京子の自慢
盆の二日目である。
昨晩は満月のようで微々欠けていたが、今夜は真円の満月である。
次郎は今夜もヘクトーを連れて、いつもの河に足を運んでいた。草土手の石段をおりて、河川敷の砂利道に歩を進める。だが、すぐに違和感を覚えて足を止めた。陽が完全に落ちた夜とはいえ、人がこうもいないのは不自然だ。
なにげに見あげた月もおかしい。いつもより大きくて赤いのである。
なにか起こりそうだ。
月を見あげながらそう考えていると、ふいに背後から声をかけられた。
「次郎」
振り返ると同時に次郎は彼女を見つけた。だが、それはあまりにもおかしなことで、彼女がここにいるなんて絶対にあり得ないのだ。
あり得ないことだというのに、確かに彼女が、杖を手にしてそこに立っている。
不自由な右足をかばうように、持ち手部分が
ヘクトーも彼女に気づいて、興奮した様子で飛びついた。尻尾をぶんぶん振りまわして、すこぶる嬉しそうである。彼女は悪くないほうの左足を折って膝を砂利道につけると、杖を横に置いてヘクトーの顔を撫ぜまわした。
「ヘクトー、久しぶりじゃ」
笑顔でヘクトーに話しかけ、それから彼女は次郎に目を向けた。
「あんたがヘクトーを引き取ってくれたんじゃな。ならば安心で」
そこにいたのは京子だった。
死んだはずの京子が目の前にいる。普通に考えれば化けて出てきたのだから、悲鳴をあげて一目散に逃げすところだ。しかし、次郎は恐怖をこれっぽちも覚えずに、呆れる気持ちばかりが募った。
「お前は本当にけったいな奴だな。死んだくせになぜここにいる?」
「なしてって、今は盆じゃろ?」
当然のように言われて、次郎は妙に納得した。
「なるほど、盆か……」
盆はこの世に死者が戻ってくる期間である。
「それに、あんたに見したいもんもあったけぇな」
「見せたいもの?」
京子はそれに答えぬまま、
「ところで、あんた」
顎をしゃくって夜空を示した。
「月があがいなときは気ぃつけよ。死者が
次郎は青白い手に足首を掴まれて、水中に引き摺りこまれる自分を想像した。首筋がぞわりとした。
「それは恐ろしいな。今後は気をつける」
「ああ、そうしんさい」
京子は満足そうに頷いた。
それから次郎は、京子とたわいもない話で盛りあがった。
砂利道の横にある草土手に京子と並んで座ると、硬い草が尻に刺さってちくちくした。京子の
雑談はしばらくのあいだ続き、次郎は話の流れで近況報告もした。
「大学はなんとか無事に卒業できたんだ。今は小学校で働いている」
「もしかして、先生さんかね?」
「一応はそういうことになるな。けど、子供の相手はなかなかむずかしくてな、授業の仕方や接し方で悩んでばかりだ。これでいいのかといつも思っているよ。こんな頼りのない先生に受け持たれて、生徒たちの将来は大丈夫なのかと、本気で心配になったりもしているんだ」
「そがいに心配しなさんな。あんたはちゃんとした人じゃ。ちゃんとしたあんたに教えてもろうた子たちは、みんなちゃんとした大人になりんさるよ。自信を持ちんさい」
京子はそう言いながら、すっくと立ちあがった。杖を使わずに、右足でしっかりと踏ん張って立ちあがったのだった。
次郎は京子を見あげて呟いた。
「お前、その足……」
京子は次郎を見おろしながら、尻についた雑草を手で払った。
それから、
「次郎、よう見ときんさい」
涼しい目でそう言った直後、いきなり地を蹴って駆けだした。驚く次郎をその場に残して、河川敷の砂利道を突っ走っていく。右足に不自由のあるはずの京子が、自分の足で力強く走っているのである。
ヘクトーも京子から少し遅れて、
京子はある程度のところまで走っていくと、唐突にくるっとこちら側に方向転換した。ヘクトーも同じように方向転換する。一人と一匹はまた並走しながら、次郎のいるところまで戻ってきた。戻ってくるさいにも、ヘクトーは一度だけ嬉しげに吠えた。
京子は息を切らして肩を上下させていた。ヘクトーも舌をだして、はっ、はっ、と激しく息をしている。
次郎は芝生に座ったまま、京子の右足を見て尋ねた。
「お前、なぜ走れるんだ? 足が動くようになったのか?」
京子は「ほうじゃ」と応じながら、右足を自慢げに曲げ伸ばしした。
「死ぬと身体が
「だったら杖はいらないだろう。どうして持ってる?」
「
「くだらんことを……」
「そう
次郎をうまく騙せたからか、京子は満足そうな顔である。
「ほいで、どうじゃった?」
「ん? どうとは?」
首を傾げて問い返すと、京子は白けた顔をした。
「つまらん奴じゃ……」
ため息混じりに呟いた京子は、また地を蹴っていきなり駆けだした。ヘクトーも京子のあとを追って走っていく。あっちに全力疾走したり、こっちに走り抜けたり。河川敷の砂利道ばかりでなく、草土手を駆けあがったりもした。京子と並走するヘクトーが、何度か嬉しげに吠えた。
あいつはなにがしたいんだ……。
京子はヘクトーを率いて、砂利道や草土手を走り続けている。次郎はその姿をぼんやり眺めていた。すると、ずっと前に聞いた言葉が、耳の奥によみがえってきた。
「ちっこい頃のウチはお転婆じゃった。こうなる前は足がぶち速かったんで」
次郎はようやく得心した。
なるほど、そういうことか。
さっき京子は次郎に見せたいものがあると言っていた。きっとそれはこれのことだ。自分の俊足を証明しいがために、京子はあちこちを走りまわっているのだろう。まったく子供みたいな奴である。
しかしまあ、と次郎は思う。
せっかくだから、あとで言ってやろう。
お前、本当に足が速かったんだな。たいしたもんだ。
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