Keeper:03

 疑うとは信じぬ事だ。大いなる智慧を憎み、服わぬものとして絶望を蹴り、麗しき責務を放棄し表象の内に溺れる者よ。我々が君達の力を引き継ごう。意味をすら奪うその白痴にも歓びあれ。驕れる仔よ。漕ぎ出してゆけ――千年の栄光パノプティコンへ。


 堕ちる。何処までも引き込まれる感覚は一瞬の内に停滞へと変わった。浮遊に似た身軽さから立ち尽くすような無力さへ行っては戻り、気付けば暗闇の中に佇んでいる自分があった。周囲を見渡す。青年の姿も、人工の息吹を感じさせる物もない。

「.........」

 醒め切ってゆく頭。胸にある筈の重み、無い事を既に何度も確認した筈の物を再び探しながら前へ歩み出す。思い返せば、突然の状況でもあの青年は焦る様子を見せていなかった。今この瞬間も生きているだろうか。正直な所、先の戦闘も彼が死んだら無視して先へ行こうと眺めていたが、最後の斬撃は彼一人でも避けていただろう。放っておけばやはり死んではいただろうが。

 しかし――歪な物だ、と男は思う。世界の住人ではないと語るその姿は確かに酷く乱れていた。今にも掻き消えそうなほどに。その冷静な口調には自らを理解している強い意志が滲んでいたが、男にはそれが気の毒な弱さにしか映らなかった。

 その昔、死を視る青年の話を耳にした事があるが、それとは異なるあの在り方。

 あれではまるで、と考えていたその時。人気もない周囲から湿った足音が響いた。前方に目をやると黒の液体がカーテンの様に大きく揺らいでいる。天から潅ぐそれは水源など無く、凝視するのを拒むのが困難な力強さで渾沌を湛えていた。

 これを、俺は識っている。この底の無い暗闇を、俺は――

 ちゃぷ。ちゃぷ。舞台幕の一点、男の背丈よりやや上部に顔が浮かんでいる。白の存在しない漆黒の瞳。それと対称に透き通るような白い肌。視る者の意識を足元から奪い削ってゆく悍ましさがこちらを見下ろす。次の瞬間には、男は剣を握っていた。

 顔が笑みを浮かべる。真顔になり、泣き出しそうな表情に変わる。次には怒りを、再び笑顔と目まぐるしく移ってゆくその顔に男は何も為せない。

                 「æ」                  

 口を開いたそれがゆっくりと沈み、全身を現した。少女、それも幼さを残す子供。だが同時に、伸びた肢体と整った容姿が成熟した印象も与える。否、これは。意識が狂っている、恐らく少女は表情も変えていないのに、視る者に多重認識が襲い来る。

 しかし。これが男でなく青年だったら現実の過剰摂取で今頃死んでいただろう。

                 「ᛗ」                  

 何処か人懐こい笑顔をにこりと浮かべる少女。力の抜けた手で剣を握り直す。

 一歩踏み出して首を刎ねるという簡潔な選択の逡巡、永遠にも感じる時間へ終止符を打つべく足を上げた刹那、黒の幕が巻き上がる。再びの光、世界が破れ千切れた。


 廃墟の砂漠。一言ではそう表せる空間、宙は何処までも昏く太陽は無い。崩壊した建物が連なって地平線を隠していた。高らかに女の声が響き渡る。

「御機嫌よう、カス野郎!」

 少し先にはネフの他に、長身の女と名剥ぎに似た影が複数佇んでいるのが見える。溜息を吐きながら近寄ると女の曲線美とスタイルの良さが際立った。背丈に対しての腰の高さ、引き締まった強靭な筋肉の上を絹で覆った様な肉体美。まるで彫刻に生を与えたかにも映るその姿、目を奪われる美しさだが注意深く見れば違和が存在する。

 その驚異的なプロポーションを支える骨格は明らかに女性のそれではない。そして何より、下着にしか見えぬ布に前掛けだけを引っ掛けた局部には膨らみがあった。

「お久しぶりですわ。未だ私の誘いにも乗って頂けませんのね」

 凄まじい勢いで口調の変わる女が絶世の美女とも呼べるその顔に微笑を浮かべる。指を鳴らし後ろに控えていた影から何かを受け取ると、傍に蹲るネフの頭へ向けた。

「この坊ちゃんは追っていた訳ではないが良く見ると使えそうでねェ、貰っていくとするよ。そんでお前さんはまだ終わってないのかい?」

 嘲笑の意を多分に含んだ言葉も、常人には右脳を突き抜ける甘美な恋文に聴こえるだろう。だが此処にいる存在は皆、殺意で動いている。

「生憎と俺は人語を解する猿には興味がなくてね。で、お前の左にあるのは何だ?」

「あ?」

 訝しげに女が左を向いた瞬間、閃光と共に虚空から飛び出る一つの影。女の後方で控えていた影よりも素早く駆けネフを掴みこちらへと跳び寄ってくる。キッチリとオールバックに整えた頭髪に燕尾服と眼鏡、気品に溢れたその顔は血で汚れていた。

