夏の散歩は夜にするとよい
烏目浩輔
次郎とヘクトー
盆の初日という折りであっても、夜風にはいくぶんかの
夏の散歩は夜にするとよい。
ヘクトーと日課の散歩をするために、次郎は一人暮らしのアパートを出た。ヘクトーは尻尾がくるりと
陽がすっかり落ちた生活道に歩を進めると、毎日のことながらずいぶんと暗かった。みっちりと立ち並ぶ民家の窓から、暮らしの
放し飼いにしているヘクトーは、次郎の前を、付かず離れずの距離ですたすた歩いている。行き先はいつもの河だと承知し、そこまでの道順も頭に入っているのだ。平凡な雑種のくせに、なかなか利口な犬である。
そんなヘクトーであるが、もとは次郎の犬ではなかった。大学生時代に親しくしていた京子が飼っていた犬だ。それを次郎が二年半ほど前に引き取った。
京子と知り合ったのは大学に入学してまもなくだったが、彼女はいつも
大学は関東に所在するが、京子の実家は広島にある。その広島に原爆が落とされたのは、京子が五歳のときだったという。実家は爆心地からまま離れていたものの、それでも無傷というわけにはいかなかったらしい。京子は被曝したのだ。
原爆が投下された当初は、これといって京子の
京子は両親につれられて病院に向かった。いくつかの検査が施された結果、原爆症という診断がくだされた。
原爆症は被曝の影響によって、白血病や甲状腺がん、発熱や倦怠感、脱毛や頭痛など、さまざまな症状が現れる病気だ。京子の場合は右足に機能不全が起きた。ただ、足の筋肉に異常が生じているのか、脳から指令が足に届いていないのか、機能不全の仔細は不明なのだという。
原爆が投下されたさいには、京子の両親も
また、原爆症を発症するのは被曝直後とは限っておらず、何年もしてから発症する例も珍しくないそうだ。京子は被曝から約八年後に発症して、以降は杖が手放せなくなったのである。
京子はその不自由な右足を杖で突きながら、ちょくちょくこんな自慢話をしていた。
「ちっこい頃のウチはお転婆じゃった。こうなる前は足がぶち速かったんで」
広島弁のぶちはとてもという意味であるから、かなり速く走れていたのかもしれない。だが、子供の頃の京子が俊足だろうが否だろうが、次郎にはどうでもいいことだった。
「ほう、そりゃ、よかったな」
などと次郎が適当に応じると、京子は白けた顔をして呟いた。
「つまらん奴じゃ……」
京子は小柄なうえに子供っぽい顔つきをしていた。ゆえに他者から舐められがちなのだが、実のところだいぶと気が強かった。納得のいかないことがあると、相手が男でも女でも、言葉を選ばずに苛烈に言い争った。言い争いで解決しないときは、杖を振りかぶって、物騒なことをよく口にしていた。
「この杖で頭をかち割っちゃる」
大学で夏目漱石の作品を考察するという講義が行われたさいには、典型的な漱石信者である京子は、女性講師の見解が気に食わず、徹底的に論破して号泣させた。その講師は講師としての自信を失い、しばらくのあいだ大学に出てこなかった。
そこまでする京子を多くの学生がけったいな奴とみなし、次郎もけったいな奴とみなした。だが、次郎はけったいな奴がわりと好きだった。
「お前は本当におもしろい奴だな。講師を泣かした学生なんて、お前くらいのものじゃないか」
「あの講師は漱石のことがなんもわかっとらん。そがいな人に漱石を語ってほしゅうない」
講師号泣の件からもわかるように、京子はなかなか気難しく、つき合いにくい性格の奴だった。ところが、次郎は不思議と京子と馬が合った。学内でもよく行動を共にしていたし、休日に学外で会うことも頻繁にあった。足の不自由な京子のために、買い物を代行してやったこともあった。
また、当時の京子は次郎と同様にアパートで一人暮らしをしていたが、お互いの部屋を行き来するばかりか、
「次郎、今日はうちに泊まっていきんさい」
「帰るのも面倒だしな。そうするか」
などと部屋に泊まることも珍しくなかった。
このように次郎たちは非常に親しくしていて、それゆえに男女の情がある関係を他の生徒に疑われもした。しかし、ふたりは決して友達以上の関係にはならなかった。次郎たちはいたって健全な友人だった。
そして、大学三年生のあの日である。
