秘密の挨拶

@tume30

秘密の挨拶

 コールは、恋に落ちていた。

 その感情を恋慕といっていいか定かではない。だが、コールは確かに愛を感じていた。

 感情のない作り物のような女性。名前も知らない。声も知らない。だが、コールは彼女を愛おしく想っていた。

 庭師であるコールは週に二度、マルフ族のお屋敷へと出向いていた。

エルフの中でも身分の低い、言語でしか意志疎通のできないザルフ族であるコールが、エルフの上流階級であるマルフ族の屋敷のお抱え庭師となることは異例といえよう。言語を忌み嫌い捨てたマルフ族にとって、電磁波による会話のできないザルフ族は差別対象である。そんなザルフ族を召し抱えるということは、それだけコールの腕前がいいのだろう。

コールは貧民街の出であり、二十を超えてまもない若年である彼がマルフ族の庭師となることは、一族の誇りともいえる功績だ。

屋敷の者の差別の目は絶えないが、侮蔑はザルフ族として生を授かった時からの定めだ。はじめて得た考えたこともない額の給金を思えば、そんなことはすぐに気にはならなくなった。

 彼女に出会ったのは、お屋敷の庭師に就いてから半月が経ったころだろうか。植物だけでなく、周りに目を向けられる余裕ができると、コールは初めてその女性の存在を目にした。

名も知らぬ女性は窓辺の椅子に腰かけ、口元にだけ笑みを携えている。口を開くことはない。庭の手入れをしている間、彼女はコールのことを見るでもなく、感情のない目でただただ虚空を見つめている。

 糸目の中で密かに輝く緑の瞳、細長い鼻筋、腰まで垂れた白い髪。どれもコールが見慣れたエルフの特徴的なものだが、彼女がそれを持っていると、なにか違って見えた。

美しい。コールは初めて、女性に意識を奪われた。

それからというもの、コールは仕事に出向くのが楽しくなった。向こうがこちらに関心がないことをいいことに、気が付けば、ついつい彼女を見てしまっている。

人形のような美しさを醸し出す彼女を見ているだけで、コールは幸せだった。美術品を見るような感覚だが、コールは恋にも似た感覚を味わった。

屋敷内での侮蔑の目を向けられるのも、気にならないどころか嬉しく思えてきた。侮蔑の目を周りが見せようと、あの女性だけは口の端をわずかに曲げて、こちらに見向きもしない。それが、コールにはたまらなく嬉しいのだ。

ある日、蜂が迷い込んできた。庭師のコールには取るに足らない出来事であり、彼は刺激をしないように行動を控えた。

すると蜂はコールの辺りを舞っていたかと思うと、あの女性の方へと向かって行く。

 考えるよりも先に、コールの体は動いていた。死に至る毒があるでもないが、コールは身を呈して女性と蜂の間に立ち、やたらめったら枝切り鋏を振り回した。

「何をしてるのですかあなたは」

 脳内に言葉が流れる。振り返れば彼女の後方にて、コールに嫌な気持ちを隠さずに接するメイドがいた。気が付けば、庭以外の立ち入りは禁止されているというのに、コールは屋敷内に土足で踏み入っていた。

