人魚、売りました

青川志帆

人魚、売りました

 家のなかに入るなり、焼き魚の匂いがくゆる。


 えづきそうになるのをこらえて、僕はリビングに顔を出す。


「あら、あきたつ。今日、お友達の家でごはん食べてくるって言ってなかった?」


 食卓に着いていた母が驚いて、僕を見つめる。


「……うん。そのつもりだったけど、てつが熱っぽいって言い出して。うつしたら悪いから、帰ってくれって言われて」


「まあ。徹也くん、心配ね。……今から、あんた用に何かおかず作るから、部屋で待っててくれる?」


「うん。お願い」


 端的に答えて、食事の手を止めている父親に目をやる。


 すぐに視線をそらして、僕はリビングを通り抜けて自室へと急いだが、後ろから声が聞こえてきた。


「秋立くんにも、困ったものだな。匂いだけで、青ざめていた」


 彼は五年前に僕の父親になったひとなので、正確に言えば義父となる。彼のことは好きでも嫌いでもなかったが、義父が魚好きなのは悲運だった。


 僕は魚を食べられない。匂いだけでも吐きそうになるぐらいだ。焼き魚も煮魚もだめで、刺身なんてもってのほか。


 だから、母は僕がいるときには魚料理は作らなかった。


 悪いことをしたと思う。今日は僕が夕食にいないから、父の大好きな焼き魚にしたのだろうに。


 部屋に入って、ベッドに寝転んで口元を押さえた。


 こんなにも『魚』がだめになったのには、僕が過去にやらかしたことが関係していた。







 小学三年生のころ、僕は友達のとおると、毎日のように一緒に海辺で遊んでいた。


 よく、海釣りをしていた。


 学校が終わってすぐ、いつものように僕と透は釣り糸を垂らす。


 平日は、大人の釣り客はほとんどいないし、子供で釣りを趣味にしているやつは多くない。ほぼ貸し切り状態の釣り場で、僕は釣り竿に「大物」がかかったことを、獲物に引っ張られて知った。


