落とし物<メル編>

鐘古こよみ

落とし物<メル編>

 人は何故、モノを落とすのか。


 人生において一度も落としモノをしたことがない、はたまたモノを落としたことがないという人間など、余程の短命でなければ存在しないだろう。

 では、人は何故、それほどまでにモノを落とすのか。

 その無意識の行為もしくは過失に、人間存在に不可欠なある種の社会的プロセスが内在しているのではないかと、私は考える。


 結論から言ってしまえば、そのプロセスとは「心的成長」である。

 幼児期から児童期、そして児童期から青少年期における身体の熟成過程に伴う心的成長が、「落としモノ」という行為によって、端的に示されるのではないだろうか。


 また、「落としモノによる成長」というモティーフは、よほど極端な環境に置かれない限り、社会や文化を通して幼児へ自然に刷り込まれるものだと、私は考える。

 例えば、寝物語として聞かせる童話・民話・童謡などには、そうしたモティーフが随所に散見される。これは国や人種を問わない普遍的事実だと予想されるが、確実なデータがまだ存在しないため、ここでは論を進めるための仮説として取り扱う。


 具体例を見ていこう。

 まずは共通認識を形成するため、「落とす」という行為が物語の核として存在するか、展開のための重要なファクターとなる物語を、いくつか提示しておく。


・ピーターパン……影を落とす。

・おむすびころりん……おむすびを落とす。

・シンデレラ……ガラスの靴を落とす。


 この他にも多数、誰もが幼い頃に見聞きしたであろう有名な物語に、落とし物のモティーフは存在している。

 では、こうした「落とし物」とは、何を意味しているのか。

 先に述べたように、私はこの問いに対して、「心的成長」という答えを見出している。この見解について、さらに具体的に述べていく。


 落とし物という行為には、ある種の社会的プロセス=「心的成長」が内在していると、私は以前に述べた。しかし、これは必ずしも本質を捉えた言葉ではない。

 もう少し厳密に言うならば、そこに内在しているのは、「精神的な成長のきっかけ」である。


 再び各地の童話や童謡を引合いに出し、具体例となってもらおう。

 こうした物語では「落とし物」というモティーフが、ともすれば極端なほど教訓めいた使い方をされている場合が多く、大変にわかりやすい。


 その頂点に立つのが、イソップ童話だろう。

 橋の上から水に映る自分の姿に向かって吠え、折角の肉を落としてしまった犬や、狐にだまされて折角のごちそうを落としてしまったカラスの物語は、浅知恵により滑稽な結末を迎える動物達の姿を通して、読者の欲望を戒めさせる力を持つ。

 逆に、有名な「金の斧銀の斧」の話などは、たとえ失敗してもその後の対応で結果が変わってくるのだといった、処世術的な教訓を子供達に伝える。


 マザー・グースの歌にある「ハンプティ・ダンプティ」や「ロンドン橋」なども、こうした教訓めいた意味合いを孕んでいるとは言えまいか。


 教訓ではなく、一種の通過儀礼としてこのモティーフを扱う作品も見られる。

 この度合いが最も強いのは「白雪姫」であると、私は考えている。

 毒リンゴを食べた白雪姫は、死してなお、通りすがりの王子に見初められるほど美しい。ガラスの棺に入れられて従者に運ばれるわけだが、従者の一人がつまずいて棺を落とした(又は落としそうになった)ことにより、その衝撃で喉に詰まっていたリンゴがとれて、姫は息を吹き返す。

 この物語は、原始から各地の部族単位で伝統的に行なわれてきた、成人のための通過儀礼の内容とほぼ符合する。

 こうした儀礼は一般的に、「分離」「移行」「結合」の三段階を経るものであるが、白雪姫はまさに母親から「分離」させられ、毒リンゴで一度殺されることによって子供から大人の段階へ「移行」し、息を吹き返して社会へ再「結合」される――即ち、王子との結婚を遂げるのである。


 他にも「金の鞠」(池に金の鞠を落とす)、「あか太郎」(落とした垢から子供が生まれる)、「王子と乞食」(王子が乞食に身分を落とす)、「青髭」(落とした鍵に血が付く)、最近では「ウォーリーを探せ」(とにかく色々落とす)など、「落とす」というモティーフは枚挙に暇がないほど多くの文学・芸術に起用され、広く人々に愛されている。類例の多さからして、ここに疑問の余地はないものと確信する。


 では、何故「落としモノ」は愛されるのか。

 それは、「落としモノ」という行為が人間形成において不可欠な要素であるという普遍的な事実を、人々が意識・無意識の別無く自然に受け止め、受け入れているという事実の現れではないだろうか。

 「落とす」ことは成長に欠かせない一つのプロセスであり、「落とした」後に人は多かれ少なかれ、必ず何らかの成長を遂げている。それが有用な欠落だからこそ、「落としモノ」は受け入れられ、愛され続けてきたのだと、私は結論づけたい。


 以上の論説を受け、次に論じなければならないのは、そうした過程を経て、既にある程度の成長を遂げた大人達の、年少者に対する態度である。

 大人達、特に教育を授ける立場の学校関係者全ては、この件に関し、特に留意する必要があると強く主張したい。

 心的成長に不可欠な「落とす」権利を生徒達に認めた上で、次に進むべき道を指し示してやることこそが、教育者に求められる本当の資質ではないだろうか。


 具体例を挙げると、生徒が一つや二つ単位を「落とした」からといって、直ちに卒業資格をはく奪するような行為は、これまでの論を踏まえると、本当に正しいとは言えないのではないか。

 生徒達は各々、バラエティ豊かな成長過程を謳歌する権利を有している。

 大学卒業を目前に控え、最後の最後で単位を落とすなどという強烈な通過儀礼を遂げた生徒には、その勇気を称えるくらいの心意気が、逆にあっていいのではないか。


 人生の教訓を自ら体験し、通過した若者の行く末には、それこそ童話のお姫様を彷彿とさせるハッピーエンドが相応しい。そう学習させたのは社会と文化なのであるからして、突然はしごを外すような扱いは詐欺である。

 心身の成長過程にある生徒の「落とす」と、成熟した大人である教授の「落とす」では、意味合いがまるで違うのである。

 たった一つ単位を「落とした」という理由で、就職先も決まっている私が卒業できないというのは、社会的暴力ではないだろうか。

 先生、後生ですから、考え直してください。



<了>

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