Keeper:05

 生の蓋然性に唾を吐いた人類は一度、死に瀕した。しかし皆それに気が付かない。それでいいと守人は嘯き衆生に安寧を齎した。では一体、誰が為に鐘は鳴る?

 僕達が棲む世界は余りに脆く儚いというのに、静かに消えて行く季節も選べない。そして彼等には理念がない。識らないのさ。遍く夢に、ヒトに――星に、救済を。


 全て意味など無い。終にすら理念を以て事に臨もうとする者を、一体誰が止める?慈善事業だ。ヒトを捏ねる悪戯プロジェクト・ピトスなどその一端に過ぎない。世界は常に相克にある。

 人類は再現性を学習しなければならない。有限の存在、その内側で成すべき事を。可能が全てを定めてゆくのだ。その例が今回の記述者だよ。我々の邪魔をしながら、碌に責務も果たさず遅々として記述が進まない。奴は下限をだけ用意し逃げ出した。

 怒れ。叫べ。崩壊われわれは到達点を越えてゆく。その為の世界ばしょなのだから。


 溢れた渾沌は収斂した。男の頚にはまた一つ、罪過の枷が重なった。ただ殺す事を責として歩き続ける彼の背は既に憎悪の焔で焼け爛れ、もう誰にも止める術は無い。給餌を待ち口を開け放す病シック・オブ・ワンダーに侵された人々を正そうとするのは果して何処まで愚かな行為だろうか。未だ”魂の所在”を掴めない者が用意した玉座は寒々しく聳えている。

 現実へ戻るべく使者へ連絡を取ろうとしたその時、暗闇が歪んだ。

「さぁ、もう一度だ」

 景色が剝れ落ちる。構造が捻じ曲がってゆく。


 焦げ臭さが充満し何を商っているのか不明な店の連なりが成す街角。シャッターが半分降ろされ床の四方にはゴミが散乱する店内で男は紙片レプリカを眺めていた。

「それで、連中オブザーバーは何と?」

 興味も無さそうに紙片を机に放った男は同行者を見据える。皴の酷いコート、全く整えられてない毛髪。清潔感の欠片もない姿で現れた時には一瞬だけ顔を顰めたが、慣れてしまえばそこは問題ではなかった。それより問題なのは――

「いやぁ、そんなのは分かりませんよ。僕はただの使いですから」

 この態度だ。へらへらとした笑顔を貼り付け、男を煽る口上で言い逃れをする。作った態度だが、それを道具に有益な情報を全く渡さない様子に男は気怠さと若干の呆れを覚えていた。しかし殺意の距離は互いが熟知している。

「今まで貴方には多くを与えてきました。我々の要求は変わらずただ一つ」

 殺気も怒りも面に一切出さない男を笑顔の下で観察しながら”オルフェ”と名乗った使いが言葉を繋いでゆく。奇妙な静けさの中に、意味が落とされた。

。ただこれだけです」


 陽の射さない通りに目をやれば人が消え、騒めきが耳朶を打つ。

 使いは席を立つと早々に姿を消した。そして二人のいた店もノイズを吐いて建物に呑み込まれ、男は気付けば細い裏路地に佇んでいた。

 軒先にぶら下がり消えかかった看板。堅気ではない者が出入りする料理屋。人々を脅かすのは何時だって隣人の慟哭だ。[  修正済  ]も、[   修正済   ]も此処では一切が薄れてゆく。世界の在り方を思い返して、男はそっと息を吐き出す。

 誰もが知っているのだ。この空間では、昨日を願うなど児戯の様だと。

 行き交う人の顔を眺める者、項垂れて歩む人の背中を追う者。生命の軽さを思えば思うだけ鎌首をもたげたそれは口を開いてゆく。だから、□□は――。

 そう考えるのも束の間、通りの向かいに人影が揺らぎ近付いてきた。やたら屈強な連中が二人、物陰に隠れた男には気付かぬ様子で理髪店の裏口へと入っていく。

 同時に、彼らの背後に僅かに走ったノイズも男は見逃さなかった。


 そっと建物裏へ回り込み木製の扉を押す。錆びた蝶番が泣き明滅する照明。扉横のパイプ椅子には半壊した遺体が蛆虫に憩いを提供するべく腰掛けており、その奥では通路を遮る垂布が手招いている。腐臭。通路先から新鮮な死の芳香が鼻先を掠める。

