泉田短編集

泉田聖

栞をさす

 本の虫であることは昔から自覚があった。


 幼い頃、病弱だった私は、この世界を構成する要素と素材のほとんどの知識を本やテレビから得ていた。


 自宅でも病院でも。

 幼い頃、ベッドから動くことさえ躊躇われる程に病弱な身体に生まれた私は、とにかく世界がどんなものなのかを知りたかった。

 はじめはテレビで世界のことを知ろうとした。が、教育番組で取り沙汰される童話や御伽噺というものをそもそも知らなかった私は、終始疑問符を浮かべながらテレビを見ていたらしい。


 それを見兼ねて母が見せてくれたのが絵本や本だった。

 今にして思えば、こうして本の虫になってしまったのもきっと、あの時母が私に本という知識の宝物庫の鍵を手渡してしまったからだろうと思う。



 冬。空は鈍色に覆われて、太陽の姿はもう何日も見ていない。見るのは長夜の月ばかり。

 夏の暑さすら恋しく思える十二月の終わり。

 行きつけの喫茶店の、いつも座る窓際の席。年間に読了した本の冊数が、四二六冊目になりかけた時だった。


「──あの」


 突然視界の外から向けられた声。本に向けていた意識を阻害されて僅かに苛立つが、もう二十代も終わりかけの寂しい身分だ。ここは大人の対応を、と内に潜む本の虫に念じ、表情を崩さないように声のした方へ視線を返した。


 そこにいたのは、若い男性。清潔感のある好青年で、笑顔が好印象だったと記憶している。普段からよく見かけるので名前も知ってはいるが、あえて口にはしない。厨房や店舗側を盗み聞きされていると思われたくはなかった。


「……私に何か」


 僅かに鋭い口調だったかもしれない。

 青年は一瞬視線を逸らし、昼下がりの落ち着いた厨房でこちらを覗く同僚達に助けを求めているようだった。


「ごめんなさい。少し……目つきが悪かったかしら。私に何か用?」


「あ、いえ……珈琲のおかわり、どうですか?」


 言って青年が指で指し示す。その先には空になったカップがあって、いつの間に飲み干してしまったのか自覚すらしていなかった。

 ええ、と小さく頷いて青年にカップを手渡そうとして気がつく。カップを受け取る彼の耳は赤くなっていて、手も何故か震えている。


「貴方、大丈夫?」


 問いかける。

 しかし彼は何について言及をされているのか気がついていない様子で、


「何がです?」


 そんな間抜けな問いを返してくる。顔は真っ赤なくせに。


「手、震えているわよ。顔も真っ赤。熱でもあるんじゃないの」


「な──」


 言ってあげると青年は爆発しそうな程顔を赤くして、まるで壊れた機械のようにガタガタ震えながら厨房の奥に下がってゆく。

 その後、珈琲と彼が戻ってくるのに三十分程の時間を要した。


 冷めた珈琲で満たされたカップを持ってきた彼に一言、


「私のことを厨房からじっと見て。何か用があるんじゃないの。いつも同じ席に座らないでくれ、とか。もしそうなら、大人しく従うわよ」


 言ってやると青年は首を横に振り回し、先程までに比べると随分と落ち着いた様子で答えを返してくれる。


「そんな馬鹿な。常連さんにそんなこと言えませんし、僕もその席気に入ってるので」


 窓越しのテーブル席。厨房から一番近い席で、休日には近くの運動公園を走り回る子供達の姿が見える。はじめにこの席に座ったのも、それを見るためだったような覚えがあった。


 外を一瞥して、運動公園を見やる。冬のこの時期になると子供の姿は少なくなってしまうが、今度は自然の単色になってそれを楽しめる。静かで物寂しいが、どこか落ち着く景色だった。