 幸か不幸か、コールの行動は実を結んだようで、蜂は遠くへと逃げていた。

 コールは無言で頭を下げる。マルフ族に言葉を投げるのは侮辱行為であり、電磁波で会話のできないコールにとっては、言い訳をすることもできないのだ。

 事情を知る女性を一瞥するが、彼女はいつもと変わらず虚空を見つめている。

「菓子が目当てですか、これだからザルフは卑しい。ほら、はやく外に出なさい。汚らわしい」

 メイドは菓子の盛られた皿から一つ菓子を庭に放り、部屋を出て行った。

 善意をこのような形に取られ、コールは虫唾が走った。上流階級は所詮みんなこんなものなのだと、目の前の女性へ隠しきれない憎しみの目を向けた。

だが、美しい。先ほどの感情が、その想いで簡単に上塗りされる。

女性とコールの目線が絡む。

膝の辺りに置かれた女性の手がゆっくりと動き、右手の人差し指が立つ。それにコールの注目が集まると、指はゆっくりと降り曲がる。まるで、お辞儀をするようだ。

 手を元に戻すと、何事もなかったように女性は虚空を見つめ始めた。

助けたお礼のつもりなのだろうか。言葉を吐けばすむ話だというのに、わざわざそのような方法で気持ちを表す彼女を見て、コールは不意に笑みがこぼれた。

感情があるのだという当たり前のことを知り、人形を愛でるようなその感情は、この日を境に完全な女性への愛に変わっていった。

 その日以来、仕事のはじめと終わりの際は毎日彼女のいる窓辺へと行き、目を見て挨拶するようになった。それに対し、彼女は人差し指でお辞儀をしてくれる。

ただ、それだけのやり取り。彼女はコールに微笑むわけでも、脳内に話しかけてきてくれもしない。だが、コールには確かな絆を感じられた。

庭師に就いてから一月が経とうという時、例のメイドがめずらしく仕事中に庭に顔を出した。

「あなたには、今月中で辞めてもらいます」

 以前屋敷内に足を踏み入れたことを主人に進言でもしたのか、名誉ある職からわずかひと月でコールは解任されることとなった。

 コールは絶望した。職を失うことそのものにではなく、あの女性ともう顔を合わせられないことが彼の心に影をさしたのだ。

 その晩、酒に強いはずのコールは産まれて初めて酒に飲まれた。三本飲んでも足元が乱れない彼であったが、その晩は一本を飲みきらないうちに目の前が揺れた。

 酒を飲めば楽しくなれるはずが、気分は沈む一方だった。

酔いで意識が混濁していく中、コールは自分の中でどれだけ彼女の存在が大きくなっていたのかを知った。

 屋敷での最後の仕事の日、コールはあの女性へ挨拶をすることを止めた。これ以上、想いを募らせるのは悲しみを増やすだけだと考えたからだ。

 窓辺の女性に挨拶に向かわず、コールは仕事を始める。これが、彼の出した彼女への想いの答えだった。

コールは見ないように意識を仕事に集中させても、女性へ目線を這わせようとしてしまっている自分に、心で涙を流した。

身分の違う彼女との叶わぬ恋なら、未練を残すことはしてはならない。そう自分に言い聞かせ、彼女の姿を目に焼き付けることを自身で禁じた。

 神の悪戯か、再び蜂が庭に舞い込んで来た。蜂は他には目もくれず、窓辺の女性へと羽を動かしている。

 コールは以前と同じ行動を取る。蜂と女性の間に立ち、枝切りばさみを蜂に向かって振り回す。だが、今度は蜂は逃げずに、怒り狂ったようにコールを襲ってきた。

 顔を刺される。腕を刺される。だが、それでもコールは逃げ出さず、彼女を守るためにその場で戦い続けた。

 枝切りばさみがわずかに当たり、蜂は警戒するように離れた場所で弧を描いていたが、しばらくしてからようやく蜂は去って行った。

 刺された痛みを感じつつ、コールは慌てて足元を確認した。今回も無意識のうちに、屋敷内へと足を踏み入れてしまっていた。

 庭へ飛び出し、窓辺の女性へ向かって一礼。恐る恐る顔をあげたコールの目に、女性の指がお辞儀するのが映った。

 女性は手を動かし、自分の顔を指差した。コールは顔を触ると、ところどころ腫れているのがわかった。

 愛しの女性の前にいる自分の顔を想像し、コールは恥ずかしさがあふれ出た。

女性は笑った。いつものような薄い笑いではなく、顔中に広がる笑いを。

その笑顔を見て、コールは秘めていた感情を抑えきれなくなった。

「あなたが好きです。この想いにあなたが微笑んでくれるのならば、私はあなたを今晩、迎えに行きます」

 思わず、コールは上流階級に対して言葉を投げかけてしまった。それも、とんでもない言葉を。だが、彼は後悔していない。このまま想いを秘めたまま別れるよりは、罰を受けてでも想いを伝えた方がいい。

 彼女からの返事を受け取る前に、例のメイドが姿を見せた。用件は最後の仕事に対する、心無い労いだった。

 メイドの来訪でコールは仕事に戻ったが、気が気ではなかった。彼女の返事はどうなのか、言語で喋りかけてしまったことの罰はあるのか。だが、彼女からの言葉はない。いつものように、虚空を眺めている。

仕事後、給金を受け取りに使用人長に最後の挨拶をすませる。給金の入った封筒を受け取った後、荷物を取りに庭に戻る。

初めて手にする大金を手にしているというのに、コールの気分は湿っていた。

庭に着くも、依然として女性の声はしない。それが彼女の答えなのだと、コールは女性に挨拶をせずに庭を後にしようとしたその時だった。彼女が立ち上がり、微笑んでみせたのだ。

コールは涙がこぼれるのを必死にこらえた。今の微笑みで、彼女の気持ちも自分と同じなのだと、コールは悟った。

「必ず、迎えにあがります」

 努めて紳士の態度で、コールはお辞儀をしてから踵を返した。

 その晩、コールはマルフ族のお屋敷に侵入した。彼女とどこか遠くで添い遂げるために、今日受け取った給金を含めた全財産も持ち出してきた。

 事前に馬車を手配しておき、そこに手荷物も積んでおいた。彼女と別の土地で生活する準備も、覚悟も出来ている。

(待っていてください。今、迎えに行きます)

