事故物件

飛鴻

第1話

転勤が決まった。

大学を卒業して就職した大手金融企業の営業部に勤めること20年。実に8度目の転勤だ。

建前上、周りの人間からは、今回の転勤は勤続20年記念の係長昇進を兼ねた栄転と言われている。しかし実際のところ、都合のよい理屈をくっつけた左遷という方が正しい。

別に営業成績が悪いわけではなかった。どちらかと言えば営業成績は上位の方で、年に数回開かれる社内コンテストで優勝したこともある。

今回の左遷の理由、そして今まで7回の転勤の理由、それはズバリ、私の見た目が原因だった…。


私のアダ名はゴリライモ。

もちろん社内の誰も面と向かってそう呼ぶ人間はいなかったが、陰で皆にそう呼ばれていた。

子供の頃から背が高かったが、そのくせ足は極端に短く、逆に手は地面に着きそうなほど長い。大柄で筋肉質だった体は年齢とともに毛深くなり、今では朝しっかりシェービングしても夕方にはモミアゲと顎髭が繋がってしまう有り様…それなのに口髭は生えて来ない。おまけに鼻の下が異様に長い上、大きな口は前に突きだしていた。

どっからどう見ても、誰が見ても、自分で見てもゴリラにしか見えなかった…。

私は物心ついた頃から「きっと神様は、ゴリラの赤ちゃんとして生まれるはずだった私を、間違って人間の赤ちゃんとして母の胎内に授けてしまったのだ」と、自分に言い聞かせてきた。

そう信じなければ、生きて行けなかった…


私は、そんな容姿のせいで幼い頃からイジメられ、青春時代も孤独に過ごし、社会に出てからも女性はおろか男の友達すらできなかった。

社内では、

「成績いいのは、おそらくお客さんがあの人の見た目が恐くて契約しちゃうからだよ」

とか、

「毎朝あのゴリラ顔を見るだけでモチベーション下がる」

とか、

「あいつに近付くと雨に濡れた野良犬みたいな臭いがする」

とか、陰口を叩かれていた。

転勤の度に新天地が平和であることを願ったが、その願い空しく、行く先々でどこも結果は同じだった…。



東京発青森行きの東北新幹線の席に座り、大きな花束を片手に抱え、窓の外で手を振る上司や同僚に向けて精一杯の作り笑顔で手を振り返す。

ご丁寧にも『高橋君、仙台支社栄転おめでとう!』という横断幕まで掲げられていた。

私は何度も頭を下げ、声を出さず口の動きだけで「お世話になりました」「ありがとうございました」を繰り返した。

中には涙を流している女性社員もいたが、それは別れを惜しむ悲しい涙じゃなく嬉し涙なことは百も承知だった…。

やがて、ゆっくり静かに新幹線が動き出す。

これでやっと下手な芝居を終えられると、私はホッとした。

窓の外の同僚達のバンザイは、まるで、太古の村人達が力を合わせて魔物を追い払ったような、それはそれは大層な喜びようだった…。


仙台駅で下車し、花束はホームのゴミ箱に捨てた。

ただでさえ大荷物だったし、そもそもそんな形式だけの心のこもってない花束なんて持っていたくなかったからだ。

仙台駅を出て、地図を頼りに徒歩5分ほどの場所にあるビジネスホテルにチェックインする。

「今日から予約入れてる高橋ですが…」

フロントで受付をしてくれた女性は、私を見ると、少し驚いた表情のあと明らさまに怪訝そうな顔をした。

「高橋様でございますね、承っております。本日から二週間の宿泊でよろしかったですね?」

「はい」

「それではこちらのチェックインシートの方にご記入をお願い致します」

渡された用紙に記入をしてる間、それを遠巻きに見ていた他のスタッフたちは、何やら耳打ちをしながらヒソヒソ話をしていた。話の内容は聞こえて来なかったが、どうせ私の容姿のことを言っているのは予想がついた。

今まで、どこに行っても必ずと言っていいほど同じ光景を目にしてきた。

コンビニでも、ファミレスでも、私を初めて見た人の行動は、決まって同じなのだ。

「これで良いですか?」

記入を済ませて用紙を返す。

「ご記入ありがとうございます、こちらで結構です。お部屋は5階の511号室になりますので、そちらのエレベーターで5階にお上がりください。こちらがお部屋のカードキーになりますが、ドアはオートロックですので、外出の際は忘れずにお持ちいただくようご注意ください」

