夏の散歩は夜にするとよい

烏目浩輔

次郎とヘクトー

 盆の初日という折りであっても、夜風にはいくぶんかのりょうがある。

 夏の散歩は夜にするとよい。

 

 ヘクトーと日課の散歩をするために、次郎は一人暮らしのアパートを出た。ヘクトーは尻尾がくるりとひときした、体毛がこげちゃいろのごく平凡な雑種の犬だ。散歩の行き先は徒歩十分ほどの河である。


 陽がすっかり落ちた生活道に歩を進めると、毎日のことながらずいぶんと暗かった。みっちりと立ち並ぶ民家の窓から、暮らしのあかりが漏れてはいるものの、足もと照らすまでには至っていない。それでも電信柱の根もとにある黒いしみは見て取れた。酔っぱらいか犬の小便の跡だろう。

 放し飼いにしているヘクトーは、次郎の前を、付かず離れずの距離ですたすた歩いている。行き先はいつもの河だと承知し、そこまでの道順も頭に入っているのだ。平凡な雑種のくせに、なかなか利口な犬である。


 そんなヘクトーであるが、もとは次郎の犬ではなかった。大学生時代に親しくしていた京子が飼っていた犬だ。それを次郎が二年半ほど前に引き取ったのだった。


 京子と知り合ったのは大学に入学してまもなくだったが、彼女はいつもかしの黒っぽい杖をついていた。持ち手の部分がていけいの男性用ステッキのような杖だ。その杖をついていたのは、被曝の後遺症が理由だった。

 大学は関東に所在するが、京子の実家は広島にある。その広島に原爆が落とされたのは、京子が五歳のときだったという。実家は爆心地からまま離れていたものの、それでも被曝し、無傷というわけにはいかなかった。


 原爆が投下された当初は、これといって京子の身体からだに問題は出ていなかったそうだ。ところが、十三歳のときに突然右足が動かなくなった。前日まで普通に動いていた足が、翌朝にはまったく動かなくなっていた。

 京子は両親につれられて病院に向かった。いくつかの検査が施された結果、原爆症という診断がくだされた。


 原爆症は被曝の影響によって、白血病や甲状腺がん、発熱や倦怠感、脱毛や頭痛など、さまざまな症状が現れる病気だ。京子の場合は右足に機能不全が起きた。ただ、足の筋肉に異常が生じているのか、脳の指令が足に届いていないのか、機能不全の仔細は不明なのだという。

 原爆が投下されたさいには、京子の両親もそばにいたが、彼らには原爆症の症状は現れなかった。それは被曝の特性であると、医師から説明があったらしい。被曝の影響は低年齢であるほど大きく、五歳で被曝した京子にのみ症状が現れたのだった。

 また、原爆症を発症するのは被曝直後とは限っておらず、何年もしてから発症する例も珍しくないそうだ。京子は被曝から約八年後に発症して、以降は杖が手放せなくなったのである。


 京子はその不自由な右足を杖で突きながら、ちょくちょくこんな自慢話をしていた。

「ちっこい頃のウチはお転婆じゃった。こうなる前は足が速かったんで」

 広島弁のという意味であるから、かなり速く走れていたのかもしれない。だが、子供の頃の京子が俊足だろうが否だろうが、次郎にはどうでもいいことだった。

「ほう、そりゃ、よかったな」

 などと次郎が適当に応じると、京子は白けた顔をして呟いた。

「つまらん奴じゃ……」


 京子は小柄なうえに子供っぽい顔つきをしていた。ゆえに他者から舐められがちなのだが、実のところだいぶと気が強かった。納得のいかないことがあると、相手が男でも女でも、言葉を選ばずに苛烈に言い争った。言い争いで解決しないときは、杖を振りかぶって、物騒なことをよく口にしていた。

「杖で頭をかち割っちゃる」

 

 大学で夏目漱石の作品を考察するという講義が行われたさいには、典型的な漱石信者である京子は、女性講師の見解が気に食わず、周到に論破して号泣させた。その講師は講師としての自信を失い、しばらくのあいだ大学に出てこなかった。

 そこまでする京子を多くの学生がけったいな奴とみなし、次郎もけったいな奴とみなした。だが、次郎はけったいな奴がわりと好きだった。

「お前は本当におもしろい奴だな。講師を泣かした学生なんて、お前くらいのものじゃないか」

「あの講師は漱石のことがなんもわかっとらん。そがいな人に漱石を語ってほしゅうない」


 講師号泣の件からもわかるように、京子はなかなか気難しく、つき合いにくい性格の奴だった。ところが、次郎は不思議と京子と馬が合った。学内でもよく行動を共にしていたし、休日に学外で会うことも頻繁にあった。足の不自由な京子のために、買い物を代行してやったこともあった。


 また、当時の京子は次郎と同様にアパートで一人暮らしをしていたが、お互いの部屋を行き来するばかりか、

「次郎、今日はうちに泊まっていきんさい」

「帰るのも面倒だしな。そうするか」

 などと部屋に泊まることも珍しくなかった。

 このように次郎たちは非常に親しくしていて、それゆえに男女の情がある関係を他の生徒に疑われもした。しかし、ふたりは決して友達以上の関係にはならなかった。次郎たちはいたって健全な友人だった。