 コールははやる気持ちを抑え、音を忍んで柵を越えて庭へ回る。

すると、彼女はいつもの場所に姿を置いていた。

 喜びを隠せずに近づくにつれ、彼女の表情がいつもと違うのがわかった。喜びに満ち溢れてるのではなく、なにか不安な色が浮かんでいる。

二人で添い遂げる前の不安だろうと、コールは特に気に留めなかった。だが、屋敷内に足を踏み入れ彼女の手を掴んだとき、コールはその表情の意味を理解した。

「現場をおさえましたよ。汚らしいゾルフが」

 脳内に直接声が流れる。それと同時に、部屋の色々なところに隠れていた男たちが飛び出し、女性から引き離すとコールを羽交い絞めにした。

 廊下から例のメイドを伴い、声の主であるお屋敷の夫人が現れる。

「あなたの言葉を、このメイドが聞いておりました。あなたのような身分の下衆な者が、家の娘を迎えに来ると? 召し抱えられた恩を忘れて、なんたることでしょうか」

 夫人は彼女の頭を撫でると、その手で彼女の顔をコールの方へと向けた。

「よく見ていなさい。あなたをかどわかそうとした愚かな者の末路を。殺しなさい」

 返事をすることなく、男の一人がコールの首に手をかけ、躊躇することなく締める。

 コールはすべてを諦めた。生きることも、愛しの女性と添い遂げることも。

だが、せめてあの世には彼女の姿を連れて行こうと、コールは霞む眼で愛しの女性を見つめた。だが、そこに写ったのは、彼女とは思えない表情であった。

「少し誘惑してやれば、案の定でしたわね。あなたのような下賤な者と、私が一緒になるとでも? ただの暇つぶしにお付き合いいただき、どうもありがとう」

 消え入る意識の中、コールは初めて彼女の声を聴いた。


  ◇


 アーナは、恋に落ちていた。

 それは、確かに恋だった。

 アーナはこの屋敷での生まれではなく、貧民街の出身であった。

屋敷の当主は種族差別の概念を持たない珍しいエルフであったが女癖が悪く、既婚者でありながら様々な女性に手を出していた。

そんな彼がザルフ族の女性相手に作った子供、それがアーナであった。

 母親が亡くなった際、生後まもないアーナはまだ関係の続いていた当主が、アーナがザルフ族との子供であることは伏せて引き取った。

当主は夫人との間にはまだ子はなく、夫人の体では子を産むのは難しいということを知ってから、当主はアーナに家督を譲ることとした。

 だが、ここで問題が発覚した。アーナは、喋れなかったのだ。

 普通のマルフの子供ならば、三年も経てば電磁波による単語単語の会話は可能となるはずだが、アーナは一言も喋らなかった。それもそのはずだ。アーナは母のザルフの血を濃く継ぎ、電磁波で会話することは出来ないでいたのだ。

 当主はその理由に気が付き、彼女がザルフ族だとわかり家を追い出されないよう、彼女を脳に異常のある子として生活させることとなった。

 毎日アーナだけ食事も用足しもすべての事を世話され、当主を除いて誰も話しかけてもくれない。自分を唯一愛してくれる当主のように、口を使わずに言葉を喋ることも出来ない。

 アーナは賢い子であり、物心がつくにつれ、自分の置かれている状況を理解した。周りと違うことはせず、ただ薄い笑顔だけを浮かべて世話をされるがままに生活を送った。

当主と夫人との間に娘が産まれると、夫人は自分の娘に家督を継がせようとしたが、当主は病で亡くなるまで頑として頭を縦には振らなかった。

その不満を夫人はアーナにぶつけ、彼女が喋れないのをいいことに、当主の目に隠れて彼女に辛辣な言葉を投げたり、軽度の虐待をしたりした。

唯一の味方であった当主はアーナが十歳になる前に病に伏せり、亡くなってしまった。

だが、当主は最初の娘であるアーナを誰よりも愛しており、アーナに家督を継がせるという旨を遺書に残した。

 遺書を受け取った弁護人からの目が光っており、夫人は以前のように虐待などの思い切った行動はできないでいたが、脳に異常のあるアーナのためだという理由をつけ、彼女を部屋に閉じ込めた。

 それからというもの、アーナは冷徹なメイドにだけ世話をされ、彼女を除いては庭を手入れする者以外を目にすることはなくなった。それをアーナは受け入れ、感情を今まで以上に無くし、ただ生きることだけを続けた。

