喪失の彼方に

 緊急セーフモードから起きると、部屋には誰もいなくなっていた。

 身を起こして状況を確認する。機能停止時間は一時間十八分二秒。現在地の座標は機能停止前と変わらない、組事務所の二階。私のデータを消去しようとしたらしい若衆がリセットボタンを適当に押したせいで、今まで眠っていたらしい。

 残念だが、私の記憶メモリはリセットボタンを押した上で専用デバイスに繋ぎ、パスワードを入力しなければ消去することはできない。そしてそのパスワードは持ち主であるメロしか知らない。彼女もそれを覚えているかは怪しいが。

 見張りがいないのを良いことに部屋を出る。おかしい。私をスクラップにすると息巻いていた男も、それ以外の人間の姿も感知できなかった。

 何があったのか演算装置が考えあぐねていると、上階から激しい銃声が轟いた。それは機関銃のような物々しい掃射音だった。三階には組長室しかないはず。

「何が――」

 急いで階段を上がる。人間みたいに胸が騒ぐ気がした。

 開け放たれた組長室の扉の向こうには、惨憺たる光景が広がっていた。

 本棚の前には大きな血溜まりができ、その中心で横たわるボロきれのようになった男が、幼い口調で中空に問いかける。

「いた、い……ねえ……おか、あさん……どこ――」

 それだけ言って彼は事切れた。その濁った瞳を見つめ、私は嫌な予感がした。

 ピンク髪を散らして倒れているメロを見つけ、慌てて駆け寄る。

「メロ、メロ、起きてください」

 顔に飛んだボスの血飛沫を拭う。うたた寝でもしていたような浅い眠りから覚めて、彼女は私を見上げた。が、いつもと様子が違う。目の前の私に、何の感情も浮かんでいないようだった。

「あ、う」

 赤子のように無垢な瞳を瞬いて、私に問いかける。

「あた、し……だあれ……あなた、だあれ」

 それだけですべてを理解した。ああ、そうか。メロは何もかも忘れてしまったのだ。これまで生きて、触れてきたことのすべてを。思い出と引き換えに、ボスの記憶を全消しオールデリートしたのだ。

 生死をかけた勝負に、メロは勝った。生き残った。でも、その代償はあまりにも大きい。

 彼女の腕に刻まれた文字が目に入り、演算装置が揺らぐような気持ちがした。不思議だ。私は人間じゃないはずなのに。

「怖くないですよ、安心して下さい、メロ」

 不安そうに歩み出そうとするメロを優しく抱いて、耳元に囁いた。不意に抱き留められ、無色の彼女は肩を怯えに震わせる。

 もっとこうしてあげたらよかった。いつか消えてしまうと分かっていたのに。

「あなたの名前はメロ。今はちょっと、混乱しているのです。きっと」

 でも大丈夫。私はこれからもずっとそばにいる。失った記憶は二度と取り戻せないけれど、もう一度紡いでいくことはできるはずだ。

 機械の指でそっとショッキングピンクの髪を梳いた。

 何度でも、何度失っても、私は初めましてを言う準備はできている。


「私はティタン社製・対話型認知症患者介助用アンドロイド、製品名『Mnemosyne《ムネーモシュネー》』――あなたの、友達です」

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忘却少女メルティ・メロ 月見 夕 @tsukimi0518

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