「うわっ、すごい引き! おい、秋立! 手伝うよ!」


 透は自分の釣り竿を海から引きあげてデッキの上に置いて、僕の釣り竿を後ろからつかんでくれた。


 全力で、僕らは一緒に獲物を引きあげた。


 そして、デッキの上に放り出された獲物はびちびちと跳ねていた。


「……なあ、透。これって、まさか……人魚か」


「………………多分」


 僕らが見つめる先には、十歳ほどの少女がいた。ただ、その下半身はうろこに覆われており、魚にそっくり。その口からは釣り糸が垂れていて、痛そうにしていた。


「ま、待って」


 僕は暴れる彼女に近づいて、口に引っかかっている釣り針を取ってあげた。


 彼女は何も言わず、こちらを見ていた。


 髪はふわふわとした金色で、目は南国の海のような、澄んだ青だった。


 何も着ておらず、ほのかにふくらんだ胸から、僕は思わず目をそらした。


「君、人魚? 名前は?」


 問うても、彼女はしゃべらなかった。代わりに、不思議な音声を発する。


「イルカの鳴き声に似てるなあ」


 透の言葉に、僕は「たしかに」と納得する。


「ねえ、透。どうすればいいんだろう?」


 僕の問いに、透は即答した。


「逃がしてあげよう。だって、人魚なんて大人に見つかったら解剖されちゃうだろうし」


 解剖、と聞いて僕はゾッとした。


「そうだね。そうしよう」


 うなずき、僕は彼女の腕を引いた。心得たように、透が彼女の尾びれをつかむ。


 決して軽くはなかったけれど、どうにか僕らは彼女を海に戻すことに成功した。




 次の日も、僕らは同じ場所で釣りをした。


 すると、ひょっこり彼女が頭を出したものだから、僕はびっくりして釣り竿を落としてしまうところだった。


「また来たよ、彼女」


 僕が戸惑っているうちに、彼女はパッと華やかに笑った。


 人魚って笑うんだ、とぼんやり思っている間に、透がつぶやいた。


「この子、俺たちに懐いちゃったんじゃないか?」


 透の予想は当たったらしく、彼女は次の日もその次の日も、僕らの前に姿を現した。


 何をするでもなく、僕らを見て笑うだけ。


 僕らも釣りをするどころではなく。言葉が通じないので、ただ彼女と見つめ合う時間を過ごした。


 彼女を、いくら見ても飽きなかった。


 他の釣り人が来るたび、僕らは彼女に「海に戻って!」と注意した。言葉がわからないなりに何か察したらしく、彼女は僕らの注意を受けると海に潜っていった。


 僕らは彼女にマリンという名前をつけた。マリン、と呼びかけても反応しなかったけれど。


 ある日、僕はどうしようもなく、彼女の写真が欲しくなった。


 僕は母子家庭で母はパートタイムで働いていて、生活に余裕はなかった。


 だから、最近スマホを持っている小学生は少なくないけれど、僕は持っていなかった。


 母はスマホを肌身離さず持っているし、母親のスマホでマリンを撮ったら、追求されるに決まっている。


 僕はダメ元で、透に頼んでみた。


「僕、マリンの写真を持っていたいんだ。いつマリンが姿を消すか、わからないだろ。誰にも見せないようにするから。ねえ、透はスマホを持ってるだろ? それで撮って、印刷できないかな?」


「……できると思うけど」


 透は渋い顔をして、目をきらきらさせているマリンに手を伸ばした。


「マリン。こっち」


 伸ばされた透の手に、マリンが近づく。


 ふたりがかりで、マリンをデッキの上に引きあげた。


 透は周りを見渡してから、ポケットからスマホを取り出し、スマホのカメラでマリンの写真を撮っていた。


「うちのプリンタ、性能よくないから……コンビニのプリンタで印刷するよ」


「お金、払うよ」


 慌てて、ポケットに入れた財布を取り出すと、透はカラーコピー代の半分を請求した。


「半分でいいの? 僕の分だけだろ?」


「別に、いいって」


 透は僕の家が裕福でないことを知っていた。だから、あれは透なりの気遣いだったのかもしれない。


 その翌日、透は釣り場で印刷した写真を渡してくれた。


 学校で渡さなかったのは、他人に見られないように、と用心してのことだろう。


「うわあ……マリンって、本当にきれいだね」


 今はまだここに、マリンは来ていなかった。


 現実のものとは思われない。白い肌に、金色の髪。夢見るような、青い目。うろこに覆われた下半身は、きらきら光って、青みを帯びた銀色だった。


「俺も印刷して、ハッとしたよ。マリンみたいな人魚、他にもいるのかな」


「さあ……。そういえば、仲間は連れてこないね。ひとりぼっちの人魚なのかも」


 そんな会話を交わしていると、水音がしてマリンが顔を出した。


「マリン、見て。君の姿を映したんだよ。きれいでしょう」


 僕が写真を見せると、マリンは戸惑ったように首を傾げていた。


 マリンには、写真という概念が理解できなかったのだろう。




 ある日曜日の朝。うろたえて、母が電話している声で目が覚めた。


「お母さん?」


 僕は起き上がって、部屋の隅で応答する母を見つめる。


「……このたびは、本当にご愁傷様です。はい、秋立に伝えます」


 電話を切って、母は僕に向き直った。


「秋立。落ち着いて、よく聞いてね。――透くんが、亡くなったわ」


「え……? どうして!」


「事故だったみたい。今日の夜明け頃、出かけたんだって。そしたら、酔っ払い運転の車に、ひかれて……」


「うそだ、お母さん。透が死ぬはず、ないじゃんか」


「秋立。今夜はお通夜に、行きましょうね」


 僕も母も、お互いの言葉を聞いていなかった。


 透が、死んだ。


 受け止めるには、重すぎる事実だった。




 その夜、お通夜に行って、次の日はお葬式に参列した。


 棺に入った透の顔は真っ白だったが、特に傷などは見当たらず、今にも起き上がって「なんで、俺死んでることになってるわけ?」なんて言いそうだった。




 透が死んでから、僕は海釣りに行かなくなった。


 マリンに会えば、透を思い出す。マリンも、透がいないことに気づいて不思議がるだろう。でも、僕らは言葉が通じない。透が死んだ、ってどう説明すればいいかわからない。だから、僕はマリンとの再会を拒んでいた。