 足音を消して通路を抜けると、そこには何度も目にした深淵が広がっていた。

「御機嫌よう、カス野郎!」

 高らかに響き渡る女の声は、常人の鼓膜を震わせるには余りに美しい音色だろう。然し感動の逢瀬にあっても互いの距離は空より遠い。邂逅した欠陥品が愛を囁く。

「それで、貴方様は用を終えられたのですか?」

 問答の前に持ち出した蛇腹剣は雄弁に、迸る殺意が口火を切った。火花を散らして曲線を描いた剣身は加わる撓りと共に男へと舌を伸ばす。独特な機構に纏った蒼焔が煌めいて空気を拉げてゆく。声を上げる間も無い速度、振り抜かれる暴力。

 寸分違わず斬り飛ばした筈の対象は、更に後方で

「悪いが、お前の様な乳臭いガキを嬲り殺す趣味は俺には無い」

 男は淡々と言葉を継ぎながら銀色のケースを取り出す。一本だけ残った注射器には粘度の低い漆黒が収まっている。混ざった赫は内で捩れて光を漏らし、目にする者に明らかな不穏を想起させる悍ましさが蠢いていた。眺める彼の表情は窺い知れない。

「だが...丁度良い所に来た。折角だからな、遊んでやろう」

 人類の感情の澱オブセッション、負を練り上げ混ぜ込んだ猛毒。それを手早く頸へと打ち込む男の瞳がゆっくりと変わってゆく。渾沌に染まった眼窩はどろりと溶け、闇が流れ出す。

 肌に浮かんだ黒罅から染み出す深淵は男の周囲へと湧いては形を描いて膨らんだ。穢れた殺意。憎悪、暴虐、嫉妬、淫蕩、嘲笑――数え切れぬほどの、世に溢れる悪。渦巻いた感情どくが思考の大海に消えてゆく。強靭な精神とは理性に溺れた獣の事だ。

 同胞を殺す意志の前で沸騰した感情、醒め切った理性が手段を与えてくれる快感。それを知らず生きる者の、何と稚い事か!だからこそ、彼等は人類を慈しむ。

 風を切る音に紛れて飛んだ剣身を硬化した渾沌が受け止める。弾かれ戻った蒼焔を握り直しながら男を苦々しく見詰める眼。先程とは打って変わり静まった女の顔には物言えぬ思いがハッキリと描かれている。感情の昂りを示して移りゆく、透き通った琥珀の瞳――灼けるような美しさは何処か哀しげに、己も知らぬ愁いを湛えていた。

「少し違えば、お前もにいたのかもしれないな...小さき■■■■■よ」

 決して本人に届かぬ言葉を漏らし、集め伸ばした渾沌の大鎌を掴んだ彼の姿は終を纏う予兆そのもの。黒に空いた眼窩、深淵の外套を覆った顔は影が差し窺えない。

 地を蹴り袈裟に降った剣身を大鎌が軽々弾く。黒の軌跡に蒼の彩色が華開き、甘い接吻も交わせる距離に篤い殺意を綻ばす。散る火花に切り結ぶ姿は円舞の様に。

 転瞬、肉薄して斬り込んだ蛇腹の剣筋を容易く避け、回り込んだ女の背後より飛ぶ渾沌の矢。蒼焔の幕が不愉快な音と共に闇を焼いて獣を形成、大きく吠え上がった。

 小さな舌打ちに歯軋り、そして焦げる肉の悪臭。紛い物の右手が緋に煌めく。

栄光に輝ける手ハンド・オブ・グローリーか。連中は昔から趣味が悪い――」

 言葉を切った男の姿が溶けると同時、直前まで佇んでいた空間が閃光を孕み歪んで爆発する。次の瞬間には緋混じりの蒼焔を吐き出しながら蛇腹が地を穿った。

 人が、灼けている。被造物ヘルマの艶かしい体躯は極彩色の焔に舐められ、その背中には黄金の輝きが踊りをすら始めている。だが、その背負う光彩すらも紛いの証。

 造物主は被造物を愛すだろうか。身を裂き泪する幼子の母にも安寧のあらん事を。

「使者の在り方をも玩ぼうとは、変わらん連中だな...さぁ、悪戯は終幕おわりにしよう」

 渾沌が二人を包み込んで帳へと変わってゆく。己の身を焦がす女を呑み天蓋をすら模った漆黒は今、薄暗い景色を底から塗潰して世界を浚おうとしていた。震える地に浮かんだ男、その手に同調して持ち上げられる漆黒の球ヘルマ。高らかに響く謳いの声。