「わかりました」

「ごゆっくりどうぞ☆」

対応を終えた受付スタッフは、私がエレベーターに乗ったのを見届けるやいなや、すぐさま他のスタッフとクスクス笑いあっていた…。


部屋に入り、荷物を置いて、スーツ姿のままベッドに横になった。

部屋はビジネスホテルらしい狭い空間に、ベッドとテーブルとテレビがあるだけの質素なものだった。

このまま少し眠りたい気分だったが、それほどのんびりもしてられない。

私には、このホテルに滞在する二週間のうちに、やらなければならないミッションがあった。

新居を探すというミッションだ。

これから二週間は特別有休という形で給料は保証されているし、このホテルの滞在費も、引っ越し費用も、新居の家賃の半分なおかつ上限3万円までは会社持ちという、大手企業ならではの待遇はありがたかった。

しかし逆の見方をすれば、二週間以内に即入居可の新居を見付けて引っ越しを済ませなければ、自腹で宿泊を延長するか、野宿をしながら出勤しなければならず、貧乏な私には後者の選択肢しか残されていなかった。

だから、のんびりはしてられない。

電気ポットで湯を沸かして、部屋に用意されていたインスタントコーヒーを飲み、ネクタイだけ外して、私は右も左も分からない仙台の街に繰り出した。

「少し出掛けて来ます」

「行ってらっしゃいませ☆」

一応フロントに一言だけ挨拶をしてホテルを出た。

スマホで近くの不動産屋を検索する。

すると、仙台駅の近くということもあり、思いのほか徒歩数分の圏内に何軒かの不動産屋があることがわかった。

テレビCMで見たことのある大手不動産から、いかにも地元密着型らしい不動産屋まで数件ある中で、とりあえず一番近い所から順に回ってみることした。



最初に訪れたのは、いかにも老舗といった店構えの不動産屋だった。

「ごめんください…部屋を探してるんですが」

「いらっしゃい」

店主と思われる初老の男性は、何かの書類を整理しながら、目を合わせることもなく面倒くさそうに対応してきた。

「そこの椅子に掛けて」

私は店主に促されるまま、椅子に腰掛ける。

「で、どういった物件をお探しで?」

カウンターを挟んで向かい側に座った店主は、この期に及んでも面倒臭いオーラ全開でそう聞いてきた。

「仙台に転勤になったので、できれば会社の近くで、可能な限り安い部屋を…。会社は青葉区なんですが」

「青葉区で安い部屋ねぇ…お客さん、一人暮らし?まさか所帯持ちじゃないよね?」

これもおそらく私の見た目で判断したのだろう、失礼極まりない店主だった。

その後、いくつか物件を紹介されたが、内見に出向くこともせず、私はこの不動産屋をあとにした。良さそうな物件もあるにはあったが、少なくともこんな失礼な店主の世話にはなりたくなかったからだ。