 透の葬式から二週間経った日曜日、僕は図書館に行って暇をつぶすことにした。


 なんとなく人魚のことを調べようと思って、『人魚の伝承』という本を手に取り、閲覧室の椅子に座って、本を広げた。


 人魚について、たくさんの逸話が書かれていた。その肉が不老不死になることや……災いを呼ぶと恐れられていたことも。


 透が死んだのは、人魚が呼んだ災いのせいだったのではないか?


 そう考えると、ひどく納得できる気がした。


 僕の胸には、憎しみの炎が燃え始めていた。


 どうせなら、高く売りつけてやろうと考えた僕は、図書館の司書さんに「魚について、もっと知りたくて。魚を研究しているひとに会いたいのだけど、どうすればいいですか?」と尋ねた。


 司書さんはすぐにデスクトップパソコンのキーボードを叩いて、近くの大学に勤めている教授の名前を教えてくれた。更に司書さんは、大学のホームページに記されていた、水産学部の電話番号と大学の住所をメモして、そのメモ用紙を僕に渡してくれる。


「ここに電話したら、教えてくれると思うわ。学校名もちゃんと言って、名乗るのよ」


「歩いて行けない距離ですか?」


「直接行くのは、迷惑だと思うわ。ここから近いから、行けるのは行けるけど……」


 司書さんから受け取ったメモ用紙をポケットに突っ込んで、僕は図書館から出た。


 困ったことに、僕の家には家電話がなかった。電話は、母のスマホだけだ。母のスマホから大学にかけるのは、気が引けた。


 僕は徒歩で、大学に向かおうと決めた。




 次の日、学校が終わってすぐ、僕は大学を目指して歩き始めた。


 一時間ぐらい歩いただろうか。初夏の陽気のせいもあり、僕は大学に着いたときには汗だくになっていた。


 立派な門の前でもじもじしていると、守衛さんが声をかけてきた。


「坊や。何か用かい? 誰か待ってるの?」


 初老の守衛さんは優しそうで、僕は緊張を解いて彼に向き合った。


「水産学部の、ざいぜん先生に会いたいんですけど」


「財前教授に? アポ取ってる? あ、アポって会う約束のことね」


「……取ってません。珍しい魚を見つけたから、どうしても見てもらいたくて」


「うーん……。まあ、聞いてみるから待っておきなさい」


 守衛さんは警備室に入って、電話をかけていた。ガラス張りだから、よく見える。守衛さんの渋い顔が、驚いたような表情に変わる。


「会ってもいいそうだ。ちょうど講義のない時間だったみたいで、ラッキーだったね、君。水産学部は、まっすぐ進んだところにある、大きな建物にあるから。その三階に、研究室がある」


 守衛さんは親切に道案内までしてくれた。


 ありがとうございます、と礼を言って、僕は大学のなかに入った。




 財前というネームプレートがかかっていたので、会いたい教授の研究室はすぐにわかった。


「すみません」


 ノックをすると、クマみたいな体の大きい男のひとがドアを開けてくれた。


「君か。私に会いたい小学生、ってのは」


「はい」


「珍しい魚を見てもらいたいんだって? さあ、入って」


 研究室のなかに招き入れられる。机は雑多な書類や本で埋め尽くされており、かろうじて空いていたスペースに、僕はランドセルを置いて、透がプリントしてくれたマリンの写真を取りだした。