 そして、大学三年生のあの日である。


 そろそろ一月が終わるという頃、京子が大学を一週間ほど休んだ。ちょうど風邪かぜきが流行っていた時期というのもあって、次郎はそれをおおごととは捉えなかった。京子も風邪を引いただろうと、軽く考えていたのである。


 午後の講義が早くに終わった日、次郎は暇つぶしがてら、京子の様子をアパートまで見にいった。外から呼びかけてても返事かないので、合鍵を使ってドアを開けると、玄関のところから京子の姿を確認できた。奥の部屋に布団が敷かれており、京子はそこで横になっていた。

「入るぞ」

 深く眠っているのか、京子に反応はなかった。

 勝手に部屋にあがりこんだ次郎は、布団の中の京子を目にして立ち尽くした。目を閉じた彼女の顔が、異様に白いのだ。名前を読んでも目を覚さない。肩を掴んで揺らしてみても、京子は眠ったままだった。

 次郎はそうしながらも、すでに気づいていた。

 京子は息をしていない。掴んだ肩がひどく冷たくて、人形のように硬かった。

 ずっと前に戦争は終わった。しかし、原爆の放射線は何年もかけて京子の肉体を蝕み、最後は人知れずこっそりと彼女の命を握り潰したのだった。

 戦争はまだ終わっていなかったらしい。


 次郎はしばらくなにもできずに、京子の枕もとに座りこんでいた。窓から差し込む陽が赤くなりはじめる頃まで、思考が止まったまま座りこみ続けていた。

 ようやく我に返った次郎は、京子の髪の乱れに気がついた。自分が肩を掴んで揺らしたせいだろう。

「ちょっと触るぞ……」

 そう断ってから、京子の髪を整えた。京子は見た目など気にしないだろうが、人を呼ぶ前に綺麗にしておいてやりたかった。

 そのときに見た京子の顔は、まるで眠っているようだった。苦しまずに逝ったのだと思われ、それだけがせめてもの救いだった。


 生前の京子は足が悪くて散歩に不便があったというのに、アパートの前に捨てられていた犬を拾って飼っていた。それがヘクトーだった。

「ウチはちっこい頃に実家で犬をうとった。戦後の食糧難でしっかり食わせちゃれんかったからかもしれん。その犬ははように死んでしもうたんじゃが、ヘクトーはどことのうその犬に似とる。だから、放っておけんくて拾ったんじゃ。拾ったからには長生きさせちゃらんとな」

 そう言っていた当の京子が、ヘクトーより先に逝ってしまった。もちろんそれは京子にとっても予想外のことだったはずだ。そして、無念でもあっただろう・

 

 京子が死んでから二年半ほどが経ち、現在の次郎は社会人となり、教師なんぞをさせてもらっている。だが、住まいは大学時代から住み続けているアパートだった。そのアパートにはヘクトーも住んでいる。

 飼い主の京子を失ったヘクトーを放置しておけば、餓死するか野良になるかだろう。憐れに思った次郎は、ヘクトーを引き取ったのだ。

 さいわいアパートの大家も他の住人も犬好きで、ヘクトーを飼うことに文句は言われなかった。


 目的地の河に着いた次郎は、草土手の石段をおりると、ヘクトーと並んで河川敷の砂利道を歩いた。この界隈ではまま大きな河であるから、夜であってもちらほら人の姿がある。水辺にはあしの群生が認められた。その群生が途切れた浅瀬に、一羽のしらさぎがつんと立っている。


 思えばヘクトーは不幸な犬だ。仔犬のうちに一度は捨てられて、拾われた京子とは死別なのだから。波乱の人生ならぬ犬生である。

 いつだったか京子がこんな話をしていた。

「人間の友人なんぞ別にいらん。ヘクトーさえいてくれりゃあええ」

 京子のヘクトーに対する愛情は深く、ヘクトーも京子にたいそう懐いていた。気難しい京子がヘクトーにはいつも笑顔を向けて、ヘクトーも京子がそばにいるといつも嬉しそうだった。京子たちは強い絆で結ばれていた。

 ところが、京子が突然に死去してしまった。親しい者との別れが辛いのは、犬も同じであるに違いない。

 ヘクトーは散歩している最中などに、ふいに遠くを見つめることがある。その姿が次郎の目には寂しげに映った。もしかしたら、死んだ京子を偲んでいるのかもしれない。


 などと考えながら散歩していると、ヘクトーがいたく不憫に思えてきた。ヘクトーになにかしてやりたい。

 次郎は足もとのヘクトーに目をやった。

「あとで一緒に饅頭まんじゅうを食おうな」


 盆前に実家の母が饅頭の詰め合わせを送ってきた。珍しく上等品だ。犬には贅沢な代物しろものに違いないが、ヘクトーにひとつわけてやろう思う。

 喜んでくれるとよい。



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