不愉快な気分のまま次の不動産屋に向かうと、そこはテレビCMでもお馴染みの店だった。

さすが大手の不動産屋なだけあって社員教育もしっかりしているのだろう、先程の店主とは比べ物にならない丁寧な対応だった。

「…なるほどですね、できるだけ会社の近くがご希望と」

「ええ。車もないですし、可能なら徒歩15分圏内くらいで見付かるといいなと思っておりまして」

対応してくれた女性スタッフは、クリアファイルに入った何件かの資料を提示してくれた。

「お勤め先から徒歩15分圏内となると、こちらの物件とかですかね…」

一通り資料に目を通してみる。

その間も女性スタッフは、一件一件おすすめポイントなんかを説明してくれた。

しかし、どれも家賃が高い。

会社が上限3万円までで家賃の半分を負担してくれることを考えると、家賃は6万以下に抑えたい。

ところが、青葉区という仙台市の中心部、いわば一等地と呼べるエリアなだけに、小さなワンルームであっても予算をオーバーしてしまう。

私は、資料のコピーだけを頂いて、ここでも内見には出向かずに、次の不動産屋に向かった。


3件目は、寂れた商店街の中にある小さな不動産屋だった。

店内にはお婆さんが一人いるだけで、聞いたところ、先立たれたご主人とここで50年以上も不動産屋を続けてきたらしい。

「青葉区でぇ…、家賃6万円以内でぇ…、風呂とトイレが付いておれば多少古くても構わないんじゃな?」

「はい、そんな物件があれば…」

少し耳の遠いお婆さんは、喋り方も動きもとてもゆっくりだった。

「ここなんかどうかの?…築30年の木造じゃが、中はリフ…リファ…リフォ…何と言ったかの…」

「リフォームですか?」

「そう、それじゃ。だから中はキレイじゃよ☆」

「良さそうですね」

建物の外見なんてどうでも良かった。中はリフォームされてるし、家賃も予算内、今日初めて本気で現場に行って内見してみたいと思える物件だったのだが…

「あぁ!大事なことを忘れとった…」

「大事なこと?」

「ここはペット不可なんじゃ。家主が大の動物嫌いでの…」

「いや、ペットを飼う予定はありませんが」

「おや?お宅ペットじゃろ?」

「…………」

「わしゃ丸っきり時代の流れに着いて行けんでの…最近はゴリラが喋る世の中なんじゃな…時代の流れに取り残されるのも寂しいもんじゃて…早く爺さんに迎えに来てもらわんと…」

どんなに時代が進んでもゴリラが喋ることはありませんよ、なんて説明する気にはなれなかった…。


この日、最後に訪れたのは、一見しただけではそうとは見えないハデな造りの不動産屋だった。

店主も店主で、蛍光色のキャップを後ろ向きに被り、室内なのに大きめのサングラスを掛けた店主は、体でリズムを刻みながらハイテンションなノリで聞いてきた。

「どんな部屋を探してるんだい?ベイベー♪」

「べ…ベイベー?…」

「もっとノリノリで行こうぜ♪ じゃないと仕事なんかやってられないだろ?ベイベー♪」

「青葉区で…6万円以内の物件を探してるんだ…べ、ベイベー…」

店主の勢いに呑まれた私は、仕方なしに無理矢理なノリで答えた。

「その調子だ、ブラザー♪ でも、あいにくだが、青葉区で6万以下の物件なんて、そうそう見付かるもんじゃない、よほど古いか風呂トイレなしって条件でいいなら見付かるかもyo♪」

「やっぱり無理か…わかったよ、ベイベー」

「ちょっと待て、すげぇこと思い出しちまったyo♪ そういえば、青葉区でとっておきの格安物件があったぜ♪」

「格安物件?一体どんな?」

「鉄骨8階建てマンションの7階、2DKで家賃は38000円だ♪ サプライズだろ☆資料を見るかい?」

「オフコース!もちろん見るよ」

資料を見る限り、立地も間取りも申し分ない。添付された内装の写真も、新築マンションかと思える綺麗さとオシャレさだ。

「ヘイ、なぜこんなマンションが格安なんだい?」

「理由はコレさ、ブラザー」

店主は、リビングルームが写された一枚の写真を指差した。

「いわゆる事故物件てやつだ、ユーノゥ?」

「事故物件…」

よくよく写真を見ると、リビングルームの床に、薄っすらと白い線で人影のような形が描かれていた。

「うちの管理物件だったから、警察の現場検証のあとハウスクリーニングが入る前に撮影したんだyo♪ 前の住人は20代の新婚さんで、その白線のところにメッタ刺しにされた旦那さんが倒れてて、奥さんはバスルームで首を吊って自殺してたんだってyo♪」

そんな話を相変わらずのノリで話せる店主の神経を疑った。

「ここで殺人事件があったってことですか…」

「旦那のたった一度の浮気が発覚して、嫉妬に狂った奥さんの無理心中だったみたいだぜ、ベイベー♪ 発見されたのは一ヶ月近く経ってからだったせいで、二人の死体はかなり腐敗が進んでたって噂だ、ジーザス♪」

なんとなく吐き気がしてきた。

「ま、そんな部屋だが格安なのは間違いない、ゆっくり考えてくれよ、ブラザー」

頼んでもいないのに、店主はその物件の資料をコピーして手渡してくれた。

「俺はこれから近くのクラブでDJの仕事がある♪ いわゆる副業ってやつだyo♪ その部屋を内見したいなら明日また来てくれ、サンキューベイベー♪」

そう言い残して、店主は大きなラジカセを肩に担いで出掛けてしまった…。



仕方なく店を出た私は、考え込んでいた。

「38000円てことは自己負担19000円であんなオシャレな部屋か……捨てがたいなぁ…」

残りの不動産屋回りは明日にして、ホテルに戻りがてら夕食と酒が飲める店を探してトボトボと歩いていた。

「でもなぁ、やっぱり事故物件ってのが引っ掛かるよなぁ…幽霊なんて出たら冗談じゃないし…」

あれこれ考えながら歩いていると、JRの高架下に小さな居酒屋を発見した。

近付くにつれ、焼き魚の香ばしい匂いが食欲をそそる。

「また好奇の目で見られるんだろうな…」

と覚悟を決めて、焼き魚の匂いに導かれるようにその店の暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ~」