それから数年後のある日、アーナは一人の男と出会った。

 彼はアーナが目にしたこともない、みすぼらしい男だった。容姿も整ってはなく、体も小さい。だが、不思議とアーナは彼に魅かれた。

 生きる唯一の楽しみとなっていた庭を眺める行為に、彼は入ってきた。今までも庭師はいたが、彼だけにはアーナは特別な感情を抱いた。

 その感情が明確になったのは、彼に救われた時だ。蜂が迫ってきた時、彼は身を呈して己をかばってくれた。誰かが己を犠牲にしてまで自分のことを気にかけてくれる。それは、彼女にとって初めてのことであった。

今まで自分の感情を表した余計な行為はしてこなかったアーナだが、彼にはなにかお礼を言いたかった。だが、自分が彼に語りかける手段は口を使うしかなく、それが周りに判明した時、自分が夫人に始末されてしまうことを彼女は理解していた。

 そのために、彼が屋敷内に入ったのは自分を守るためだと、彼に酷な対応をするメイドに対し、アーナは喉元までのぼりかけた言葉をなくなく飲み込んだ。

 メイドが去った後に、彼はアーナに恨めしい目を向けた。それを見て、胸が締め付けられる想いがした。

 アーナは咄嗟に、指を使ってお辞儀をすることを思いついた。これならば、誰かに見つかることもないだろうし、仮に見られても自分が意志のしっかりしている普通の人間だということはわからない。

 これで自分のお礼の意味が伝わるか不安だったが、彼は笑ってくれた。

 それから男は仕事の始めと最後には、アーナに挨拶をしてくれるようになった。それに指で挨拶を返すだけだが、アーナの心は満たされた。

楽しい日々は、冷酷なメイドの一言で終わりを告げようとしていた。メイドが彼に契約の打ち切りを告げる言葉を、アーナは聞いてしまったのだ。

彼がもう、ここにこなくなってしまう。そう考えただけで、アーナは生きていることが辛くなってしまった。

仕事だというのに、男が挨拶に来ない日があった。それで、アーナは彼は今日で辞めるのだと、直感した。

なんの偶然か、また蜂が迷い込んできた。男は以前のように、アーナを守ってくれた。彼は、自分にとっての王子様のようにアーナは思えた。

男が振り返れば、精悍な顔つきではなく、蜂に刺されて腫れたまぬけ顔があった。だが、それがアーナにはなによりも凛々しく、なによりも愛おしく想えた。

顔を指差すと、男は顔から火が出るのではないかというほどに血を上らせた。それがまた、愛おしかった。

産まれて初めて、アーナは心のそこから笑みを浮かべた。すると、男はアーナに愛の言葉をささげてくれた。

「あなたが好きです。この想いにあなたが微笑んでくれるのならば、私はあなたを今晩、迎えに行きます」

 彼が、迎えに来てくれる。そのことだけで、アーナは天にも昇れる気分になった。

 だが、本当にそんなことは可能なのだろうか。監視下に置かれたこの家から自分を連れだすなど、出来るのだろうか。

外の世界を知らないアーナにとって、男の言葉は危険な甘美の香りを漂わせるものだった。

 答えを出す前に冷酷なメイドが来たため、彼は仕事に戻ってしまった。

アーナは自分がどうすればいいのか、わからなかった。愛情に従えばいいのか、理性に従えばいいのか。

あっという間に男の仕事の時間は終わり、彼は庭を離れた。荷物を置いたままのため、まだ別れの時間ではないとわかってはいても、アーナの胸は張り裂けそうだった。

男が戻ってきた。荷物を手にする。

アーナは自分の気持ちに嘘をつくことはできず、愛情を選び、立ち上がった。

微笑みを携え、精一杯男を見つめる。彼はアーナの想いをくみ取ったように、今にも泣き出しそうな笑顔を見せた。

彼には言葉がなくても、自分の想いが通じる。そのことが、アーナの胸を熱くさせた。

(ああ、あなたがいれば、私はもうなにもいらない)

 小さくも逞しい背中を見送り、アーナは頬を染める。彼が自分を新たな世界へと連れてってくれるのだと、アーナは心を躍らせた。

アーナは待った、彼が迎えに来る夜が訪れるのを。だが、冷徹なメイドに夕飯を全て口に運ばれた後、部屋に数人の男が入り、ベッドの下や衣装棚などに隠れた。

戸惑いを顔に出さずにいつものように目も向けずに振舞っていると、夫人が訪れ、アーナの頭を憎らしげに撫でた。

「愛しの君が目の前で死ねば、あなたもショックで死ぬかしら?」

 アーナは夫人の舐めまわすような嫌な声がするのを、脳内で感じた。

 夫人は冷徹なメイドを伴い、部屋を後にした。

 彼は来ないでほしい。あの時の泣きそうな笑みは、彼の言葉に胸踊らされた自分を笑ったのだと、彼の愛は偽りであると、アーナは願った。

 だが、男は来た。彼の愛は、本物だったのだ。

 それがアーナは生きるよりも嬉しく、また死ぬよりも悲しかった。

 彼は部屋に潜んでいた男たちに拘束され、部屋に再び訪れた夫人はアーナに冷たく微笑むと頭を撫でた。

アーナは現実から目を背け、今も虚空を見つめていたかった。だが、夫人は自分の頭を強制的に彼へと向け、ネズミを殺す感覚で彼の始末を命じた。

(そんなことは、させない)