そろそろ一月が終わるという頃、京子が大学を一週間ほど休んだ。ちょうど
午後の講義が早くに終わった日、次郎は暇つぶしがてら、京子の様子をアパートまで見にいった。すると、外に繋がれていたヘクトーが、次郎の姿を認めるや否や、以上なほど吠え立てた。
「どうした、ヘクトー?」
身を屈めてヘクトーの顔を撫でてやると、痩せて骨ばっているような感じがした。
「お前、もしかして餌をもらってないのか……」
嫌な予感がした。京子はヘクトーを非常にかわいがっている。たとえ体調が悪かったとしても、餌を忘れるなんてあり得ない。
「京子、俺だ。次郎だ」
外から呼びかけてても返事がなかった。
「勝手に開けるぞ」
嫌な予感が増した次郎は、合鍵を使ってドアを開けた。
玄関のところから京子の姿を確認できた。奥の部屋に布団が敷かれており、京子はそこで横になっていた。
靴をぬいで部屋にあがった次郎は、布団の中の京子を目にして立ち尽くした。目を閉じた彼女の顔が、異様に白いのだ。
「おい、京子」
名前を読んでも目を覚さない。枕元に膝をついて京子の肩を掴んだ。大きく揺らしても、京子は眠ったままだった。
次郎はそうしながらも、すでに気づいていた。
京子は息をしていなかった。そして、掴んだ肩がひどく冷たくて、人形のように硬い。彼女は事切れていた。
「京子……」
次郎はしばらくなにもできずに、京子の枕もとに座りこんでいた。日が暮れはじめて部屋がうす暗くなる頃まで、思考が止まったまま座りこみ続けていた。
ようやく我に返った次郎は、京子の髪の乱れに気がついた。肩を掴んで揺らしたせいだろう。
「ちょっと触るぞ……」
そう断ってから、乱れた髪を整えた。京子は見た目など気にしないだろうが、人を呼ぶ前に綺麗にしておいてやりたかった。
髪が整ったのを確認してから、アパートの大家のもとに向かった。
戦争はとうに終わったと思っていた。しかし、原爆の放射線は何年もかけて京子の肉体を蝕み、最後は人知れずこっそりと彼女の命を握り潰した。戦争はまだ終わっていなかったらしい。
生前の京子は足が悪くて散歩に不便があったというのに、アパートの前に捨てられていた犬を拾って飼っていた。それがヘクトーだった。
「ウチはちっこい頃に実家で犬を
そう言っていた当の京子が、ヘクトーより先に逝ってしまった。
無念だっただろう。
京子が死んでから二年半ほどが経ち、現在の次郎は社会人となり、小学校で教師なんぞをさせてもらっている。だが、住まいは大学時代から住み続けているアパートだ。そのアパートにヘクトーも一緒に住んでいる。
飼い主の京子を失ったヘクトーを放置しておけば、餓死するか野良になるかだろう。次郎はそれを憐れに思い、ヘクトーを引き取ったのだ。
さいわいアパートの大家も他の住人も犬好きで、ヘクトーを飼うことに文句は言われなかった。
目的地の河に着いた次郎は、草土手の石段をおりると、ヘクトーと並んで河川敷の砂利道を歩いた。この界隈ではまま大きな河であるから、夜であってもちらほら人の姿がある。水辺には
思えばヘクトーは不幸な犬だ。仔犬のうちに一度は捨てられて、拾われた京子とは死別なのだから。波乱の人生ならぬ犬生である。
いつだったか京子がこんな話をしていた。
「人間の友人なんぞ別にいらん。ヘクトーさえいてくれりゃあええ」
京子のヘクトーに対する愛情は深く、ヘクトーも京子にたいそう懐いていた。気難しい京子がヘクトーにはいつも笑顔を向けて、ヘクトーも京子がそばにいるといつも嬉しそうだった。京子たちは強い絆で結ばれていた。
ところが、京子が突然に死去してしまった。親しい者との別れが辛いのは、犬も同じであるに違いない。
ヘクトーは散歩している最中などに、ふいに遠くを見つめることがある。その姿が次郎の目には寂しげに映った。もしかしたら、死んだ京子を偲んでいるのかもしれない。
などと考えながら散歩していると、ヘクトーがいたく不憫に思えてきた。ヘクトーになにかしてやりたい。
次郎は足もとのヘクトーに目をやった。
「あとで一緒に
盆前に実家の母が饅頭の詰め合わせを送ってきた。珍しく上等品だ。犬には贅沢な
喜んでくれるとよい。
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