「んん? それは魚じゃないよ。人間じゃないか」


「いえ、魚です。人魚です」


「人魚お!? よくできた合成だが……しかし」


 財前教授は僕から写真をひったくり、しげしげと眺めた。


「坊主。大人をからかうもんじゃないよ。よくできた、美しい合成写真だが……」


「合成じゃありません。本物です。疑うなら、僕についてきてください。マリンは僕を見たら、出てくるから。警戒するかもしれないから、教授は隠れていてください」


 僕が自信満々に言い切ると、財前教授はしばし考え込んでいた。


「まあ……今日は暇だから、君に付き合ってあげよう。だが、うそだとわかったら猛烈に怒るぞ。それでいいんだな?」


 クマのような教授に怒られるところを想像して、僕は身をすくめたが、すぐにうなずいた。


「あの、人魚が本当だったら僕ってお金をもらえますか? 僕のうち、貧乏で……」


「うん? そりゃあ、本物の人魚なら大発見だからね。政府から君の家に振り込まれるだろうよ」


 透の敵を取れて、更にお金ももらえるなんて。嬉しいことばかりだ。




 僕は財前教授の車に乗せてもらって、いつも海釣りをしていたあたりに向かった。


 財前教授は車から見ると言って、海から少し離れたところに車を停めていた。彼の手には、双眼鏡がある。


 僕はいつものように、デッキの上を走って、海を見下ろす位置にたたずんだ。


 しばらくして、ぱしゃんと音がしてマリンが姿を現した。


 僕は笑顔を浮かべて、彼女に手を伸ばす。


 マリンは不審そうな顔をしていた。透がいないからだろう。


「透は、来れなくなったんだ。マリン、また前みたいに、ここに来て」


 僕が辛抱強く待っていると、マリンが寄ってきて僕の手をつかんだ。


 ひとりでは重すぎたが、僕は踏ん張ってマリンを引きあげた。


 ばんっ、と音がして、財前教授が車から出てくる。


 怯えたマリンが海に戻ろうとしたので、僕は彼女を抱きすくめた。


 外見からして、なんとなく花の匂いがするのかと思いきや、マリンは磯臭い。釣った魚の臭いと、そう変わらなかった。


「こりゃあ、大発見だ。お手柄だぞ、坊主」


 財前教授は、手に大きな箱を持っていた。ちょうど、子供がひとり入れる大きさだ。


 教授はその箱にマリンを放り込み、一旦車に戻った。


 帰ってきた財前教授は水色のバケツを持っており、それで海の水をすくって、マリンがじたばたする箱のなかに入れていった。


 何往復かして、ようやくマリンの半分ぐらいが、海水に浸かる。


「一旦、大学で保護する。坊主、連絡先は?」


「……あ、お母さんの携帯電話でいいですか? 僕、スマホ持ってなくて。家の電話はないし」


「ああ」


 財前教授はポケットから取り出したスマホを取り出し、しばらく操作したあと、それを僕に渡した。


 僕は教授の電話帳に、名前と電話番号を入力した。


「また連絡するよ。半信半疑だったが、来た甲斐があった。まさか人魚が見つかるとは。令和初の大発見になるぞ。君も有名になるかもな」


「……テレビとか来たら、困ります」


「誇らしげにすれば、いいのに。……まあ、君が取材されたくないというのなら、報道関係者には伏せておくよ。君の発見だというのは、ちゃんと伝えるから心配しなくていい」


 よいせ、と財前教授は箱を持ち上げて、えっちらおっちら運び始める。


「帰りは、ひとりで帰れるか?」


「はい。あの先生」


「なんだね?」


 財前教授は箱を車の後部座席に乗せ、ガムテープを使って固定していた。


 その背中に向かって、思い切って問いかける。


「人魚が災いを呼ぶって、本当ですか?」


「それは迷信だよ。不老不死伝説と同じたぐいのね」


 きっぱりと言われて、僕は血の気が引くのを感じた。


「迷信なんですか? で、でもマリンと出逢ってから、僕の友達が死んでしまったんです」


「それは残念なことだが、お友達の死は偶然だろう。私は理系だからね。科学的じゃないことは信じない。人魚はたしかに未知の生き物だが、災いを呼ぶ生物なんか存在しないよ。まだ不老不死のほうが、可能性があるぐらいだ。人魚の肉の解析は、まだ行われていないからね。彼女は貴重な生物として、適切に扱う。それじゃあね。また連絡するよ」