「凍風亡き宇宙そらは詠わない。旋律は”欠けた者”へ届かない。――だろう、”α”?」

 振る手タクトに大地へ叩き付けられる漆黒、墜ちた調和。美しい舞踏に幕が下ろされた。


 全く面白くない。興醒めだと言う意味だ。この程度の進行、此処に届くまで今回の記述者は一体幾つの時間軸を喰い潰すつもりでいる?たかが作業を一つ終えただけ。

 ”渾沌ケイオス”は形態の一に過ぎない。――”The Void”、当初の識別名から分かるだろう。泥遊びなど人類に於いて大した価値など無いと。我々の手に残る猶予は多くない。

 世界に必要なのは空虚ヴォイドでなく渾沌カオスだ。覚えておけ、再生は崩壊の反対側で始まる。終焉はお前達を待たない。だからこそ、我々がノイマンの備忘録ノイマンズレポートを追うしかない。

 この領域せかいに於いて、世界わたしはアルファであってオメガではないのだ。


 降り頻る雨、響く哄笑。水溜りの中で壊れたラジオは繰り返して告げ続ける。

「 は人生の出来事ではありません。午前十三時をお知らせします」


 吹き抜ける風。地に転がっていた美女は剣身から溢れる蒼光に包まれて消失した。その後、呼ぶ前から現れた使者オルフェ率いる部隊によって表層現実へと引き揚げられ、実に[ No Data ]ぶりの秩序を男は味わう事となった。傍らでは痩身の青年が戦闘糧食を齧りながら遠くに浮かんで漂う建造物を眺めている。彼の身体に傷は見当たらない。

 男が静かに外套の胸元から取り出したのは枝を咥えた鳥が美しい線で描かれた箱。連中にしては皮肉が効いている、と改めて思いながら紙巻煙草を抜き出し火を灯す。吸い始めという最高の瞬間。ジリジリと鳴る先端からは雑味のない濃厚な薫香が口へ流れ込み、彼の内側深くへと浸透していく。だが当然、一般的な嗜好品では無い。

 自我調整鎮静薬エゴ・アマルガムを始めとした”第三研究所”の毒物は、彼自身を形成する上で重要な物質を提供する。戦闘時の感情調整や鎮痛効果も担えるそれは彼の存在がヒトの中に収まる為に必要な物となっていた。オルフェが寄越した先の錠剤も同物質の簡易版。

 彼が普段から自前で用意してちょろまかしている偽造品ではが全く異なる。それは自らを穢す毒性の齎す差異でしか無いが、他者には踏み入る事の出来ない領域の話だ。

 紫煙を吐き出しながら変わらず歪んだ空を眺めていると、補給を終えて暇になった若者が語り掛けてくる。精悍な横顔に嵌る柔和な翠の瞳は何処か虚ろでもあった。

「貴方の仕事は終わったんですか?」

 男が気怠げに吹かした白煙が渦巻いて世界に溶け込んでいく。

「いや、まだだよ。それにお前は聞きたい事があるんじゃないか?」

 互いに交わらない視線、生温い風が二人の間を抜けて汚れた髪を揺らす。一瞬だけ閉じた若者の眼は緩んで優しさを描く。彼のノイズは使者の手で軽減されていた。

「そうですね...?」

 最近の天気を尋ねるような気軽さで放たれた問いはしかし、青年の奥底で固まった何かを氷解させる大切な重みが有った。他者の前には存在証明アイデンティティーは余りに脆い。