 アーナは愛情を押し殺し、理性で行動した。いや、理性を押し殺し、愛情で行動した。

アーナは愛ゆえに陰惨な顔をつくり、愛ゆえに刃のような言葉を吐いた。

「少し誘惑してやれば、案の定でしたわね。あなたのような下賤な者と、私が一緒になるとでも? ただの暇つぶしにお付き合いいただき、どうもありがとう」

 アーナの言葉を聞いた彼の顔を、アーナは霞んだ目で見つめた。


 ◇


 フランジアは、恋に落ちていた。

 絵に恋するなどの表現があるのならば、フランジアのそれも恋といえるだろう。

フランジアは家族の誇りであった。十二という若年で、マルフ族の中でも名門のお屋敷へと奉公が叶ったのだ。

 メイド奉公して間もなく、彼女の恋慕の対象となる赤ん坊がお屋敷にやってきた。

メイドのフランジアにとって、仕える対象が増えただけのこと。当時はそう思っていたが、赤ん坊が育つにつれ、フランジアは特別な感情を赤ん坊に抱くようになった。

赤ん坊は、フランジアの幼いころに死に別れた妹の生き写しのような容姿をしているのだ。

 だが、妹の生まれ変わりのような少女は、脳に異常を抱えていた。そのことと夫人に娘が産まれたことが問題となり、家督相続をめぐって当主と夫人は頻繁に争った。

 フランジアはろくに愛を受けれない少女と妹を重ね合わせ、せめて当主以外に自分だけでも彼女を寵愛しようと心に誓った。

 だが、フランジアはある時知ってしまった。少女が、ザルフ族だと。

 それを知ったのは、少女が六つの時だ。彼女の記憶にも残っていないだろう。

 きっかけは些細なことだった。フランジアが彼女の食事の給仕係りを請け負ったある日、飲ませるスープを誤って冷まさずに飲ませてしまったのだ。すると、マルフ族は声を漏らすことがあっても言葉は決して出せないはずが、少女は確かに熱いと言葉を出して熱がったのだ。

 フランジアは驚愕したが、その事実を隠した。差別対象であるザルフ族であるという事実を知っても、フランジアは妹の生き写しである少女を愛していたからだ。

病に倒れた当主を目にし、もう長くはないと感じたフランジアは夫人からの迫害から愛しの少女を守るため、夫人のお気に入りになろうと積極的に彼女に尽くした。その努力は実を結び、当主亡き後、夫人に少女の世話係を命じられることに成功した。

夫人の命令では、周りには寵愛しているような体裁を取りつつ、少女に愛も自由も与えずに厳しく冷たく世話をするように言いつかったが、フランジアは少女に対する束縛を最小限にとどめ、世話の一つ一つに隠れた愛情を見せた。

 しかし、いくら隠れた愛情を見せようが、それはあくまで少女に対してヒールを貫いている中での行為であり、少女には十分な愛は与えられていないとフランジアは悩んでいた。

 その事実をそのままにした数年後、フランジアは庭師としてやって来た男が愛しの彼女の部屋に足を踏み入れているのを目撃した。

 愛しの彼女と同じザルフ族の男が彼女の部屋に足を踏み入れていることに、フランジアは嫉妬に似た感情を抱いた。

「菓子が目当てですか、これだからザルフは卑しい。ほら、はやく外に出なさい。汚らわしい」

 これだけ言えば愛しの彼女と関わることを止めると思っていたが、フランジアの思惑とは違い、男は前にも増して彼女と接するようになっていた。

(彼女と関わっていいのは、私だけなのに)

フランジアはその想いを抑えきれず、庭師の男をクビにするようにと夫人に進言した。その結果、男は庭師を解任されることになった。

これで彼女は今まで通り自分とだけいられると、フランジアは思っていた。

だが、フランジアは男の告白を聞いてしまった。

「あなたが好きです。この想いにあなたが微笑んでくれるのならば、私はあなたを今晩、迎えに行きます」

 フランジアは怖かった。もし彼女が男の告白を受け入れてしまったのなら、もし彼女が自分の前から姿を消してしまったら。

 いても立ってもいられず、フランジアは彼女が答えを出す前に二人の間に割って入った。

 思いもしていない労いの言葉を男にかけつつも、フランジアは気が気でなかった。彼女の返答なくしても、この男が彼女を迎えに来てしまったのなら、と。

 そんな不安に駆られたまま職務を果たしていると、彼女が立ち上がって男と向き合っているのを目にした。それが告白に対する彼女の答えなのだと、フランジアは理解した。

 目まいがする。彼女がいなくなってしまうのだと考えただけで、フランジアはこれからなにを楽しみにここで働けばいいのかわからなくなった。

(私の愛する彼女を、あなたなどには渡さない)