「いらっしゃいませ~」

店員の元気のいい声に出迎えられる。

「お客様、お一人でよろしかったですか?」

「は、はい、一人です」

「それでしたら、こちらのカウンター席にどうぞ☆」

私は驚いた。そして嬉しかった。

この居酒屋にいる全員、スタッフも客も、誰一人として私を怪訝な目で見る人間がいなかったからだ。

「お客様、うちの店は初めてですよね?」

カウンター越しに話しかけてきた女性スタッフも、嫌な顔ひとつせず笑顔で接してくれる。

「実は東京から転勤で仙台に来て、今日がその初日なんだ」

「まぁ☆じゃあお祝いしなきゃ☆店長ぉ~、カウンター席のお客様に生ビール!」

「はいよ!生ビール!」

注文してもいないのに、私の席に生ビールが運んでこられた。

「はい、これ私からの転勤祝い☆」

「そんな、初めて入ったお店で申し訳ないですよ…」

「いいの、いいの、遠慮しないで☆転勤初日にうちの店に来てくれたんだし、これも何かの縁ってことで☆」

元気で愛想の良いこの女性スタッフの胸元には、マジックで手書きされた『☆すみか☆』というネームプレートがピン止めされていた。

「お客さん、お名前は?私、お客様を『お客様』って呼ぶの嫌いなの、なんかヨソヨソしくて」

「確かにそうだね、私は高橋っていいます。ヨロシクね、すみかちゃん」

「え?やだ!なんで私の名前知ってるの?前にどこかで会った?」

「いや、だって胸元のネームプレートに…」

「あ、そっか…名札つけてるの忘れてた」

久しぶりに心から笑った。

こうして誰かと笑い合うことなんて、記憶にないほど昔のことに思えた。

「高橋さん、いつの間にか私の名札をチェックするなんて、さてはなかなかのプレイボーイだったり?」

「たまたまだよ☆それに仮にプレイボーイになろうと努力しても、悲しいかな、こんな見てくれじゃ…ね。生涯、独身確定だよ…」

「あら、男は見てくれじゃなくて中身だよ☆そーゆー私も独身確定だけど」

「何でさ?すみかちゃんは美人さんじゃないか、男なんていくらでも寄ってくるだろ?」

すみかちゃんは、芸能人でもおかしくないほどの美人で、某アイドルグループの私の推しメンにそっくりだった。

「そーゆーんじゃなくて、私には心に決めた人がいるの☆先にあの世に行っちゃったからさ…」

胸元のネームプレートの名前の横に、亡くなった男性俳優のシールが貼られていることに気がついた。

「三浦春馬くん?」

「そ☆子供の頃に初めてテレビで見て、一目惚れしちゃってね…☆それからずっとファンだったけど、ちょうど彼氏もいないときに突然ニュース速報で春馬くんが亡くなったって流れて…そのときに決めたの☆春馬くんを心の恋人に生きて行こうって☆」

「そっか…」

「なんか湿っぽくなっちゃったね…気分変えて飲み直そ☆」

その後は、他愛もない話題で盛り上がった。

初めてこの店に来た私を、他の常連客も旧知の仲のように接してくれた。

とても気分の良い時間はアッとゆー間に流れ、気がつけば日付も変わって閉店時間寸前だった。



だいぶ飲み過ぎた私は、千鳥足でホテルまでの道のりを急いだ。

仙台駅の周辺とは言え、こんな夜更けに営業してる店もなく、街灯以外の灯りの消えた薄暗い夜道をとにかく必死に歩き続けた。

すると、少し先にポツンと一軒だけ灯りのついた看板が目に止まった。

看板には『亜久間不動産』という赤い文字が書かれている。

「こんな時間まで営業してる不動産屋があるなんて…」

酔った私は冷静な判断も出来ず、何の躊躇いもなくその不動産屋のドアを開けた。

「いらっしゃい……キヒヒヒ」

青白い顔をした店主の耳は、先が異様にとんがっていた。

狭い店内は一面を白い壁に覆われ、どこの不動産屋にもある物件の間取り図などは一切見当たらない。

床に描かれた見慣れない文字と大きな丸い模様の中心に、ポツンと木の机と椅子があるだけの異様な空間だった。

「まあ、こちらにお座りください…キヒヒ」

店主の向かいに座ると、店主は私に何も聞かず、表紙が古びた革でできた一冊の分厚いファイルを

ドン!