 教授の車が走り去っていく。僕は無駄とわかって、車を追いかけようとして――やはり、やめておいた。




 後日、母の携帯に着信があった。


「秋立。財前ってひとからよ。大学の先生ですって」


 日曜の昼下がりで、母のパートは今日休みだった。


 僕と母が、ふたり並んで昼寝をしていたときに、かかってきたのだ。


 母の仕事中にかかってこなくてよかったと思いながら、僕は電話に出る。


「もしもし」


『やあ、秋立くん。人魚は、無事に政府の施設で飼育されることが決まったよ』


「あの……ひどいこととか、してないですか。解剖、とか」


『貴重な生体に危害を加えるようなことは、していないよ。実験のために細胞をもらったりはするが、一部だけだ。解剖はしないから、安心しなさい。それより、君のうちの口座番号を教えてくれ。そこに振り込まれるから』


「……それは、僕にはわからないので、お母さんに代わっていいですか」


『ああ、もちろんだ』


 僕がスマホを差し出すと、母は不思議そうな顔をしながら、電話に応じていた。


「――はい。あらまあ、うちの秋立が、そんな大発見を。……わかりました。口座番号ですね」


 電話を終えた母は、僕に向き直る。


「今日、外食しよっか。実は、会わせたいひとがいるの」


 嫌な予感がしたけれど、僕はうなずくしかなかった。


 


 その夜、再婚したいと思っているの、と母に西堂さんという男性を紹介された。


 母と西堂さんは結婚した。僕に反対する理由はなかった。


 西堂さんは大企業に勤めるサラリーマンで、僕も母も裕福になった。ボロボロのアパートから出て、新築のマンションに引っ越した。


 政府からの振り込みは、僕らが引っ越してから行われた。


「結構な額だから、とりあえず貯金しとくわ。あんたの発見なんだし、あんたのために使いなさいね」


 母は僕用の通帳を作ったら、そのお金を移すと言ってくれた。


 僕はあのお金で、貧困から抜け出して母を幸せにするつもりだった。だが、そんな必要はなかったのだ。


 人魚が災いを呼ぶというのは迷信で、マリンを売った金は生活に影響しなかった。僕の行いは誰も幸せにしなかったどころか、ひとりの女の子を突き落とした。


 その頃から、僕は魚を一切受け付けなくなった。


 おそらく、マリンへの罪悪感からだろう。


 一部、と言ったが「腕まるごと」を切り取って実験していたらどうしよう、と悩んで夢にうなされることもあった。







 ベッドに横たわってつらつら昔のことを思い出していたら、気分はマシになるどころか、ますます気持ち悪くなってきた。


 気分転換でもしようと鞄からスマホを取り出し、ネットサーフィンをしていると、ニュースサイトの記事が目にとまった。


『最初の人魚、堂々の再来日!』


 マリンは、世界中の水族館で見世物になっていた。マリンの声を使って他の人魚を呼び寄せ、ほかにも何体かの捕獲に成功したらしいが、お披露目されている人魚はまだマリンだけだ。


「……来るのか」




 僕はひとでごった返した水族館に行って、吐き気と戦いながら、大きな水槽に近づいた。


「マリン」


 名を呼ぶと、マリンは僕と分厚いガラス越しに目を合わせてくれた。


 彼女の顔には憎しみも怒りもなく、しかし笑顔もなかった。


 許さない、という声が聞こえた気がした。しかし、マリンの口は動いていない。


 許さないという声は、僕の心の奥底から湧いていたのだ。


 僕は僕を、絶対に許せない。許さない。


「……ごめん」


 謝っても、どうにもならない。後悔のあまり、涙が出た。周囲がざわついても、気にならなかった。


 僕は永遠に、罪を背負っていくのだろう。


(了)


 

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