Keeper:04

 狂うほどの妄執。総てを理解した今、畏れる物は無い。凡ゆるは一に在って宙へと續いていて、稀薄な泡が私達を包んでいる。限りない背反の中にヒトが喪ったもの。

 貴方の胸を焼く不思議な炎はきっと、凍る事のない終りの声。私の中に流れてゆく昏い世界へと混ざった貴方が独りで咽び泣いているのを、私は見ているしかない。

 さぁ、終わらせはじめましょう。幼子の祈りなど、明日の血にはならないのだから。


 大きく撓んだ視界が罅割れ漆黒に産まれる。静謐へ雪崩れ込んだ現実が顕現する。

 今一度辿り着いた闇の底で男は眼を醒ました。足元は変わらずどろりとした渾沌で満たされており、遠くでは建築物の残骸に似た何かが漂っては消えてゆく。今際にて誰かが霧の先へ強請った風景は、余りにも安易に創造されてしまった。

 ”渾沌ケイオス”。副産物であった筈のプロジェクト・ピトス――『甕の底』を無邪気にも引っ掻き回そうと試みた研究者が練り上げた、願いに似た紛いの終局。姿を消しては現れ続ける”第三研究所”からのな流出は大海を汚す油として毀れ出た。

 旅人と別れた渡し船、その船団には水先案内人も船頭もない。傷んだ櫂で水を漕ぐ彼らが辿るは星の先。大いなる宙をすら嘲笑う者共、”学術院ローテムの三賢者”。

 ぴちゃり。ぴちゃり。鳴り響く闇、雨が降る。ゆっくりと垂れ流された深淵が形を描いて固まり、底に在った筈の紛いを浚い上げてゆく。そうして現れる少女の姿。

 姿を認めると同時に外套へ手を入れ男が放り出したそれは、上下で分割した部品が自転しながら緑光の線条を吐き出して漆黒に沈んだ。瞬間、線条が闇へ突き刺さる。

 而空固定錨メタ・アンカー。事象を返す波の中に打ち込む道具は、無限遠点の隣に憩いを見出した誰かによって造られた。装置上部では現実羅針プレゼント・コンパスが進むべき贈り先を指し示す。

 線条鎖の光は渾沌を捉えた後、彼らの視界を白色へと塗り替えていった。


 たった一人の、ただ手の温もりを求めただけなのに。それすらも許されないの?

 ただ一つの、ほんの小さな、それすらも、贋物だったと言うの?

 ねぇ、貴方もそうだったのでしょう?それでもなぜ、生きようとするの?

 ...何も信じられないくせに?


 全て贋物だ。この流れる記憶も崩壊した時系列に挿入された偽の映像に過ぎない。それでも男の胸中は、人類の抱える欠陥品かんじょうで埋められていた。溜息を吐き、外套から銀色のケースを取り出す。蓋を開けると注射器が二本収められており、少女へと歩む男の手には白銀を湛えるそれが優しく握られている。対する少女はただ笑顔を浮かべ彼を眺めるだけで、逃げ出す素振りも、抵抗の意思すらも一切見られない。

 柔らかな手付きで首筋へ打ち込まれる液体、少女は自ら零れる双眸の光を踏んだ。


 定量化された感情。贋作として形を得た渾沌。ヒト成らざるを人に造ったが故に、『ものとしてこわす事』という本末転倒が精製された物質。それは軈て”魂”の澪筋をすら探し出す為の呼び水へと変容してしまった。人類の思考や感情――均質化意識の澱コンシャスネス・ドレッグスを抽出し、その上澄みだけを掬った毒物は今、少女をヒトに近い存在へ変えていた。

「貴方はきっと、全てを否定しなければ自我エゴを保てない。だから孤独を好んでいる」

 いつの間にか瞳は正常になり、肢体も成熟し可憐な少女から見違えるような姿へと変化した彼女が男へと語り掛ける。否、最初から果して子供で在ったのか。

「無かった筈の自我どくを抱いて、欲しくもない罪を一人で背負っている」

 微笑を湛えて男の頬へ白い手を伸ばす。指先がそっと荒れ果てた肌を撫ぜてゆく。振り払えばいい、ただそれだけが。彼は確かな苦悩を理由も解らずに覚えていた。

「私は貴方。あなたはわたし。私は私。では、貴方はだあれ?」

 くるりと背を向け踊るような足取りで歩み出し、ふと振り返って柔らかな眼差しで男を見る彼女はまるで未来を慈しんでいる少女そのもの。そして、それを――

「解ってるの。世界に遺った時間は多くない事も。さぁ、終わらせはじめましょう」

――彼は、こわすしかない。


 真理。太極。戯れに創った物で遊ぼうとするのは”第三研究所”の連中の悪い癖だ。だが、それこそが人類の存在理由レゾンデートル。我々の未来なぞ、利益の定義で書き換えられる。破壊を求める者にそれを阻止する者。何処まで行ってもお前の実存はビジネスだよ。