自分と彼女の仲を裂く者を確実に始末するために、男が帰ったのを確認してから、フランジアは男の告白を夫人に告げた。

夫人は差別概念の塊のような人物であり、いかに愛しの彼女を邪魔者だと考えていても、差別対象のザルフ人などに家の者をさらわれるなどという名家にあるまじき恥は避けるはずだと、フランジアは予測して告白を告げたのだ。

予想通り、夫人は愛しの彼女をさらわせることはせず、屋敷の者を彼女の部屋へと手配した。

その際、フランジアは困惑した。忌み嫌うはずの彼女に対し、夫人は隣の部屋でわざわざ男が来るのを待ち受けると言い出したのだ。

フランジアの目的は男を始末すること。だが、夫人の目的はそれだけではなかった。

夫人は自分を愛する男が目の前で死んだショックで、腹違いの娘が死ぬことを望んだのだ。

 その想いを聞かさたフランジアは、ここに来て不安を抱いた。もしも愛しの彼女も男のことを愛していたのならば、男が殺された時、彼女は以前のように声を出してしまうかもしれない。

 予想は、フランジアの想像を上回った。

 自分を迎えに来た男が屋敷の者たちに取り押さえられたのを目にし、愛しの彼女は冷たい声音を出したのだ。

「少し誘惑してやれば、案の定でしたわね。あなたのような下賤な者と、私が一緒になるとでも? ただの暇つぶしにお付き合いいただき、どうもありがとう」

 愛しの彼女の言葉を聞き、フランジアは理解した。彼女は、男を愛しているのだと。

 憎悪の対象である腹違いの娘がゾルフ人であると知り、夫人は歓喜した。

 夫人は屋敷の者に命じて彼女を拘束して地下牢に入れた。彼女は身分を偽り上流階級の当主の座を得ようとしていたということで、翌日にでも彼女は公の場で処刑されるだろう。

対して、罪人の彼女に誘惑されたとし、さらにはゾルフ族同士の逢引きだということで、男は無罪放免となった。

 フランジアは自分の行動で愛しの彼女を窮地に追いやってしまったことを後悔し、その負の激情に身を任せて枕を濡らすのではなく、彼女はすぐに行動を起こした。

 辞表を書きしたためると荷物をまとめ、手持ちの金をすべて持ち出す。

気を失ったまま外に放りだされた男を起こし、彼を愛しの彼女の監禁された地下牢へと導く。愛しの彼女は布袋をかぶせられ、手足を縄で縛られていた。

 二人が彼女の拘束を解くと、彼女は感情を露わに男に抱き着いた。

 彼女の人間らしい顔を目にする。それだけでフランジアは、救われた思いがした。

「先ほどの彼女のように、私を拘束しなさい。背格好の似ている私が、身代りになります」

 フランジアはいつものように、能面な冷たい表情のままに指示を下した。二人が口を開く前に手持ちの金銭とカバンを渡すと、フランジアは続けた。

「処刑前になれば、布袋を取られて顔を確認されます。いくら背格好が似ていようと、誤認処刑はありえません。少しは時間稼ぎにはなるでしょう。私はあなたの世話係です。さ、お行きなさい。この町から、ずっとずっと離れた所まで」