と机の上に置いた。

「あなたにオススメの物件はコチラになります…キヒヒヒヒ」

私は、まるで催眠術にでもかかったかのように、勧められるままファイルを開いた。

そこには、何人もの男性の写真と、その男性の年齢や身長体重といったプロフィールが掲載されていた。

「これは?…私は部屋を探してるんですが…」

「部屋も探してるようですね…でもコチラはそれ以上に今のあなたが求めているものですよ…私はあなたの心の中が手に取るように分かるんですから…キヒヒヒ」

酔いが一気に冷め、額に汗が噴き出す。

それは確かに私が求めているものだった。

二週間以内に引っ越しを済ませなければならないことより、もっと重要で、深刻で、何十年も求め続けているもの……見た目の良さだ。

「だからと言って、こんなものどうすることも出来ないでしょ?あなたは医者ですか?整形手術するにしたって、そんな金も時間も私にはありませんよ…」

「わかってます…だからそんな煩わしいことなどしません…私は医者でもないですし…」

「じゃあ、どうするというんだ?」

「簡単なことです…こちらの契約書にサインを頂くだけで…キヒヒヒ」

店主は、賃体契約書と書かれた一枚の紙切れと、カラスのような黒い羽根で出来たペンを差し出してきた。

「だから、そんな金なんてないって言ってるだろ!」

「お金は必要ありません…」

「え?金は要らないのか?」

「はい、その代わり、あなたの寿命を少しだけ…キヒヒヒヒ」

「寿命?」

「コチラの資料の一番下にある価格の欄に書かれた数字……1は1年を、2は2年を示しています…」

なるほど、言われた通り、男性のプロフィールの一番下には価格という欄があり、それぞれ数字が記載されている。

「じゃあ、この5の男性なら、寿命5年分ということか…」

「いかにも……それに、この空間に足を踏み入れてしまった以上、契約を頂かないと後ろのドアは永遠に現れません…キヒヒヒヒ」

「なんだって?」

振り向くと、さっき入ってきたはずのドアは消え、白い壁があるだけだった。

額に噴き出していた汗は、今や全身に噴き出し、下着もシャツもぐっしょり濡れていた。

店主の言ってることは、にわかに信じがたい話ではあったが、こうなってしまった以上、さっさと契約書にサインをして、一刻も早くこの場から逃げ出したい気分だった。

とりあえず価格1の男性を選んで契約書にサインをした。

慌てていた私は、この時点では、契約書の書面が『賃貸契約』ではなく『賃体契約』になっていることに気付かなかった。

「ありがとうございます…あなたの寿命を1年いただきました……また何かお望みがあれば、いつでもお越しください……キヒヒヒ」

後ろを振り返ると、白い壁に再びドアが出現していた。

やっとこの異様な空間から解放される安心感と、緊張が解けた私は全身の力が抜け、そのまま気を失った…。




気がついたのはホテルの自室だった。

時計を見るとお昼を15分ほど回っていた。

あの怪しい不動産屋からホテルまでどうやって帰って来たのか、さっぱり記憶がない。

シャワーを浴びるべく立ち上がると、頭が割れるようにズキズキ痛んだ。

熱いシャワーを浴び、シャンプーをして、洗顔をすると、いくらか気分はスッキリした。

次にシェービングをしようと洗面台の鏡を見たときだ、

「うわぁ~ッッ!」

思わず大声を出してしまった私は、バスタブに尻もちをつくほど驚いた。

あらためて鏡を見ると、やはりそこには見知らぬ男が映っていた。

「だ、誰だ…こいつ…。いや待てよ…こいつどっかで見覚えが…」

ズキズキする頭でしばらく考え込んだ。

出しっぱなしのシャワーの音だけが浴室内に響いていた。

そして思い出した。

「こいつ…昨日のファイルの中で見たやつだ…しかも、確か私が契約したのは…」

両手で顔をなぞってみると、鏡の中の男も同じように顔をなぞる。

「これは…私なのか?…」

さらに、鏡に映る顔にも手にも、うんざりするほど生えていた剛毛が見当たらないことに気付いた。

よくよく全身を見ると、毛がないばかりではなく、体つきまでもが、まるで競泳選手か体操選手のような、引き締まったナイスボディーに変身していた。

「すごい!…すごいぞ!昨日の出来事は夢なんかじゃなく現実だったんだ!」

シャワーを終え部屋に戻ると、不思議なことに、5Lサイズだった服や靴のサイズも今の体にフィットするように変わっていた。

二日酔いで痛む頭のことなどすっかり忘れ、生まれ変わったような気分の私は、身支度を整え、意気揚々と部屋を出た。


「出掛けてきます」

フロントのスタッフに一言告げると、

「高橋様、行ってらっしゃいませ」

と、笑顔で見送ってくれる。

昨日と同じ女性スタッフとは思えない対応だった。そればかりか、見た目が変わったにもかかわらず私を高橋様って呼ぶということは、今のこの見た目を私として認識しているということだ。