 我々の慈善事業は我々自身との争い。その渾沌カオスにこそ価値がある。

 好奇心旺盛な子供の悪戯で流れ出た甕の中身、それを再び搔き集める為にあの男は描かれた。”Der liebe Gott steckt im Detail”――やはり、人の手でなくては。

 紛い物の悪意に人類ヒトの何たるかを奪わせようなど、古典劇ですらないのだから。


 純化された希求の結晶。白銀の剣が周囲の光をすら寄せ付けぬ輝きで伸びてゆく。彼の手に握られた弱き祈りはゆっくりと少女へと切先を向け、ただ静かに止まった。人類が故の病ヒューマホリック。冬が終わる頃には、止まった時計の針を手折る者もなく。遥か知らぬ誰かが冒した罪過を取り戻す為、拵えた仔へ今一度の祝福を。嗚呼、母よ。鐘の音が近付いている。滄海の極北にて首を垂れ、軈て来る”夜”を厳かに迎えん――

 今のは誰だ?顔を上げると少女が変わらずこちらへと微笑を向けている。頭に降る昏迷を掃い、男は重い一歩を踏み出す。手を伸ばせば触れる距離で、彼らはただ二人永い時を揺蕩っていた。今際をすら愛おしく睦み合う悍ましさは此処には無い。

 其処に在るのは。刹那、白銀の祈りを少女の柔らかな手が包み、深の臓を貫いた。


「あなたは誰?」

 愁いを含んだ瞳。けれど口元には笑みを描いていて。

 微風に抱かれた髪がふわりと舞う。海辺の砂を踏みながら、あなたは答える。

「きっとまだ違う、届かない場所だからね。その時じゃないのさ」

 優しい音色が遠くへ流れてゆく。何故か虚しげなのに、何処か力を感じる横顔には暗い明かりが射しては逃げ出してしまう。冷たく恐ろしい胸の底は、あなたの様な。

「そうだね。でも、違うんだ」

 崩れて消える無責任な事象を追うだけでは、間に合わない事を識っている。

「終わらせなければならない。たった一つのものでもね」


 ごぼり。毀れるのは命であるというのに、少女はそれでも微笑っていた。

 透き通る白い肌に、吹き抜ける黒い罅。溢れる渾沌が剣身に筋を描いて男へ伝う。彼の肩を静かに抱き締めて耳元で弱々しく囁く少女の吐息は、音を届けずとも胸奥に流れ込んでくる。強く寄せては返す温かさと、ほんの少しの冷たさと。

「きっと、わたしは誰にも成らなかった。そうして持たないままに産まれてきた」

 何も為せず、何にも成れない。誰ですらない何か、それですらないもの。

 研究所の一室で眼を醒ました虚しき小人は、終ぞ蟲籠の中から発つ事が無かった。

「わたしは私。形があるのに、名前も無く歩いてきた。だから、教えて欲しいの」

 私は既に知っている。誰にも傷が付かないようにと、貴方が背負った重みを。

 そしてこれから、どれだけ歩けるのだろう。きっと貴方は。

「――あなたの、名前を」

 男を抱いていた小さな身体、その輪郭が崩れ落ちた。


 Α-Ⅸよりヤヌス。テッセラクト麾下SECと交戦、同時に”観察者オブザーバー”を確認。

 想定外の損耗により『懐中時計』を使用、現在移動中。渾沌稼働率は尚も上昇。

 第三研究所の機材が機能不全に。ヤヌスより担当する博士に報告を。

 それと...”グリム部隊”の存在を確認しましたが、指揮権は一体何処から?


 零れた漆黒が粒子となって男の身へと吸い込まれてゆく。人肌ほどに生温かいその感触は幾度でも慣れる事のないものだ。頭の中は醒め切って、大切だった筈の何かを何時かの遠くへと押し流してしまう。もう戻る事も、思い出す事も出来ないように。

 白色が撓んで壊れてゆく。固定錨アンカーは今、存在理由レゾンデートルへと巻き上がる。

 誰か、或いは何か。在り方すら捩じ曲げられた哀れな傀儡に与えられた安らぎが、忘却に再び奪われてゆくのだ。少女が今際に落とした音は男の胸に鳴り続けていた。

 渾沌ケイオスの凪の中、彼は静かに立ち上がった。そうしてそっと絞り出した言葉。


「すまない。俺には――名前が、無いんだ」

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