 いつもと変わらない表情だが、フランジアの声は温かみを持って二人の脳内に流れた。愛しの彼女から抱擁を受け、フランジアはわずかに目尻を下げた。

 拘束を受けると牢が閉まる音を聞き、フランジアは布袋越に二人を見送った。

 フランジアは知っていた。マルフ族の処刑の仕方を。

 布袋の上から油をかけ、木に吊るされ火をつけられる。一度布袋をかぶせたからには、中身を確認することは二度とない。

 自分が処刑されれば愛しの彼女は死んだとされ、追及が行くことはないだろう。辞表も書いた。フランジアは逃走し、愛しの彼女は明日死んだこととなるのだ。

 だが、後悔はなかった。フランジアは自分が死ぬことよりも、妹を二度失うことの方が彼女にはつらいのだ。

 夜が明ける。牢が、開いた。


 ◇


コールとアーナは走った。二人は手を取り、走った。

夜の帳が降りる闇の中、二人は幸せを噛みしめて走っていた。

 コールの手配しておいた馬車へと着き、肩で息をしながら二人はそこへ乗り込んだ。

 二人は片時も手を離さず、馬車に揺られた。

 小腹が空き、腹が鳴る。二人は顔を見合わせて笑い合った。

コールの用意しておいたサンドウィッチを胃に入れると、アーナはいつも給仕してくれていたメイドの顔を思い出した。

アーナに一つの疑問が浮かんだ。なぜ、いつもは冷たかったメイドが、自分の身代わりとなってくれたのかと。

コールが驚きの声を上げる。メイドに渡された多額の金を確認したからだ。それはコールがお屋敷の庭師を続けられたとして、その給金の三年分に及ぶ額があった。

メイドに渡されたカバンを確認すると、そこには着替えが入っていた。アーナはそれを見て目を見張った。サイズは違うが、自分がいつも着ているのと色違いのものばかりなのだ。

カバンには着替えの他に靴、時計、アクセサリーなど、これもまたいつもアーナが身に着けているのと色違いのものが入っている。

カバンの中には、紙も入っていた。それを文字の読めないアーナに代わりコールが音読する。

「私はアーナ様の専属のメイドであり、彼女がいなくなるのならば、私がいる意味もなくなります。大変お世話になりました。探さないでください」

 コールは涙した。この紙の意味を、理解したからだ。

 彼女はアーナの身代わりとなり、あのまま死ぬつもりなのだ。この紙は誤ってカバンの中に入れてしまったものであり、本来は辞表として置いておくつもりだったのであろう。

 その考えをコールが口にする前に、アーナは馬車を止めていた。

 産まれて初めて、アーナは涙した。メイドの今までの隠れた想いに気が付いたからだ。

 アーナは一度だけ人前で言葉を発したことがあると、記憶の片隅で覚えていた。それを目撃したのが、あのメイドなのである。

 その時は子供ながらに死を覚悟したが、なんの音沙汰もないままでいた。きっと気づかなかったのだろうとその時は考えたが、今その真相をアーナは知った。

 メイドは自分のことを守ってくれていたのだ。愛してくれていたのだ。

 メイドが自分の世話の専属となってからというもの、自由は完全に消えたが、いくら愛の感じられない世話をされても夫人からの虐待はなくなった。いつも冷たくしていたのは、永遠に夫人から自分を守ろうとした結果なのだ。

 アーナは、馬車を引き返させた。


 ◇


 フランジアは牢屋の中で朝日を感じ、そして死を感じた。

 なにもできない。呼吸をするだけで、楽しみもない。ただ生きるだけ。愛しの彼女の気持ちが、つらさが、身代りになってようやく理解できた。

 フランジアは彼女に永遠にこんなつらさを味あわせるつもりだったことを悲しみ、その行為が彼女の助けになっているつもりでいた自分を嘲笑った。

 牢が開く音がする。フランジアは、覚悟を決めた。

「お姉さん!」

 その言葉と共に、布袋が外された。フランジアの目に、妹の姿が映った。

「アーナ様、なぜ?」

 フランジアは妹の生き写しの女性――アーナを見つめた。コールがフランジアの拘束を解くと、アーナは彼女に抱き着いた。

「お姉さん、私たちと一緒に逃げてください! これからも、一緒にいてください!」

 彼女のいうお姉さんという意味は、フランジアの名前をしらないからの呼び方であり、特に意味はない。だが、フランジアはそれを聞いただけで、目頭に熱いものがこみ上げた。

 これからも、彼女にそう呼ばれたい。傍にいたい。

だが、フランジアは愛するアーナのためにも、二人についていくわけにはいかなかった。

 アーナの肩を掴み、彼女を離す。涙を浮かべるアーナに、フランジアはかぶりを振った。

「私は行けません。身代わりがいなければ、追っ手にあなたたちはいずれ捕まります。もう一度私を縛って、二人で逃げなさい」

 フランジアの言葉に、アーナは困ったようにコールを見る。苦しそうに、コールは目を逸らした。

 フランジアの咳払いに急き立てられたように、コールは解いた縄を再び手にした。そして、涙を流す。

「ありがとう。アーナ様を、頼みます」

 アーナも泣く泣く手伝い、二人は再びフランジアを縄で縛り上げる。

すると、三人の脳に言葉が流れ込んだ。コールを除いた二人には、聞きなれた嫌な声。

「無罪放免にしてあげた報いがこれかしら。まったく、これだから低俗なザルフは」

声の主は夫人だった。夫人は手提げカバンから拳銃を取り出し、二人に向かって突きつけた。

「フランジア、大丈夫かしら? 汚らわしい罪人を最後に私がいたぶりに来てよかったわね。さあ、はやく彼女の縄をほどきなさい。そしたらフランジア、二人を縛り返してあげなさい」

