鞄に入れ、ベンチから重たい腰を持ち上げた。
腕時計を見やる。時刻は午後一時前。昼の休憩時間はもう終わろうとしていた。
「話の続きは戻りながらにするぞ。葵」
「はいはい。……って、いま名字で──」
まずは一歩目から。
いま目の前にいる彼女のことを私は知るべき気がした。
泉田短編集 泉田聖 @till0329
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