 青年を見やる。


「頭、冷えたようね。私に用があるんでしょう?」


「……ええと、はい」


 ほんのり顔を赤くする青年。厨房に視線を送ると、店主の老人が休憩しなさいと柔和に笑む。会釈を返し、青年が向かい合う椅子の背もたれに手をかけた。


「座っても?」


「ええ。珈琲を温かいものに取り替えてくれるなら」


「え」


 青年の目が点になる。湯気の姿なんてどこにも見受けられないカップを見つめて、


「すみません!直ぐに取り替えてきます!!」


 慌てた様子で椅子をテーブルに叩き込み、厨房に戻ろうとする。

 普段傍目に見る彼とは大違いなまるで別人のように感情の起伏の激しい言動に、思わず笑いが零れてしまう。


「冗談よ。いいから座って」


「……分かりました」


 ばつが悪そうに青年が答える。椅子に腰かけ、一度目を伏せてからまた視線をこちらに寄越す。何か躊躇っている視線に小首を傾げて問いかけた。


「何か?」


「いえ、……その。本、好きなんですか?いつも読んでますよね」


 他愛もない会話。それどころか、会話の終着点の分かりきっている不毛な話題。

 頷き返し、開いていた本を閉じて傍らに伏せ置く。


「ええ。昔からね。病院生活が長くて。友達もいないから、知識を得るのはいつも本ばかりだったの。好き、というより臓器みたいなものね」


 無いと死んじゃうのよ、私。なんて冗談を混ぜて笑ってみせる。

 すると青年は視線の先で、なぜだか驚愕している。何か妙な事でも口にしたか、と思い己の発言を振り返ってみるが心当たりがない。訊ねてみるとその驚愕の正体は、私には決して辿り着けない答えだった。


「友達いないんですか?」


 一瞬思考が凍り付く。

 何を言っているだ、と彼に向けた双眸には知らず嫌悪や侮蔑といった感情が含まれていたのかもしれない。目が合うと赤かった青年の顔が、青ざめたのが分かった。


「どういうこと」


 恐らく彼も無意識だった。

 無意識に他人のデリケートな部分に踏み込んでしまったのかもしれないと自責の念を抱いているのが表情からも見て取れる。


「……すみません。無神経で」


「いいの。私の方こそ言い方が強かったかも。でも、さっきの質問がどういう意味なのか教えて貰ってもいいかしら」


 言うと、青年は視線を合わせてはくれなくなっていた。いや、合わせられないと言うべきか。真っ青だった顔がまた赤くなって、目のやり場に困ったように視線はあっちこっちを泳いでいる。

 やがて口元を手で覆いながら、もごもごと小さく言いにくそうに言う。


「いえ……。そんなに綺麗なのに友達がいないって、何でなのかなと思って。……それで」


 そんなことか、と内心でボヤいてしまう。


「私ね。友達が出来ないのよ。私自身に作る気もないから、相乗効果で余計にね」


「……どうしてですか?友達いた方が絶対楽しいのに」


 青年が言う。

 それが正しいと肯定する自分が心には居る。けれどもっと心の奥底で、私には理解できないと否定している自分が居る。

 肯定と否定の形は、氷山の一角に酷く似ていた。肯定しているのなんて上辺だけ。否定している自分が八割強だ。


 どうして、と問う青年に答えを返す。


「言ったでしょう。病院生活が長かったって──」



 これは何かの合併症だと、無責任にも病原菌に責任転嫁した事さえある。


 昔から一人でいるのが当然だった。

 それが苦では無かったし、何より本に熱中出来る時間が長い入院生活の中唯一の娯楽と呼べるものだった。


『好きなことを好きな時に』


 それが母が病弱だった私に教えてくれたことで、私はそれ鵜呑みにしたし、母も決して責めたりはしなかった。

 だから入院中のほとんどの時間を本との対話に費やした。

 やがてそれが日常に、習慣に、悪癖になっていって、私はだんだんと人と関わることを拒む子供に育っていった。

 同じ院内の子供たちが遊んでいても本を読んでいたし、彼らの読むつまらない絵本の絵空事もより深くて大きくて確固たる知識と情報で一蹴する。私は心の奥底で、彼らのことを小さなコミュニティの中に生きる醜い人間だと蔑んでいた。