 命令に従い二人はフランジアの手足の縄をほどくと、彼女は二人の手を縛り上げた。夫人は満足そうにうなずくと拳銃をしまい、カバンから短い鞭を取り出して牢へと入ってくる。

「フランジア。あなたには苦労をかけたわね。こんなザルフの世話を一人で任せてたなんて。あなたにも後で、じっくり仕返しさせてあげるわ」

 にっこりと夫人は微笑みかける。フランジアも、いつものように能面な顔でお辞儀をした。

「よくもザルフの分際で、長年私を騙してくれたわね」

 アーナに唾を吐きかけると、夫人は鞭を振り上げる。

コールは夫人に向かって、猛然と体当たりを食らわせた。彼を縛っていた縄は解けている。フランジアが縄の縛りを緩めていたのだ。

吹き飛んだ夫人は目を回しながらも、カバンから拳銃を取り出した。

「汚らしいザルフが、動くんじゃないわよ! フランジアやりなさい!」

フランジアは体当たりを受けた際に夫人が落とした鞭を拾い上げ、それで夫人の拳銃を叩き落した。拳銃を取り落した夫人を、コールは抑え込む。

「フランジア!?」

コールとアーナに手足を縛られつつ、夫人は目を剥いてフランジアを見た。フランジアは夫人からカバンをむしり取ると中身を床にまき、顔をしかめた。拷問器具だらけなのだ。

「あんなに可愛がってやったのに! 恩をあだで返すの!?」

 床に転がる注射器と酒を手にし、フランジアは夫人に酒を注射で打ち込む。暴れる夫人の頬を、彼女は思い切りひっぱたいた。

「お前のせいで、私はアーナ様を苦しめなければならなかったんだ!」

 フランジアは何回も、何回も酒を注入する。夫人の声が脳内に流れなくなると、彼女は布袋を夫人の頭にかぶせた。

「自分が考えた拷問で、自分が苦しめ!」

 酒の残りを夫人の頭からかけると、フランジアは二人を見た。

「さあ、急いで逃げましょう」

「一緒に来てくれるんですか!?」

「身代わりはできましたので」

 フランジアはあごで夫人をしゃくる。コールは眉をひそめた。

「声を出されたら、ばれるのでは?」

「私たちは、過度に酔うと会話ができなくなるのです。だから、直接血管に打ち込んで、酔わせたのです。こいつは、アーナ様に薬物も打とうとしていたようですが」

 アーナは夫人を見やる。

「つらいですか? 彼女は形式上、親族です。あなたが止めるのならば、彼女を身代わりにするのはやめましょう」

事情の知らないコールは不安気に彼女を見つめたが、アーナは夫人にかけられた唾を拭うと踵を返す。

「いいえ。私の家族は、ここに二人います」

 三人は牢を閉めると、地下から出た。

だが、地下を出ると辺りかしこから足音が聞こえる。もうすでに、陽は上り切っていた。

 屋敷の者たちが活動し始めた今、脱出できる可能性は限りなく低い。隠れていようとも、彼らに見つかるのは時間の問題だろう。

 アーナとコールは、抱き合った。永久の別れを受けようとも、お互いのぬくもりを忘れないように。

 コールとフランジアはアーナを挟む形で手を取り合い、頷き合うと、走り出した。


 ◇


 それから半年後、とある村に住む三人家族を見受けることができる。

 夫は漁師であるが最近は不漁続きであり、小遣い稼ぎに村の庭の手入れを受け持ち始めたところ、これが好評であった。才能のない漁師なんて辞めて、庭師をしてくれた方が町のためだと言い出す者もいた。悪い気はしないようである。

 妻は常識知らずとして村の有名者である。だが、誰も彼女のことを悪く言うものはなく、周りの協力もあり、家事はここへ越してきた時は箸にも棒にもかからないものだったが、最近ようやく様になってきたところだ。

 残る一人は、妻の姉であるこの村では唯一言葉を口にできない女性だ。夫が昔彼女にお菓子を投げられたことを冗談交じりに懐かしく話したのが彼女のなにかを刺激したのか、彼女は小さな菓子屋を開いた。はじめは柔らかみのない表情が不評であったが、今では彼女の態度と内面のギャップにやられ、彼女目当てで通い詰める者も少なくなくなっていた。

 ここの家族は不思議なもので、家族間で言葉を交わすことはない。筆談をすることもない。だが、自然と心が通じ合い、生活には支障がないようだ。

 村の人々は、彼らが上流階級の出なのではないかと時々噂をする。だが、彼らの幸せそうな笑顔を見るうちに、どうでもよくなった。

 今日も三人は、家に帰れば黙って生活をしている。彼らが指でお辞儀をしているのは、まだ村の人は気づいていない。

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