野暮というもの
次郎は翌晩もヘクトーを連れて河に向かった。
少し前を歩くヘクトーの巻いた尻尾が左右に揺れている。それをぼんやり見ていると、ふと大学時代のことを思いだした。
京子がこう言ったときのことだ。
「人間の友人なんぞ別にいらん。ヘクトーさえいてくれりゃあええ」
それを聞いた当時の次郎は軽くぼやいた。
「お前なあ、人間の俺の前でそういうことを言うか?」
「あんたは人間ちゅうより犬じゃ」
「いや、堂々と
「犬はこの足を馬鹿にしたりせん。嘘をついたりもせん。それはあんたも同じゃ。じゃけぇ、あんたは人間ちゅうより犬じゃ」
「どういう理屈だ、それは……」
次郎が呆れ気味に呟くと、京子は穏やかに笑っていた。
やがて次郎はいつもの河に着いた。草土手から河川敷におりて、砂利道に歩を進めていく。しかし、人っ子一人いないうえに、見あげた月がやけに大きくて赤い。これは出そうだと訝しんでいると、案の定、砂利道の横にある草土手に京子が座っていた。
「今日も出たな」
次郎のその声に反応して、京子が仏頂面でこちらを見た。ヘクトーが、わん、と一吠えすると、京子の仏頂面が少し柔らかくなった。
次郎が京子に近づいていって隣に腰をおろすと、ヘクトーは次郎と京子の間を陣取って寝そべった。今夜は次郎と京子のふたりに甘えている。現飼い主と元飼い主に擦り寄って、二者の愛情を総取りする魂胆らしい。世渡り上手な犬である。
「今夜もぶち暑いの」
京子は次郎をちらりと見てから話をついだ。
「陽が落ちても、えろう蒸しとる」
「夏の盛りだからな」
言ってから次郎は思った。
「死者も暑さを感じるのだな」
「実は感じとらん。言うてみただけじゃ」
「は? なんだそりゃ」
「なんとなしに暑いと言うてみとうなった。生きとったときの癖みたいなもんかね。許してつかぁさい」
「まあ、別に構わんが……」
「じゃがな、秋が好きなんは今も変わっとらんよ。死んで暑さは感じのうなっても、秋の美しさはちゃんとわかるけぇな」
四季のうちで秋が一番好きであると、生前の京子が話していた覚えがある。赤や黄に染まった樹々の紅葉の美しさが、秋を最も好いている理由らしかった。
暑さは感じるものだが、紅葉は視認するものだ。死んだ今でも、その美しさはわかるということだろう。
ただ、次郎にとっては、どうでもいい話だ。これといって紅葉に思い入れはなく、そもそも季節の話自体に興味がない。「それよりお前」と話題を変えた。
「昨日はなぜ急に消えたんだ?」
昨晩の京子はヘクトーと走りまわったあと、唐突にするすると透けていき、最後は完全に消えてしまったのである。河川敷のどこをさがしても京子は見あたらなかった。そうやっていきなり消えたがために、次郎は京子にあの言葉を言いそびれた。
お前、本当に足が速かったんだな。たいしたもんだ。
「あまり
「そうか、死者も疲れるのか。……いや、それも生きていたときの癖で言っているのか?」
「疲れるっちゅうのはほんまのことじゃ。癖で言うとらん」
「そこは本当なのか。ややこしいな。……あ、そうだ」
ここで次郎はふと思いだした。紙に包んだ饅頭を京子に差しだしてやる。
「これ、食うか? 実家から送られてきた饅頭なんだがな、なかなか
「悪いの、死者はこの世のもんを食えんのじゃ。あの世の道理に反する行為じゃ。代わりにちゅうのもあれじゃが、ヘクトーに食わせてやってくれんかね」
「ヘクトーにはもう食わせてやった」
次郎はそう告げながら饅頭を引っこめた。
「旨そうに食っていたぞ」
「ほうか、ありがとうの」
京子はヘクトーの頭を撫ぜた。
「えかったなヘクトー。あんたは
ヘクトーは尻尾をぱたぱたと左右に振った。
それから京子はまた次郎に目をやった。
「ほういやあんた、ヘクトーの名前の由来を知っとったか?」
「いや、知らんな」
「夏目漱石の
「変な名だと思っていたが、そういう由来があったんだな。漱石信者のお前らしいことだ」
「漱石はウチの心の師じゃ」
「お前みたいな偏屈に師とあおがれたら、さすがの漱石大先生も困るだろうな」
「ウチのどこが偏屈じゃ」
京子は心外だといわんばかりの顔をしたが、すぐにその顔を改まったものにした。
それから「ほいで今日はよ」と続けた。
「あんたに別れを告げにきたんで。ちいと急じゃが、これでさよならじゃ。明日からはもうここには化けて出ん」
いきなりの話で次郎は驚いた。
「どうしてもう出ないんだ?」
「死者がこの世にこれるんは、一回の盆だけと決まっとる。つまり、ウチが化けて出れるんは今回の盆だけじゃ。貴重な盆じゃから、ここにばっかしはゆっくりしておれん。実家のほうにも顔をだしてやらんとな」
「なるほど、そういう事情があるのか。実家にはちゃんと顔をださんとな……けど、お前のその話だとあれだな、来年の盆はもう化けて出ないってことだな」
「出んよ。今も言うたじゃろ、死者がこの世にこれるんは一回の盆だけじゃ。成仏しとらん悪いのは、盆もなんも関係なく何回も出よるが、ウチはおかげさまで成仏しとる。じゃけぇ、化けて出るのは今回の盆だけじゃ」
「そうか……」
次郎は寂しさを隠して、明るい調子で続けた。
「実家のほうに顔をだすのなら、親御さんによろしく伝えといてくれ。お前が死んでから何年も経つというのに、未だに年賀状や暑中見舞いを寄越してくれるんだ」
「ほうか。伝えとく」
頷いた京子はするすると透けはじめていた。
「もういくのか?」
「いくじゃ」
「本当に急だな」
「悪いの」
ヘクトーがむくっと立ちあがって、どんどん透けていく京子に一吠した。京子はヘクトーの頭を撫ぜながら次郎を見た。
「去る前に一つだけあんたに言うとうことがある」
「なんだ?」
「ウチはあんたがわりと好きじゃったんよ」
それは友人としてか、それとも別の意味でか。だが、それを問うのは野暮というものだろう。代わりに昨晩言いそびれたことを伝えておく。
「そういやお前、本当に足が速かったんだな。たいしたもんだ」
京子は嬉しげに目を細めると、その表情のまま次郎に告げた。
「ヘクトーを頼んだけぇね」
「ああ、わかった」
それから、最後の最後に京子はこう言い残して完全に消えた。
「あんたは長生きしんさいよ」
月を仰ぎ見てみると、大きくも赤くもなかった。今しがたまで誰もいなかった河川敷の砂利道に、人影がちらほらと認められた。
昨日は京子が消えてしまっても、ヘクトーはさして
次郎はヘクトーの頭を撫ぜた。夜風を受けた髭が
今夜も河の浅瀬に一羽の
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