 小学五年の春だった。長かった入院生活は、終わりを迎えた。


 父も母もそれを喜んだし、私自身も嬉しかった。

 買ってから一度も使ったことの無いランドセルを背負って学校に行き、顔も名前も知らないクラスメイトの前で自己紹介をする。

 わくわくしていた。やっと普通の生活を許された気がした。家族が居て、友達が居て、いずれ恋人が出来て、結婚して、子供を授かって──そんな平凡だけれど、この上ない幸福に満ち溢れた世界が私に許された。


 そう思っていた。


 休み時間が訪れ、私の机の前にクラスメイトが集まってくる。小学校時代は伸び伸びと過ごして欲しいというのが両親の意思で、都心から離れ、父の実家のある田舎で過ごすことになった。

 クラスメイトは総勢しても十七名。クラス替えという概念の存在しない田舎の学校では、私のような新顔は珍しいもののようだった。


「ねえ!これ知ってる!?面白いんだぜ!」


 春先だというのに半袖半ズボンで過ごす季節感の狂った少年が、図書室から借りてきた一冊の本を私の前で開いて見せた。それは良くある間違い探しの本で、その本であれば私は既に何度も目にしていた。

 聞けばつい先日図書室に入ったばかりの有志で集められた本らしい。実際にはもう何年も前から存在するものだから、私にはそれが珍しいものには思えなくなっていた。


「いいよ。それ何回も見たし。それよりもさ──」


 彼らも病院の子供達と同じ小さなコミュニティの中に生きる人間だ。まるで世界が小さい。見えている世界の尺度が違い過ぎる。彼らと日々を過ごしても、きっと退屈なのだろうなと私はすぐに彼らを見限った。



 夏が訪れ、待望の夏休みを迎えた子供たちが運動公園を駆け回る季節になる。

 いつもの喫茶店。いつものテーブル席。

 を待ちながら珈琲を口にする。


「ごめん。ハルさん。……待ちました?」


 やがて声の主は、向かいの椅子を引いて腰掛ける。喫茶店の制服のまま。片手には、氷が浮かぶ珈琲を持っている。


「まさか。貴方が勝手にこの席で休憩しているだけでしょう」


「……そうですね。いつも僕の独り言に付き合ってもらって申し訳ないです」


 構わないわ、と了承を伝えて開いていた本に栞を挟んで閉じる。

 こうして読書の合間に休憩を挟むようになったのはいつからだろう。気がついた頃には日課になってしまっていた。


「いいわ。貴方の独り言は聞いていても不思議と退屈しないもの」


 言うと青年は微かに笑う。

 珈琲を口に運び、喉を潤すといつものように突拍子も無い話題をどこかから掬いあげて、私に聞かせてくれる。


 私はそれに言葉を返す事はしないし、彼も私に何かを聞いてくることは無い。


 私が一人でいるのが好きであることを、彼は知っているから。

 あくまで私に情報を伝えてくれる媒体として、彼は淡々と話を聞かせてくれる。

 それではまるで本と読者の関係値と同じだが、それでも構わないというのが私たちの共通認識になっていた。


 だって私は本の虫だから。


 彼自身に興味はなくとも、彼の話と彼の知り得る知識にはこの上なく惹かれるものがあった。


「じゃあ休憩終わりなので。また明日」


 一頻り話を終えると、青年は椅子から立ち上がって厨房の奥に歩き出そうとする。

 まだ話の途中だったので区切りが悪いが、彼も仕事があるので致し方無い。

 思いつつも、そっと手を伸ばす。


「──?……ハルさん?」


 手を伸ばした先には彼の手があって、私はちょうど彼の左手の指先に自分の指を絡めるようにしている。

 不思議そうに。いつかの冬の日のように。みるみふ顔を赤くしていく彼に言う。

 本に栞を挟み込むように。決して今日の事を忘れないように。彼の記憶に刻むように、すこしいじわるく指を絡めた。



「これは栞よ。どこまで自分が話したか、ちゃんと覚えておくように。また明日。ケイくん」


 

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