試しに、財布の中の運転免許証を確認すると、確かに顔写真も今の顔に変わっていた。

「こりゃ最高だな☆」

私はこの先、過去の忌まわしい見た目を捨て、こんなイケメンとして生きて行けるのかと思うと、宙に浮いてると思えるくらい足取りも軽やかに感じられた。


この日も、昨日回り切れなかった残りの不動産屋を数件見て回った。

結果的に、どこも似通った物件ばかりでイマイチ決め手に欠けるものだった。

昨日と違ったのは不動産屋の女性スタッフの雰囲気で、私と目が合うだけで頬を赤らめ瞳はキラキラ…。今だかつて経験したことない反応だった。

「イケメンてだけで、こうも毎日が変わるものなのか☆」

新居探しも「あの事故物件でいいかな…安いし」と、楽天的な思いが支配しつつあった。


今日も昨日の居酒屋に行こうと思い、仙台駅前の繁華街を歩いていると、さらに驚くべき出来事が起こった。

「そこのイケメンのおじさん☆ちょっといいですか?」

「ん?私のことですか?」

「他にどこにイケメンがいるって言うの?ウケる☆」

人生初の逆ナンだった。

昨日の居酒屋は諦め、小洒落たフレンチレストランでワインを飲みながら食事を済ませた頃には、二人はすっかり意気投合し、どちらかが言い出すまでもなく自然とラブホテルに向かっていた。

人生初のラブホテル、もっと言うと人生初の女性体験だ。

私はそれを悟られないよう、女慣れしたキザな男を演じ続けていた。

ところが…だ。

「どうしたの?元気ないねぇ…」

お口で励んでくれてた女性は、一向に元気にならない私の下半身を見ながら残念そうにそう言った。

「ど、どうしちゃったんだろ?…おかしいなぁ…」

私は焦った。

普段なら、少しでも卑猥なことを想像しただけで元気ビンビンになるのに、よりによってこんな大事な場面で機能しないなんて…。

「きっと疲れてるんだよ、そんな時もあるって☆今夜は諦めるしかないね…」

女性は優しく慰めてくれたが、いそいそと服を着ると、

「今夜はありがと☆またね」

と言って、先に部屋を出て行ってしまった。

部屋に一人取り残された私は、悔しいやら情けないやら…。

私はそのまましばらくホテルの部屋に残り、納得いかない気持ちを払拭すべく、AVを見ながら自己処理を試みたものの、ここでも全く機能しない…。勃たないのだ。

結果的に「この体のせいなのでは?」という答えにたどり着く。どう考えても、それ以外考えられない。

真相を確かめるべく、ホテルを出た私は昨夜の不動産屋を探した。


「おかしいなぁ、確かこの辺りだったと思うんだけど…」

ホテルを出てから、かれこれ2時間以上探し回っているのに、一向に昨夜の亜久間不動産の看板は見付からなかった。

昨夜、居酒屋を出てからホテルに向かう道中にあったはずなのに、実際に歩いても、スマホのマップで検索しても、亜久間不動産は出てこない。道行く人やコンビニの店員に訪ねても、誰もそんな不動産屋は知らないと言う…。