「誰でもない。望まれたからただ生まれた、それだけだ。少し難儀ではあるが」

 この腐敗した世界に堕とされたは全員が意義を抱えて産まれた訳ではない。それはこの青年も、そして答えた男自身も例外になく自らの標を喪っていた。

「お前には探すべき物があるだろう。お前が誰であっても、それは変わらない」

 遠くで青年を呼ぶ声が響く。使者の姿と、その背中に集まる部隊員の存在。別れの時は思うより早い。しかし二人は巡る未来――次なる崩壊の予兆を肌で感じていた。

 ほんの僅かな瞬間を共有した存在、置いていく物も多くない方が良いだろう。

「では、達者で」

 ひらひらと適当に振られた手に口端へ笑みを浮かべ、背を向けて歩んでゆく青年。彼を迎えに来た使者が、男へと何かを放って寄越す。――電源の入った黒い通信機。

 去り往く者達を一瞥しながら吸殻を携帯用灰皿に入れ、受信部を耳へと近付ける。流れ出したのは、鼓膜を何度震わせようと決して記憶に残らない音であった。

「久しいな。仕事は確認した、お前は次の行動までに一度検査を受けるべきだな」

 従者オルフェを遣わす主人と言えば聞こえはいいが、彼から見た声の主とは常に頭の片隅へ置いておかねばならない存在でもあった。即ち、味方とは言えない距離。

「やはり”α”か、お前は今だ?」

 一瞬の間。逡巡ではないその空白は緊張を高めるが故に膨らむ間隙でもある。

「どちらでもいいだろう、お前に関わりのない事だよ」

「いや、大いにあるな。自分の目的を達成する為だけに何度も世界おれたちで遊んでいるのは既に気付いている。最早制御をすら失ったか――お前は”Ⅲα”だな?」

 漏れ出す溜息が通信越しにも伝わる。記述は今、本来の価値を取り戻していた。

「そうだ。だが、もうそれは問題ではない...本質に於いて何も変わらんのだからな。我々が罪過を取り戻すのは決定事項だ。お前にはその最終まで成し遂げてもらう」

「ふん。”第三研究所”の連中に言っておけ、今回の味は悪くなかったと」

 外套の胸元へ手を差し入れながら、男は通信機の電源部に掛けた指を沈めた。


 世界の安定。現実主義者も好事家も、脅威を描き続けるのは昔からだ。

 その為に用意された舞台装置も傍らでは隣人への悪意を吐いて現象を掻き混ぜる。素晴らしい事ではないか。人類の栄えある幼年期は未だ終わらないのだから。

 我々は何者でもない。”組織”、”機関”、”連合”...我々とは実に便利な存在だろう?子供心溢れる、好みの名を定義するといい。故に、世界は在るべき姿に捩れてゆく。

 秘匿せよ。我等は収める。万象に潜んだ、愚かなる人類が遺した≪負の遺産アルゴリズム≫を。

 それにしても、私ですら触れられない物が動いたというのか。『必要知』の徹底が有ろうとも横紙破りをする者は出てくる。我々の上位組織、更にその上位存在からの指揮か。”グリム部隊”、腐った過去を喰い漁る怪物。そして我々よりも

 最高位の『紫』を冠する評議会、暗号名コード”遅過ぎた愚者”。あくまで書類上の存在と語られる者の中で、最も曖昧な領域に逃れた集団。これは...再調査の余地ありか。

 渾沌ケイオスは交わる。互いを知らずして集い、悲哀の下にただ殺す。何処までも道具だ。罪過の器か。あれはまだ我々の手にない。今から形を得るのだ――復讐者ヴェンデッタとして。


 もう一本に火を灯す。ゆっくりと口に含んだ紫煙が内側を巡って味を失い、大気へ崩れてゆくのを男はぼんやりと眺めている。灰の白霧も、今は心なしか澄んでいた。

「...”星の覇権”、か」

 溶け出す白煙と共に霞んだ言葉が含む、不思議な音色。気付かぬ内に溢れる微笑。

 何処か遠い、知り得ぬ場所で拡がる世界。少女達の争いも、宇宙を駆ける配達人も彼には関係のない話。現に微睡む青年も、絶望をすら超えてゆく若者もきっと此処に無い、彼には視えぬ物を自らの手で描いては掴んでゆくのだろう。だが、それは――

「思うより、良いものだな」

――彼が識り得ぬが故に輝いて、遥かに在って美しい。


 私は知っている。貴方が...それでも歩み続ける事を。

 男の後ろに浮かぶ少女は、その大きな背中に身を寄せ肩をそっと抱きしめる。昏い渾沌、静謐なる大海へと流れ込んだ彼女は今、たった独りで彼の隣に存在していた。

 限りない慈愛。存在理由レゾンデートルを喪いながらも彼は、彼女は終へと臨むしか無い。


 一度だけでも、それが最後でも。どうか、私と――

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Graveyard @seas0

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