「遅くなりました。いえ、貴方が遅かったのかな」

 聞き慣れた声。女の傍に佇んでいた影は皆、頭を撃ち抜かれて泡に変わっていく。見違えるような姿で飛び込んできた使者が手早くネフの首筋へ注射をしながら言葉を継いでゆく。付近に対応部隊がいるのだろう、景色も書き換えられようとしていた。

「貴方をもう一度だけへお届けします。それが最後です」

 懐から幾つかのケースを取り出して男へ放る。錠剤と装置、それと――

「何をお二人で楽しんでますの?」

 女が指を鳴らすと、背後から影が生え出て固まってゆく。獣の重低音を響かせ形を成して膨れ上がっていくそれは四人を呑み込むほどの球体へと変わり、闇を描く。

 男が錠剤を噛み砕くと同時、意識を取り戻したネフがふらつく脚で立ち上がった。頭の回らない様子ながらも現状を認識した様で、当然の疑問を発した。

「助けて頂き感謝します。で、また質問なんですけどね。何が起きているんです?」

 その視線の先、影を呼んだ人物は透き通る青であった筈の瞳を赫く変え、何処から取り出した蛇腹剣を握り近付いてくる。心なしか下半身にも力が加わっていた。

「汝は我の玩具に過ぎぬ、そうでなければならない」

 オルフェがそっと二人の前に出る。手にした短剣は刃が人の指ほどしかない。

「あれはな、失敗した被造物デザインだ。かつて存在した計画プロジェクトの残滓。紛い物さ」

 ヒトを越える。世界を描く。ヒトを望む。たった一つの単純な願い、それを求め、追い続けるのはいつの時代も変わらないものだ。だが、それこそが人を脅かす。

 三重の智慧、三大の賢者。”第三研究所”の産み堕とした被造物デザイン両性具有者アンドロギュノス

「私を”紛い物”と言うな!僕には名前がある!”ヘルマ”という名前が!」

 それはある一つの計画から始まった。――『原初還元計画プロジェクト・ピトス』。興味本位で失敗作を産み出した人物は愚かにも、を”制御可能”だと考えた。そうしては人の姿を覚え、大いなる外界へと飛び出したのだ。その後、幾つかの存在が枝分かれをした。

「”テッセラクト”。人類を導かんとする大罪人、その集まりだよ」

 大きく振り降ろされた蛇腹剣がうねりと共に風を切る。肉を切り刻まんと正確にコースを描いた筈の剣身が、見えない何かに弾かれては撓んでゆく。

 オルフェの頬に走る一本の筋。しかしそこから流れるべきものが無い。

「時間です。彼は私が預かります。貴方には、罪過を取り戻して頂かなくては」

 使者が懐から銀貨を取り出す。親指で弾いた銀貨は宙を舞って上へと飛んでゆく。女の背後で噴き出す蒼焔、影の獣が飛び掛かる中に使者がそっと吐き出した言葉。

「我々は、きっと気が付かない。ですが、貴方には終えて貰わねば困るのです」

 暗澹を引き裂く輝き、銀貨から降り注ぐ白光が全てを呑み込んだ。


 先の見えない通路、その両脇に並んだ書架の前。三つ揃えの男が一冊の古書を手に佇んでいる。丁寧な所作でそっと棚に戻すと、こちらを見据える。お前の事だよ。

 言った筈だ。『所詮は玩具だが、何事も扱いを変えれば脅威にもなる』と。

 お前達は理解していない。如何な美辞麗句で蔽えど、何処までも傍観者の存在が我々に介入するなど烏滸がましいと。その上、支離滅裂な筋書きで物を動かすとは。今回の記述者は随分と使えないな、[  検閲済  ]も伝わらないのか?

 あの女も大した働きのないまま使い捨て、青年の事も全く説明がないではないか。塵喰いスカベンジャーに近く眩しい世界に生を享ければ、幾らかは価値ある時を通れただろうに。

 それもお前達の選択した記述者が無理な書換と切除を繰り返したからだ。受取った力を悉く踏み倒し責任も覚えずに事を進めようとは、何と傲慢なのか。

 お前達に可能なのは一つだけだ。記述者を止めろ。或いはそうだな、全ての創造を破壊する事に意味が産まれるのかもしれんな。――それこそ、あの青年の様に。

 連中は絶対に惹かれ合う。無知こそが我々の武器。罪過を全て取り戻す、その為に我々は存在する。は知らずして導かれ、悲哀の下にただ殺さねばならない。

 先に見出し、後に求めよ。世界の前後は重要だ。だが、此処では大差無い。

 忘れるな。沈んで消えた多くの夢を。灰の墓地に、我々は今現れた者。



 ――最初の旅人ガリアンデルに弓引く者だ。

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