酔っ払ってたとは言え、記憶違いなはずはない。現に、こうしてイケメンに生まれ変わっているのだ。

そうこうしてる間に、気が付けば時計の針は0時を回り、日付が変わっていた。

今日は諦めてホテルに戻ろうとした時だ、遠くにポツンと灯りのついた看板が目についた。

近付くと、亜久間不動産の赤い文字が。

やっぱりあった。昨夜の記憶は夢ではなかったのだ。

ただ一点、不思議だったのは、昨夜のルートから大きく外れた生まれて初めて通る道だったことだ。

一刻も早く真相を確かめたかった私は、そんな細かいことなど気にも留めず、亜久間不動産のドアを開けた。


「いらっしゃい…おや?あなた昨日の…」

青白い顔をした店主は、やはり昨日の人物だった。特徴ある尖った耳は見間違えようがない。

「どうされました?その体、何か気に入らない点でも?…キヒヒヒヒ」

「当たり前だ!見た目は問題ないが、アッチの方が全く役立たずで……まるで事故物件じゃないか!」

私は開口一番そう捲し立てた。

「それは昨日も説明しましたよ?ちゃんと契約書の特記事項にも書いてあります…」

「特記事項?」

店主は、昨夜の契約書の控えを見せてきた。

「ほら、コチラに。いちお説明義務があるので、ちゃんと事故物件であることは説明しましたし、その上であなたは契約書にサインしてるわけで…」

契約書の特記事項には、ひとこと『勃起不全』と書かれていた。

昨夜は酔っていたし、気が動転していたし、早く逃げ出したかったし、正直そんな説明を受けたことも勃起不全を確認したことも、何ならサインした記憶さえ曖昧だった。

「ですから、今になってアノ時に役立たずだと言われましてもねぇ…」

「じゃあ、契約を解除してくれ」

「たった1日で解除してよろしいのですか?賃体契約にはクーリングオフがありませんので、契約の際に頂いた寿命は戻りませんよ?」

「構わん!解除して、別の健全な体をくれ」

「別の体をご所望なのですね…ではまず新しい体を選んでください…キヒヒヒヒ」

昨夜と同じ、分厚いファイルを差し出された。

昨夜と違って、落ち着いてしっかり資料に目を通すと、特記事項の欄に様々なマイナス要因が記載されているではないか…。

昨夜は気付かなかったのだが、寿命1年分や2年分の安い物件のほとんどは、何らかのマイナス要因がくっついている。

今回の勃起不全をはじめ、総入れ歯やイボ痔や強烈なワキガといった肉体的なものから、マザコンやロリコンや極度のドMといった精神的なものまで、イケメンな見た目からは想像しづらいものばかりだ。

そういったマイナス要因のない物件になると、どれもこれも寿命5年とか10年とか、それなりの覚悟が必要な価格になっていた。

「めぼしい物件は見つかりましたか?…キヒヒヒヒ」

私は候補の物件を答えるより先に、資料に目を通しながら脳裏に浮かんだ疑問を店主に聞いてみた。

「その前に、この資料のイケメン達は、そもそもどういった人達なんだ?CGや合成写真には見えないし、実際に日本のどこかに存在してるのか?」

「この方達は、皆、写真の年齢で若くして亡くなった方々ですよ…。病気や事故で亡くなった方も、苦悩の末に自ら…という方もね。そういった方々の肉体だけを再利用してるわけです…キヒヒヒヒ」

「なんだって?」

今日もまた店主の言葉は簡単には受け入れ難い内容だった。

しかし、自分の体に起こった現実を見るかぎり、信じざるを得なかった。

「心配は要りません。仮に、その肉体本来の家族や友人や恋人にバッタリ出会ったとしても、相手にとってあなたはあくまで見知らぬ人、高橋さんなのですよ…」

実際、ホテルの女性スタッフの反応を見ても、見た目が丸っきり変わった私をそれまでの私として認識してる事実を踏まえれば、店主の言う通り、余計な心配は不要なのかも知れない。

既に一度それまでの肉体を捨て、新しい肉体を手にしてしまった私は、このまま今までの見た目とは丸っきり違う自分として生きて行くしかないのだ。

自分の心に踏ん切りがついた私は、あることを閃いた。

「この資料には若くして亡くなった人全員が網羅されてると?」

「さようで。ただし、ここ10年以内のイケメンだけね。肉体にも再利用できる消費期限みたいなものがあるんですよ…キヒヒヒヒ」

その言葉を聞いて、私はさらに資料を細かく検索した。

「…あった。価格は……40年?!」

「おや?そちらにしますか?けっこうお高いですが?…キヒヒ」

「これにする!特記事項に何も書いてないってことは健康な体なんだろ?」

「もちろん、健康な男性ですよ…では、こちらにサインを…キヒヒヒヒ」

私は覚悟を決め、賃体契約書にサインした。




翌日、私は再び変身していた。

理想の見た目を手に入れると、世の中の全てが明るく思えてくる。それまでのネガティブ思考だった自分が嘘のように、考え方までポジティブになるのは不思議だった。

「新居は例の事故物件でいいや。まだ日にちも余裕あるし、契約は明日にして、週末に引っ越しすれば楽勝だな」

と思った私は、ある目的のために、この日はあえて夕方までホテルの自室でのんびり過ごした。

ホテルを出るとき、フロントの女性スタッフたちは全員キャーキャー騒いでいた。

私は、高まる期待と満ち溢れる自信を胸に、あの居酒屋へ向かった。

「いらっしゃいませ~」

「いらっしゃいませ~」

私は、一昨日と同じカウンター席に座った。

「あ☆高橋さん、今日も来てくれたのね☆」

すみかちゃんは相変わらずの可愛い笑顔で迎えてくれる。

「うん。すみかちゃんに会いたくてね」

「もう!お上手なんだから☆」

すみかちゃんは頬を真っ赤にして、恥ずかしそうに注文を聞いてきた。

こりゃイケる!と、自信が確信に変わった。

「今日も生ビールで?」

「うん、ジョッキで」

「お腹も空いてますよね?何にします?何か食べたいもの言ってくれれば☆」

「お腹ペコペコなんだよ。でも今は、食べ物より…すみかちゃんが欲しい」

「高橋さん☆……それ本気?」

「もちろんさ☆ダメかな?」

「ダメだなんて…『三浦春馬くんそっくりな』高橋さんに誘われるなんて夢みたい☆」

そう、私はすみかちゃんを自分だけのものにすべく、三浦春馬の見た目を手に入れたのだ。

40年分の寿命を引き換えにした賭けに、私は見事に勝利した。


それからのカウンター越しの二人の会話は、まさしく恋人同士のそれだった。

私を見つめるすみかちゃんの瞳は、少女マンガのようにキラキラ輝いていた。

そんな二人の空気を察した店長が、粋な計らいをしてくれた。

「すみかちゃん、今日は平日で店もヒマだし、早上がりしていいよ」

「え?いいんですか?ありがとうございます!店長☆ 高橋さん、着替えてくるから待っててね」

すみかちゃんはそう言って、大急ぎでバックヤードに消えて行った。

「すみません、店長…何か気ィ遣わせちゃって」

「それは構わないけど、高橋さん、まさか単なるアソビってわけじゃないよな?」

「本気に決まってるじゃないですか!」

「だったらイイんだ。あの子はウチの看板娘で、俺もあの子が学生の頃から面倒見てきて実の娘のように思ってる。くれぐれも泣かせるようなことはしないでくれよ?」

「大丈夫です、安心してください」

「じゃあ、今日のお代はいい、俺のおごりだ。その分、あの子にハッピーな時間を過ごさせてやってくれ」

「わかりました☆ありがとう、店長☆」


店を出ると、すみかちゃんは私の腕にしがみついてきた。

肩に頬を寄せ、うっとり目を閉じている。

何も言わなくてもすみかちゃんの想いがビンビン伝わり…肘はすみかちゃんのふくよかな胸の膨らみをビンビン感じ…股間はビンビンに硬直していた。

「これだ!私が追い求めてきたのはこれなんだ!これが幸せとゆーやつなんだ!」

私は、心の中で自分史上最高のガッツポーズをしながら、今回は健全な体であることにホッと胸を撫で下ろした。

「すみかちゃん、この後どうする?カラオケでも行く?」

「カラオケで盛り上がるのもいいけど…今日は疲れちゃったし、二人きりでゆっくり休める所の方がいいかな…」

「ふ…二人きりで…」

いやが上にも鼓動は高まり、心臓が口から飛び出しそうに感じる。

無口になった二人の歩みは、自然とホテル街へと向かっていた。

煌めくネオンが近付くのに比例して、鼓動はさらに早まる。

そして、何軒も建ち並ぶラブホテルの、一番手前にあるホテルの前に差しかかったときだ…

「う!………ぐっ……」

突然、胸に激痛が走った。

私は胸を押さえてうずくまる。

「高橋さん?どうしたの?大丈夫?」

「く……だ、大丈……ぐぁ!」

すみかちゃんに心配かけまいと頑張るも、胸の苦しさは激しさを増し、喋ることも出来ず、ついには地べたでのたうち回るほどの痛みに襲われた。

「高橋さん!…高橋さん!」

すみかちゃんは泣き叫んでいた。

何事かと集まった通行人やカップルが、私たち二人を遠巻きに取り囲んでいた。

マトモに呼吸すら出来なくなった私は、とうとう意識が遠退き始める。

ゆっくりと閉じていく瞳が最後に見たのは、人だかりの中に紛れて私を見つめる耳の尖ったあの店主だった…。


「事故物件でガマンしていれば良かったのに……欲張って『残り40年の寿命を全て』使ってしまうんですから……ま、おかげで私は一儲けできましたけど☆…キヒヒヒヒ」



=おしまい=


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事故物件 飛鴻 @kkn0107

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